執筆者:杉浦和子 氏
(長唄東音会 師範会友)

「私と長唄」

「第5回和の会」(2002年5月)の演奏会終了後の記念写真

私が長唄に興味を持ったのは高校入学直後のことでした。学校からの帰宅時に「長唄教室」の看板を見つけ、父に「長唄ってなあに。習ってみようかな」と尋ねたことに始まります。父は、早速、知人の師匠のところに弟子入りさせてくれました。毎日稽古で、2年間ほど通いました。始めてから8カ月たった頃、新宿伊勢丹ホールで師匠のお浚い会があり、初めて舞台に立ちました。師匠に褒められたこともあり、期待いっぱいで稽古を続けることになりました。長唄を通じて古典文学に興味を持ち、大学は国文科に進学しました。

高校3年の2学期に、師匠が交代することになり、父は、新たに東京藝術大学の邦楽科長唄専攻の若手助手の菊岡裕晃氏に入門させてくれました。菊岡氏はその後教授に就任され、芸大の邦楽科の名声を高められました。大学を卒業後、東京藝大への入学を勧められ、邦楽科別科に進学しましたが、1965年に結婚のため、中退することになりました。

 

「最初のブラジル」

私の主人は、三菱金属(三菱マテリアル)の鉱山技師で、1967年から69年までブラジルの最南端のリオ・グランデ・ド・スル州のカマクアン鉱山に派遣されました。私も生後10ヶ月の長女とともに赴任しました。周辺の地域には、日系人はほとんどいませんでした。

そのため、ポルトガル語の勉強には大いに役立ちました。ブラジルから帰国後、元の菊岡藝大教授の稽古場に通い、「長唄東音会」(藝大関係者による演奏団体)の師範資格試験に合格し、以後ずっと長唄協会にも参加しています。長唄東音会の事務仕事も委託されるようになり、演奏会の組織、実施方法なども実地に学ぶことができました。このことが、後のブラジルにおける様々な催しの企画・組織に役に立つことになりました。また平行して、長唄囃子堅田流の女性演奏家に入門し、小鼓、太鼓などの稽古も続けてきました。

「あたま山」を演奏するメンバー 「第5回和の会」

「再びブラジルへ」

1993年5月、主人が新会社設立のため、サンパウロに赴任することになりました。現地の人々との交流を積極的に図るのが会社の方針でしたので、私も三味線を通じて現地の人々との交流を深め、日本の伝統文化の普及活動を開始しました。ブラジルには日本からの移住者が多いこともあって、琴、三味線、尺八、和太鼓などの楽器、各県人会などによる民謡の歌・踊りは盛んでしたが、歌舞伎音楽の長唄を教える師匠はいませんでした。最初は、駐在員夫人や娘さんに長唄三味線を教えていましたが、筝曲の指導者である斉藤師匠の教室で長唄を披露したところ、斉藤師匠自ら「長唄を稽古したい」、「稽古場の生徒にも教えて欲しい」ということになりました。1996年3月から、琴や地唄の三味線のお弟子さんたち、8名にボランテイアとして長唄の指導に参加することになりました。

 

「サンパウロ長唄和の会の結成」

96年には、徐々に長唄を紹介・披露する機会が出てきました。96年5月には、ゴイアス州のリオ・ケンチでの日本週間に招待され、琴と三味線を合奏して長唄を披露。また「南米産業開発青年隊」の40周年記念式典にも招かれ,「茶音頭」や「秋の調べ」を唄いました。97年3月には、長唄の稽古を始めてから1年が経ちましたので、「第1回長唄発表会」を行いました。参加者は9名で、全員が唄・三味線に参加し、それまで練習した「元禄風花見踊」、「小鍛治」、「勧進帳」、「越後獅子」、「鶴亀」、「神田祭」、「五郎時致」の7曲を披露しました。発表会をきっかけに、長唄グループとして「サンパウロ長唄和の会」を結成することにしました。「和」には、日本・和気・親和・調和・音楽のハーモニーの意味があり、「和の会」と名付けたものです。

