執筆者:山岸照明 氏
(Yamagishi Consultoria Ltda. 社主、元アマゾナス日系商工会議所会頭)

アマゾンの天然ゴムのブーム は前号でお伝えした通り、1907年にはアジア産のゴムの出荷が始まりましたが、ゴムの硫化加工による利用範囲の拡張と、折からの四輪車の普及に伴うタイヤの需要に支えられ1920年代まで天然ゴムの需要は続きます。しかしアジア各地に拡大されるのゴムの生産量が需要をカバー出来る状況に成ると、高価な天然ゴム、は競争力を失い天然ゴムブームは完全に終焉を迎えます。アマゾンには 「南米葉枯れ病」と言うカビの一種が齎す病気があり、密林で他の樹木と混生しているゴム樹は感染しないのですが、ゴム樹だけ密集するゴム園では、アット言う間に伝染してしまったとのことです。

 

こうして、アマゾンのゴム産業は終わりました。現在ブラジルはゴムの輸入国です。マナウスの工業団地では日本の進出企業でも特にゴム部品の材料にアマゾンの天然ゴムの利用を考えて居られましたが、結局アメリカより 輸入されております。しかし、アマゾンの天然ゴムには 特殊な粘度、硬度の性質があり、行機の車輪、その他特殊な製品〔部品も含め〕には使用されています。

 

私事に渉り恐縮ですが、息子がEMBRAPA(ブラジル農牧研究公社)の研究員なので、人類が月に行ける時代にどうして、「南米葉枯れ病』の対策ぐらい出来ないんだ!!」、と、良く文句を言っておりました。その為、とは申しませんが、近年 EMBRAPAも漸く重たい腰を上げたらしく、この病気を媒介するカビの対策が出来たようで、荒地と化したフォードの土地で試作を開始する、との話を聞き及んでいます。アジア産のゴムと アマゾン産のゴムが競争できる日が来る事を夢見ています。

 

さて、1930年代に入ると日本よりの移民が アマゾナス州に登場します。南米への日本移民は、1899年、ペルーへの送り出しを発端に開始されています。しかし、苦しい移民生活に耐え切れず、これらの日本移民がアンデス山脈を超え、当時ゴム景気に沸き立つブラジルーアマゾンを目指し逃げ出しました。当時、ボリビア領アマゾンの町リベラルタや、ブラジルアクレ州との州境の町コビハの町は、天然ゴムの集散地として活況を呈していましたが、リベラルタには200人、コビハには100人の“ペルー下り”の日本人が働いていたそうです。その後、これ等の日本人移民はゴムの仕事が終わると、それぞれ、農牧業、砂金堀等に散らばり、一部の人々はブラジルアマゾンへ下って行ったようです。

 

私は1963年 初めてマナウスへ来たのですが、その時、ペルー下りの人がいて、お世話になったのを覚えております。

 

ここに、アマゾンの日本人移住の歴史に欠かせぬ日本人が一人現れました。大石小作氏 です。彼は明治43年、大阪高等工業学校機械学科出身、カネボウの技術部長迄、昇進後退社し、「海外雄飛」を目指しヨーロッパを回りブラジルへやって来ました。そこで、グアラナの話を聞き、興味を持ってマナウスにやって来ました。マナウスには日本人の柔術家コンデ・コマと会い、彼の助言もあり、グアラナ産地のマウエス市迄行きました。そして、アマゾナス州政府より 広大な土地を供与され、グアラナ栽培をする移民の許可も取り、日本へ帰国しました。

 

帰国後、有力政治家、有力実業等に計画を説明し、昭和3年〔1928年〕8月に25万円の資金を集め、アマゾン興行(株)を創立しました。“海外雄飛”などという言葉は、多分もう消えてしまった「言葉」と思いますが、当時の大石氏の 「お気持ち」を、私には 推察する術もありません。

しかし、明治維新以来、日清戦争(1894-1895)日露(1904年―1905年)、第一次世界大戦(1914年―1918年)と連戦連勝の日本は外国に領土を広げ世界大戦の戦勝で勝ち得た「ドイツの領土」、「太平洋の島々」を得て、国中の雰囲気が高揚し「海外雄飛」、を目指していたこと??と考えます。

 

