執筆者:川﨑 代治 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

リオ着任

 1978年1月リオ・デ・ジャネイロのガレオン空港に着いた私は到着早々出迎えに来ていただいた当時のブラジル三菱商事(通称伯三)リオ支店長の小林さんから「君をリオ支店の宴会部長に任命する」と言われて驚いた。 「宴会部長と言うのは何をするのですか」

「リオにはカーニバルと言う世界一のお祭りがあり毎年日本からたくさんのお客さんが来られる。その方たちがカーニバルとは何かが一目で分かるガイド・ブックを作って欲しい。それから社宅でお客さんが来られた時は自分が歌、手品、人形芝居などをやるから君は幕間に歌でも歌ってくれ」

 

カーニバル

3月のカーニバルまで僅かしか時間がない。前任者との引継ぎもあり退社後や休日を利用してガイド・ブック作りを始めた。先ずはカーニバルの歴史を調べた。次に参加チームの主題歌を日本語に翻訳し各年度の優勝チームのリストを作った。リオのカーニバルと言っても大きく分けて三つある。一つ目はEscola de sambaと呼ばれて大通りをパレードするもの。当時は一軍。二軍、三軍に分かれて一軍はPresidente Vargas大通りに立派な観客席を作り十数チームが参加する。二軍はRio Branco通り、三軍はそれぞれの地元で踊る。1チーム3-5,000人で山車に乗る有名人destaque ,チームの旗持ちporta-bandeira, 華麗な踊りを披露するsambista, 東北地方の衣装を着たbaiana, 音楽を担当するbateria, その他大勢?のpeaoで構成されその長さは数キロに及ぶ。前年の秋には各チームのその年のテーマが発表され主題歌のレコードが発売される。出場者は勿論のことカリオカ達は贔屓のチームの歌を覚え観客席で、テレビの前で一緒に歌い、一緒に踊る。現在のコンクリート造りの専用会場sambadromoと違い、当時は鉄パイプ造りの観客席だったのでそれぞれのチームが行進するときは観客全員

カーニバルの様子

が踊りだし観客席がユッサユッサと揺れて、危うく落ちそうになった思い出がある。一番大変だったのは100万人とも言われる大勢の人ごみの中で日本からのお客さんをスリから守ったりはぐれないように誘導することで、自分が楽しむどころではなかった。二つ目のカーニバルは市内のあちこちにある高級クラブで行われる仮装パーティーで、芸能人、サッカー選手など有名人たちも大勢参加する。私の家はたまたまZico率いるFlamengoの隣だったのでチーム主催のパーティに息子を連れて出かけて行った。ところが会場に入るや「子供は出入り禁止」と怒鳴られた。後で知ったが興奮のあまり女性たちが半裸姿で朝まで踊り明かすのだ。残念であった。三つ目のカーニバルはリオ市内のあちらこちらで行われるサンバの集会で誰でも参加できる。

日本で良く知られているのは一つ目の一軍のパレードであろう。私は三年ほど日本のお客さんを案内して確信した。カーニバルはは観るものではなく自分が踊るものだと。まさに「踊らにゃそんそん」である。ところがクラブの仮装パーティーは別として本来カーニバルは映画「黒いオルフェ」に出てくるように貧民窟であるFavelaの人たちのお祭りなのでどうしたらチームに入会出来るか分からない。ブラジル人の職員たちは口を揃えて危ないから行かない方が良いと言う。

 

Salgueiroとの出会い

そんなある日行きつけのカイロプラクティックでその話をしたら患者に有名チームの一つのSalgueiroの幹部がいると言う。私は渡りに船とばかりその話に飛びつき毎週行われる合同練習に会社の後輩を連れて出かけて行き、その人アラジーおじさんに会いに行った。アラジーおじさんはすぐさまSalgueiroのPresidennteのもとに私達を連れて行き入会の許可を求めた。するとPresidenteはチームの幹部を全員集め、「今日から彼らは我々の仲間だ。彼らを皆で守ってあげるように」と宣言してくれた。それから我々は練習のたびごとにアラジーおじさんの家に呼ばれ家族全員と食事をするなどリオの別の顔をエンジョイすることができた。

日経新聞【1984.3.3】 ※クリックで拡大できます

カーニバルには1982年から三年間出場したが、一年目はPresidente Vargas大通り、二年目以降は新設なった常設会場Sanbadromoで踊ることが出来た。先ずは2-3か月前から毎週練習に参加する。我々はその他大勢のpeaoなので難しい踊りは不要だが取りあえずチームのテーマ・ソングを完璧に覚えbateriaに合わせ大声で歌わなければならない。観客の方を向きながら楽しそうな笑顔を見せなければならない。それも順位を決める

審査員の重要な審査ポイントになるからだ。だらだらやっているとリーダーからすぐに叱声が飛ぶ。三年目の1984年日経新聞のサンパウロ支局から練習風景を取材したいと申し入れがあり3月3日の夕刊に「ブラジル・サンバ踊らにゃ」の記事が掲載された。その時の記者が何と当協会の和田常務理事だとつい最近教えてもらい、あまりのご縁にびっくりしたものであった。

私が参加した当時はBeija Flor, Mangueira, Vial Isabelなどが強豪チームで、我がSalgueiroは5-7位くらいであったが私が日本に帰国後も三菱商事リオ支店の有志が毎年参加し続け数年後にはついに優勝したと聞き大変嬉しかった。

帰国

1984年6月にいよいよリオを離れる日、普通だと同僚や子供の同級生たちが見送ってくれるのが通常の駐在員の帰国時の空港風景だと思うが、突然Salgueiroの仲間、数十人が現れ太鼓を叩き、歌いながら踊り始めたのにはびっくりした。見送りのホールは時ならぬカーニバルの会場と化した。「えっ!わざわざ見送りに来てくれたの?」と言う私にアラジーおじさんが「我々は仲間だ。当り前じゃないか」と答えた。リオを離れる悲しみが急に襲うと同時に自分もやっとCariocaになれたとの思いがした。