97年10月には、斉藤師匠の筝曲演奏会が、文協小ホールで行われ、長唄も披露するとともに花柳流の舞踊の演奏も行いました。これ以降、三味線の実施は、「和の会」独自の活動となりました。少しずつ、私たちの活動を理解し、支援して下さる方も出てきました。稽古事を行う場合、常に練習所をいかに見つけるかが大きな問題ですが、南米日本棋院の理事長から、ボランテイアで活動するというのであれば、棋院の和室を貸与するというありがたい申し出があり、現在に至るまで使用させていただいています。その結果、多くの方々が見学に来ていただけるようになりましたし、三味線の体験ができるようになりました。

「紀州道成寺」を演奏するメンバー 「第5回和の会」

98年6月には、第2回「和の会」が三重県人会大ホールで開催されました。「和の会」単独の主催で、12名が参加し、第1回目に披露した曲に加え、「吾妻八景」、「連獅子」,「外記猿」、「都風流」等を加えました。多数の来場者があり、うれしく思ったものです。浅草の手拭屋で「サンパウロ和の会」(98年)を入れて桜の花ビラをデザインした手拭いを制作し、来場者に配りました。それ以降、手拭いやウチワを配るようにしています。手間暇はかかりますが、参加者には大変喜んでいただいています。

99年4月で、主人の任期が終了するので、後任社長の紹介を兼ねて、送別会を開催し、長唄の紹介も行いました。

99年5月には、「第3回和の会」を、三重県人会で行いました。参加者は12名で、新たに「娘7種」、「網館」、「秋の色種」、「蓬莱」、「プリマヴェラ」を加えました。プリマヴェーラは、春のテーマの童謡などのメドレーを私が構成したものです。

 

「帰国後も活動継続」

1999年に、日本に帰国しましたが、「和の会」の活動の継続のため、日本からサンパウロにその都度出かけることになりました。2000年10月に、「第4回和の会」が栃木県人会館で開催しました。参加者は、10名でした。私は、その準備のため、2月初旬から3月末まで、本番時には、9月中旬から12月初旬までサンパウロに滞在しました。この時には、日本からの演奏者も参加していただきました。新しい曲として、「鞍馬山」、「菖蒲浴衣」、「靭猿」が加わりました。

その後、「第5回和の会」の準備のため2001年5月と11月の2回、それぞれ1カ月程滞在し、練習を行いました。「第5回和の会」は、2002年5月に栃木県人会館で開催されました。参加者は11名ですが、2名の新人が入会しました。最初から三味線は、無理なので即席で太鼓を教え、曲の雰囲気を盛り上げさせる役を担ってもらいました。今回も新曲として、安藤鶴夫作詞、「長唄東音会」の創始者である山田抄太郎東京藝大教授作曲の新作長唄の「あたま山」を披露しました。「あたま山」の歌詞の一部に短い台詞、例えば「頭が大きい」という表現をポルトガル語で演奏したりして、客席の笑いを誘い、大いに盛り上がりました。この時も4月に訪伯市、稽古のため7月まで滞在しました。

「和の会」や「小さな和の会」の組織と練習のため毎年、2回くらい、日本とブラジルを往復しました。

2004年8月に開催しました「第6回和の会」では、新曲として、池田弥三郎作詞、山田抄太郎作曲の「雨の四季」を紹介しましたが、曲中に様々な手作り飴の飴売りの呼び込み台詞がありましたので、その一部を「ブラジル名産コーヒー飴」に変えて唄う等の工夫を凝らし観客に喜んでいただきました。ブラジルの来場者の皆様が、良く理解していただくにはどうすればいいかをいつも考えています。

 