大石氏はアマゾン興行株式会社を設立、第一次入植者49名は1930年マウエスに到着し、グアラナの栽培が始まりました。結局第二次62名、第三次8名と入植しましたが、残念なことに、1933年、マラリヤが大流行し、大半の入植者が死亡しました。大アマゾンを開拓し、そこに大和魂を基本とした一大文明社会を築こうという「崇高な夢」を描いて入植されたリーダーの崎山先生も、1941年7月に一生を閉じられました。このような悲劇的な終末で、結果は生み出されなかったのですが、この人々の子孫は立派に成長し、アマゾナス州の重要な地位で活動しています。

 

上記の如く、第一次入植者は1930年49名を皮切りに7回期生迄役員を含め385名入植しています。主な入植者は東京 世田谷に開講した国士舘高等拓殖学校の卒業生で、俗に〔高拓生」と呼ばれ、卒業後二年間アマゾンでの実習を義務付けられていました。彼らはパリンチンス近郊のヴィラ・アマゾナス地区に入植し、辻小太郎氏の指揮の下、ジュート麻の栽培に従事しました。そして1934年 尾山良太氏の耕地で二本の長繊維のジュート麻を発見し、種の採取に取り掛かります。1935年の12月には3KGほどに増えた種を商業目的で育て始めました。

 

ブラジルは、当時コーヒー豆の輸出に使うジュート麻の袋をインドより、輸入して使っていましたが、非常に高価に付くので、1890年代より、ジュートの国産を試みていましたが成功出来ずに高い袋を使っていました。そこでアマゾンでジュートが栽培されることにより、一挙に価格競争力が始まり、また、同時にゴムブームの終了後収入の途絶えたアマゾナス州の財政問題を解決したのです。そして、この種を開発した尾山氏の名前より 此のジュート麻は 「尾山種」と名付けられました。

 

一息ついたアマゾナス州は ジュート麻の旋風で歳を越し、1940年代に入ります。

1942年 第二次世界大戦が勃発、日本はアメリカ、イギリスに戦線布告し、一気に、東南アジアの国々を攻め上り、占領してしまいます。結果として、重要な戦略物資である ゴムが東南アジアの生産地より米国に供給できなく成りました。当時のルーズベルト大統領は、ブラジルよりゴムをはじめ、鉄、アルミ、マンガン等の鉱物を 取得する折衝を開始しました。ブラジルのジェトリオ・ヴァルガス大統領は、ワシントンに、アマゾンよりゴムを供給する代わりに、莫大な補助金、そのための 銀行設立、技術者の養成、マナウス、ベレン港の改修等を実行することになります。

 

ブラジル側は丁度旱魃のため、溢れかえっていた東北伯の失業者達を6万人集め、アマゾンの密林で ゴムを採取し、アメリカへ運び込む約束をします。しかし、結局 アマゾンのゴム樹は広大な面積に散在しているので、土地勘の無い外部の人間を幾ら入れても生産は上がらなかったようです。結局アマゾンに入って東北の人々は約3万人で、「ゴムの戦士」と呼ばれましたが大半の人々がマラリヤに倒れてしまいました。

その内一年も経つ内に、連合軍は反撃に転向し、日本軍が占領したアジア諸国を次々と取り返し、ゴムの供給は平常に戻り、アマゾンのゴムの必要は無くなりましたが、契約は1945年迄なので、ブラジルへの恩恵は続行しました。

一方、ブラジルは第二次世界大戦に参戦し、イタリア戦線へ派兵します。そしてブラジルの日本移民は敵性民族として、資産は取り上げられることになり、ジュートを生産したパリンチンスの ヴィラーアマゾナスも全て接収されてしまいました。

1945年が過ぎると、アマゾナス州は又、収入源を失い、アマゾナス州のみならず、連邦政府も政治、経済の混乱で インフレは高騰、1964年には 軍のクーデターが勃発し 軍政権が発足します。そして、1967年、アマゾン地域の開発、輸入商品の代替品供給、北伯国境警備の役目を担って マナウス フリーゾーンが発足します。

上記のジュート麻の開発、ブラジルX米国 WASHINGTON条約に付いてはそれぞれ一冊の本が出来るほどの エピソードがありますが、今回は結果のみをお伝えし、次の機会が出来れば、詳しくお話ししたいと思って居ります。

次回は マナウス自由港に関しお話を進めます。