執筆者:金岡 正洋(ブラジル中央協会 常務理事)

サンパウロ(Sao Paulo)75-79
リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)79-81

「ブラジルで何か事業をやれないような本部長はクビだ!」と言った雰囲気があり各部門が事業を立ち上げ、駐在員を増員して来ました。当時業務本部長であった元陸軍大本営参謀出身のS専務(山崎豊子の小説「不毛地帯」の主人公のモデルにもなった)の旗振りのもと当社のブラジル進攻作戦が本格化し始めた頃私は3年ぶりに今度は駐在員(ブラジル会社金属部所属)としてサンパウロに赴任しました。その間結婚し家内と誕生間もない娘を帯同しての駐在でした。確かに当時のブラジルは急速な発展途上にあり「ブラジルの奇跡」とか「未来の大国」と呼ばれ資源も豊富なことから商社に取っては海外戦略上の重要拠点と位置付けやすい対象であったのでしょう。

千客万来:上述したような状況でしたので私の赴任した時には日本からの駐在員が50-60人(事業への出向者を含む)もおり店は大変な活況を呈しておりました。訪問客も社内外相次ぎ昼は仕事、商談、夜はアテンドと息をつく暇もないほどでした。勿論仕事の関連が殆どでしたが中には次に述べる様な変わった客先もいました。

宝塚歌劇団:駐在中宝塚歌劇団(月組)がサオ、リオで公演する為にブラジルにやって来ました。偶々当社の役員が大阪の自民党大物代議士と昵懇でその代議士が歌劇団の後援会長を務めていた事から現地でのアテンドを当社に依頼して来ました。社内で検討結果私を含め比較的若手の駐在員数名でアテンドする事になりました。私自身は5-6名のヅカガールのアテンドを仰せつかり食事を共にし、その後お土産購入の為現地の宝石店にお連れしました。役柄とは言え楽しい時間を過ごしましたがその中に当時売り出し中の大地真央さんがいたのです。未だ準スター級の扱いで私自身其れほど美人とは思いませんでしたが矢張り何かキラリと光るものが有ったのです。確か、ソロでマシュケナーダを歌ったかと覚えておりますがその後の彼女の活躍ぶりは皆さんご存知の通りです。一緒にアテンドした同僚の中にはチャッカリサントスまで遠出をしたツワモノもおりこのヅカガールのアテンドが余程気に入ったのか次のリオでの公演 にも出張と称して付いて行きました。

 

大物総会屋:会社として当時は未だ総会屋なる方々との付き合いがありその中でも格段に大物である関東系S連合会副会長が来泊されることになり失礼の無いよう総支配人以下店をあげて丁重な接待を行うことになりました。紹介状にW大卒の見識豊かな立派な方なので宜しくとのことでした。総支配人邸で食事を差し上げることになり私も末席に連なりました。和服姿でお越しになり確かに古武士然とした風格のある方で流石に総会屋でも超大物となると違うなあと皆で呟きあったものです。先ず皆で乾杯する事になり彼の好物だというトマトジュースとビールを混ぜたカクテル(今で言う“レッドアイ”)を彼のグラスに注ぎ皆もそれを真似て一斉に祝杯を挙げました。(このへん多少漫画チック)

その後日本食を差し上げ話も弾み接待は上首尾に終わり彼は満足して引き上げられました。唯、お客が帰られた後先輩格の駐在員が私に小声で「君は見たかね。乾杯の時彼の手を見たが小指の先が無かったね」と呟いたことを強烈に覚えています。尚、その客からは帰国後総支配人宛てに毛筆で認めた立派な礼状が寄こされたのを見せて貰いました。

 

サンパウロの夜:上述の様に仕事と接待に明け暮れた日々でしたがサンパウロの夜に付いて少し書いてみましょう。当時、仕事と客先アテンド用に社有の大型車ギャラクシー(フォード社製)が6-7台も有り、その為の運転手も雇っていました。夜毎に当時一流料亭であった「赤坂」「本丸」の前には各社のギャラクシーがズラリと列をなし待機しているのが壮観でした。食事の後は大体ナイトクラブにお連れするのが常でしたが日系ではブリガデイロ通りにある「モンブラン」(2階にあり駐在員は此処に行くのを“お山に登る”と符丁で話していた)、アウグスタ通りにある「ビブロス」「ラメール」等が流行っておりました。後にはリベルダージにある「リベルチプラザ」が隆盛を誇りました。又、現地系ではセントロ(町の中心街)にある「キルトクラブ」「ヴァゴン」「スカラボッキョ」などが繁盛していました。又、別格として南米一のキャバレー「ラ・リコルネ」が有名でありショーも含めてブラジルの「ムーランルージュ」的存在でした。これらのクラブには多数のホステス嬢(日系、非日系を問わずあらゆる国のルーツの女性がいた)が在籍し彼女たちとの会話で語学力を上げる(ヨルトゲースの勉強)というのが夜な夜な訪問する我々の言い分でした。

嘘つき(Mentiroso):仕事の話も少ししましょう。ブラジル金属部の客先に冷蔵庫、冷凍機を作っている電気メーカーM社があり其処に我々は日本製の冷延鋼板を収めていました。

最初取引は順調でしたがある時期から支払いが滞り始め、終いには全く支払いを行わなくなりました。何度も同社を訪問して督促をするのですが埒が明かず遂に担当者の私に加え上司である部長にも出馬願い同社のオーナー社長と直談判することになりました。この部長はブラジル赴任前の若い時期にNYKに長く駐在していたこともあり米国流のスマートなビジネススタイルが身に付いた方でした。この部長が社長を前にこれ以上支払いが出来ないとなれば取引を停止せざるを得ない事、又場合によっては法的手段に訴えざるを得ない事を縷々話すのですが先方は言を左右して埒が明かず時間が経過するばかりでした。 とうとうこの部長も堪忍袋の緒が切れ相手に向かい「貴方は期日通りに支払いを約束しそれを実行しない。貴方は嘘をついた、嘘つきだ」と言い放ったのです。その時の先方の対応が強烈でした。顔を真っ赤にして座っていた椅子をくるりと後ろに廻し背中を向いたまま「お前とは二度と話をしたくない。帰って呉れ」と言うのです。自分が不払いを起こしていて図々しい、良く言うなという気持ちですが彼の言い分はこうです。「契約をした時には約定通りに払う積りであった。ところが状況が変わり製品が売れず資金繰りが苦しくなったが銀行も貸付枠を増やして呉れず。やむなく支払いが滞っている。それを嘘をついたとは何事だ。お前とは二度と仕事をしたくない」と言う訳です。 良く考えればその言い分にも理屈がありその後私も駐在が長くなるに従い似たようなケースに遭遇する事が多くなりました。私自身も段々とこのM社社長の言い分もおかしくは無いのではと思うようになりました。不思議なものですね。幸いその社長とはその後支払いを更に多少先延ばしすることで話が付き(勿論部長はその交渉には参加していません)その後支払いも完了し事なきを得ました。

要はどんな事情であれ相手の人間性を疑うようなことは言わない方が良いという事でしょうか。

 

そんなこんなで今回の駐在の6年間は過ぎて行きました。

兎に角、「良く学びよく遊べ」では有りませんが昼夜を通し「良く働き、良く遊べ」を実践しました。当時のブラジルは私自身が若かった事もあり荒々しくも活気と希望に満ちた国でありました。

(後に続くー不定期連載)

連載31: ブラジルの光と影①