「ブラジル全土に長唄を広める」

2005年5月に、「和の会」の練習のため訪伯しました際に、文協の方と話す機会があり、日本からの長唄演奏家による演奏会は今まで開催されたことがないということでした。また各地を訪問し、長唄のことを説明しますと是非ともやって欲しいとの感触を得ました。そこで、長唄の演奏会をブラジル各地で開催する計画に着手しました。また一連の活動が認められ、国際交流基金の支援も得られることになりました。

そして、2006年6月には、「長唄・囃子の会南米公演」の開催にこぎつけることが出来ました。具体的には、下記の都市で公演しました。

*リオデジャネイロ市(@リオ総領事館文化センター)、入場者165名

*サンパウロ市(@文協大ホール)、ワークショップ、23名、公演、1,000名、藤間

流、花柳流の両派が参加、和の会も出演

*ポルトアレグレ市(@PUC,リオ・グランデ・ド・スル州カトリック大学講堂)、入場

者、400名

*モジ・ダス・クルーゼス市(@市民劇場)入場者、350名 で公演しました。その機会に、アルゼンチンのブエノスアイレスにも足を伸ばし、日本庭園ホールで公演しました。各地では、いろいろな方にお世話になりました。ポルトアレグレでは、カトリック大学教授の森口幸雄博士、モジでは、キリスト教の合唱団との共演でしたが、教会ではなく、市民劇場を貸与してくれました。演奏家の旅費、滞在費は、主人が負担しました。各会場は無料であったため、出演者も出演料を遠慮してくれました。同時に第7回和の会も実施しました。

 

「各地の日本祭りへの参加」

その後も、2006年10月、2007年2月、7月、2008年2月、7月、2009年10月、2010年5月、10月、12月に、和の会の準備や稽古、その他いくつかの長唄披露、「第2回長唄・囃子の会」の準備のために訪伯しました。2011年1月には、「藤間流踊り初め」を行い、2011年7月から8月にかけ、前回と同様に、「第2回長唄・囃子の会」を国際交流基金の支援も受け、開催の計画を立て、準備を進めていましたが、3月11日の東北大震災のため中止となりました。歌舞音曲を控えたためです。

その後、2012年1月、長唄稽古のため訪伯、2013年1月にも訪伯し、ポルトアレグレの婦人会集会で長唄を披露。この時、ブラジル人の男性3名が三味線の学習を始めました。

2014年頃から各地の日本祭り(FESTIVAL DO JAPAO)に参加し始めました。最初は、2014年8月のポルトアレグレの日本祭りです。サンパウロから6名が参加し、演奏しました。8月2日には、安倍総理がサンパウロの文協に来られた時には、一緒に写真を取っていただくとともに、「日本文化を広めて欲しい」と激励の言葉もいただきました。その後も年2回くらい訪伯し、ブラジルの方々に長唄を楽しんでいただいています。2016年6月には、「藤間流舞踊大会」に長唄7名、囃子方2名で参加し、喜んでもらいました。

2017年のサンパウロの日本祭りでも長野県人会を通じて出演しました。その時は、演奏曲「元禄風花見踊」に藤間流が共演を希望し、舞踊付きの演奏となりました。日本祭りでは、日本の様々な伝統文化が紹介されましたが、伝統的古典舞踊は「和の会」のみでした。またロンドリーナでは、沖縄会館で「オキナワ祭り」にも参加しました。

2018年は日本移住110周年記念の年であり、サンパウロ、ポルトアレグレ、パラナ州の日本祭りでも長唄や三味線の古典芸能をブラジルの方々に楽しんでいただければと思っています。今までの活動につきましては、現地の邦字紙であるサンパウロ新聞やニッケイ新聞、その他ブラジルの新聞・雑誌にたびたび大きく取りあげていただき感謝しております。

 

三味線は、民謡、特に最近は津軽三味線画大いに期待されていますので、日本の古典伝統芸能の内、最も有力な歌舞伎音楽の長唄を、今後とも紹介したいと思います。また「和の会」は、現在では、地域の方々で構成している「長唄同好会」ですので、私も極力応援のためブラジルに通いたいと考えています。