執筆者:後藤 猛 氏
(元在ポルトアレグレ領事事務所長)

 私は、昨年外務省を退職しましたが、その間在外公館勤務では、ポルトガル、イタリア、ブラジルに在勤し、中でもブラジルが一番永く約20年に渡り、北は、マナウス、レシフェ、そして中部サンパウロ、最後に南部のポルトアレグレに在勤し、各地で様々な体験を致しました。
豊かな自然と豊富な天然資源に恵まれた南米の大国ブラジルは、広大で各地にそれぞれ特色のある独特の文化を持ち、こうした地域差のあることを地元の人は、「ブラジルは、石器時代から21世紀までの社会が混然と存在するんだ」と冗談まじりに語ってくれました。確かにアマゾンの奥地には、現在社会と接触を持たず、ゆったりと生活している人々がいると思えば、俗に南米のニューヨークと呼ばれるサンパウロのような近代都市もあります。
今回、私のブラジルでの体験の中で平成4年から8年までマナウスで勤務した時の当時の様子を少しお話しさせて頂きます。
マナウスは、世界的規模の熱帯雨林を有するアマゾン地域にありますが、上空から見下ろすと、ブロッコリーを敷き詰めたような熱帯雨林の中に忽然とその姿を現します。

マナウスの港風景

現在人口は、約200万人となり、街の中心部は、ビルが林立する大都会に発展していますが、当時の人口は、今の半分約100万人位でした。
また、マナウスは、かつて天然ゴムの生産地として栄えました。アマゾンからゴムのヨーロッパへの輸出は、19世紀の初めから行われていましたが、1888年のダンロップによるゴムタイヤの発明、それに伴う自動車の普及がゴムの国際価格を急騰させました。そのため、19世紀から20世記にかけてアマゾナス地域は、世界唯一のゴムの産地として空前の繁栄を遂げることになったのです。地方の小さな街に過ぎなかったマナウスに大通りが開かれ、輸入石で舗装されるなど、ヨーロッパの街に匹敵するほどの栄華を極めました。
アマゾナス劇場をはじめ、今も残る建築物は、その時代に、しかもイタリアの大理石等輸入材料で作られました。
ところが、イギリス人によってアマゾンのゴムがマレーシアに持ち込まれて以来、ゴム市場の独占が崩れ、マナウスの繁栄は、1951年頃より急速に衰退してしまいます。しかし、1967年にフリーゾーンに指定されて以来再び活況を呈し、現在は、西部アマゾン最大の都市として、多くの日系企業が進出しています。
マナウスの気候は、年間を通じて高温多湿の熱帯雨林気候で、乾季と雨季に大別され、平均湿度は80%であり、空気が体にまとわりつくような感じです。
マナウスに赴任して最初に行ったことは、飛行機のタラップを降りた途端に曇った眼鏡のガラスを拭いたことだと記憶しています。

従って、年間を通じて半袖シャツで過ごし、当時は、公式行事の際の服装として、長袖シャツで良しとされていました。ただ、非常にまれですが、アンデスから吹き降ろす寒気の影響で20度以下に下がることがあり、その時など、地元の新聞には、「寒いマナウス」という見出しが出ることもありました。
私が当時在勤していた際は、まだ、水道の事情が悪く、自宅近くに天然水をくみ上げて販売している所があり、そこまで、週2回ガラファン(20リッター入る容器)4本を車に積み、天然水の販売所まで車で買いに行っていました。その販売所の先の道路沿いには、墓地があることから、人から「あそこの天然水は、特にカルシュウムを豊富に含んでいるので、おいしいよ・・・・」と冷やかされていました。
大自然の中、原始林と無数の河川から成るアマゾンの素晴らしいところは、そこに生息する様々な動物に実際に触れ、体験できるところでした。
当時、マナウス日本人学校に行く道沿いの沼のあたりにワニ(カイマン)やナマケモノも見かけたり、ある時、学校の先生が、校内にいたイグワナに触ったところ、引っかかれたりしたことが起こっていました。
マナウスから船で3時間から6時間ほど行ったジャングルの中に、アマゾンのジャングル体験をテーマにしたホテルがいくつもありました。天然の薬草に包まれたようなジャングルの静けさの中に音と言えば、鳥の鳴き声や時折魚が跳ねる音等が聞こえる静けさだけの世界で、真に新鮮な空気と共に非常に贅沢な一時を過ごすことが出来ました。
ここに滞在すれば、ピラニア釣り、ワニ狩り等のプログラムに参加できるのです。ワニ狩りといっても、捕獲して殺してしまうわけではありません。夜、ホテルをボートで出発し、懐中電灯を川岸に向けながらワニを探します。ライトがワニの目に当たり反射したら、その方向にボートを一目散に進め、手慣れたガイドがワニを捕まえます。そして、観光客に真に正真正銘の「本革のワニの感触」を味わさせた後、川に戻すのです。アマゾン川といえばピラニアをイメージする人も多いと思いますが、一口にピラニアといっても種類も多く、一番大きい黒ピラニアは、体長が40センチほどあります。これは、スープの具にするとおいしく頂けます。また、ピラルクのフライや、タンバキの炭火焼きなども美味でした。

ジャングルロッジ

因みに地元旅行者の方の話を聞くと日本人及びアメリカ人が利用するジャングルホテルは、屋外でのツアー参加後は、シャワーや部屋には、冷えたビールのある冷蔵庫が完備されているようなホテルを好み、フランス人、ドイツ人は、電気もなにもない全くの自然の中のホテルを好むそうです。
マナウス在勤を終え、文化の誉高いミラノに転勤し、真にネイチャーからカルチャーの世界を体験しました。
イタリア人のライフスタイルがブラジル人の雰囲気に似ており、その点違和感なく生活に溶け込むことが出来ました。バールでの主人と客、そしてそこにたまたま居合わせた同士があたかも旧知の友のごとく会話を弾ませ、ゆったりとした時間を楽しんでいる様子も似ています。ブラジル人のライフスタイルのルーツは実は、イタリアにあるのではないかとその時感じました。
ブラジルへの日本人移住は、1908年に始まり、今や日系5世の時代になって各分野でブラジルの発展のために大いに貢献しています。イタリア人のブラジル移住は、1820年に始まり、ピーク時の1890年には、約67万人が移住しています。サンパウロでは、コーヒー園等に入植したイタリア人も多く、今や政財界をはじめ各界で活躍しています。
私は、大阪出身ですが、大阪では、電車の中で、客同士がよく話しているのを見かけます。また、しばしば、まったく知らない人から身内話を話かけてこられることもありますが、こちらも構えることなく、自然と話しに応じています。
また、大阪からブラジルに帰国したブラジル人留学生に大阪での生活の印象を聞いてみると、大阪では、スムーズに人と溶け込むことが出来たと聞いており、逆もしかりという印象を受けました。
期せずしてサンパウロとミラノは、大阪との姉妹都市提携を結んでおります。大阪人のライフスタイルは、他の者を拒まず、そして「食い倒れ」に象徴されるように生活を楽しもうといったところがあり、笑いがあり、個人主義的なところは、イタリア人やブラジル人のライフスタイルにどこか似ている面があるように思います。