執筆者:堤 壽彦 氏
(ブラジル剣道連盟 副会長)

15年ほど前、サンパウロの骨董屋の壺の中にポンとさしてあった掛け軸をそろそろと開き、『天下無双―中山博道』の揮毫が目に飛び込んだ時は、本当に心が躍りました。リオの自宅の壁に掛けているこの書に目を送るたびに、名も知らぬ剣道家がこの書を大事に行李に忍ばせ移住して来られたことに深い感慨を覚えます。中山博道範士は明治期から昭和初期まで我が国の剣道・居合道・杖道の三道範士として一時代を牽引された剣豪で、現在の日本、ひいては世界の剣道界の基礎を築いたと言っても過言ではありません。私の師匠に居合道を指導された方でもあり、地球の反対側でこの貴重な掛け軸に出会った事で、15年後の今の自分につながる因縁のようなものを感じます。10年前に三菱商事を早期退職、現在、リオとシンガポールに仕事の拠点を置き月一のペースでブラジルとアジアを出張往復しています。業務の傍ら、行く先々の先生方にもお世話になり、週5回の剣道と居合の稽古を欠かさないように心掛けています。世界が熱くなる6月のロシアW杯の後、 9月半ばには3年ごとに行われる剣道界のオリンピック、第17回世界剣道選手権大会が韓国(仁川)で開催され、私がブラジル代表選手団の団長として男女剣士精鋭20名を引き連れて参戦する予定です。

 

連載エッセイ5月号にブラジルと剣道についての寄稿依頼を受け、書き出しを思案していた時、折しも日本の衛星テレビで6月にロシアで開催されるW杯日本代表のキャンプ地がモスクワの東800キロメートルにあるカザンに決定したとのニュースが流れ、“そうだ、カザンから始めよう!”と決めました。 カザンは、人口が380万人を超えるロシア連邦に属するタタールスタン共和国の首都で、ヴォルガ川沿いにある水上・陸上交通の要衝地になっており、ロシアでは10指に入る商工業都市です。

 

1900年にイギリスで建造された後の笠戸丸は、建造時にはポトシと命名されており、後にロシア海軍の義勇艦カザン号として日露戦争に参戦、1905年、旅順港で被弾し沈座したカザン号を日本海軍が引き上げ戦利品として捕獲し、笠戸丸と改名しました。日露戦争の戦利船となる笠戸丸はタタール語とロシア語カザン(タタール語: Казан, Qazan ;ロシア語: Каза́нь, Kazan カザーニ)の音読みに因んで名づけられたと聞いています。笠戸丸は、もともとイギリスとチリの間を人と貨物を輸送する船舶として建造されたため、航海距離が17千キロメートルとほぼ地球を半周できるスペックになっており、航行距離が長いブラジルへの移民団輸送には向いていました。

1908年6月18日午前9時半、サントス港第14埠頭に降り立った笠戸丸移民団781人の中に、船上で一所懸命竹刀を打ち振っていた剣士たちが居たことをご存じの人は少ないと思います。移民団一行は、船底の貨物室を蚕棚のように2段に仕切った寝床で起床しながら、52日間の長い船旅に出ます。遥か大西洋の大海原で歴史のページを開けたブラジル剣道はサントスに向かう船の上で生まれ、1世紀を経て、世界中から一目置かれる存在にまで成長しました。

 

今年は、ブラジル各地で、110年を祝賀する記念行事が行われています。2008年の100周年の祝典では、皇太子殿下ご臨席の下、サンパウロで行われたイベントでブラジル剣士達による演武も披露され、ブラジルにしっかり根付いている剣道100年の絆を改めて感じることが出来喜ばしく思いました。

 

また、ブラジル剣道の足跡を語る時、笠戸丸で移住されたこれら先達の師と併せ日本の近代化に命を捧げたもう一人のサムライにも触れておく必要があります。笠戸丸から遡る40年前、リオの街を侍姿で闊歩した一団がいました。1867年、ジョン万次郎を英語の師とする榎本武揚(当時31歳)は、江戸幕府がオランダの造船所に発注した木造軍艦“開陽丸”の引き渡しを受け日本に回航の途中、真夏のリオに11日間滞在し燃料補給などを行っており、一行はヨーロッパ文化・文明の色濃いリオ市街を散策し、その素晴らしさに魅了され、‘ブラジル’を深く記憶に留める事となりました。幕末の動乱の中、慶応3年3月25日、横浜に到着、当時の最新鋭艦として期待されていた本船は軍艦奉行の勝海舟に盛大に迎えられましたが、その後、榎本は五稜郭に於いて土方歳三等と共に函館共和国の旗揚げを謀り、その戦の最中、就航後わずか一年数か月後、江差沖で発生した悪天候のため座礁、沈没しています。彼の新天地への夢は潰えたように見えましたが、後年、明治政府で外務・農商務大臣等数々の閣僚経験をする榎本は、若い頃サムライ姿で歩いたリオの街に魅了された自身の開拓者精神を灯し続け、その後、ブラジルへの移民事業実現の支援を惜しまなかったと言われています。

 

1902年、最大勢力のヨーロッパ移民が第一次大戦の影響で減少、取分けイタリアが、国の方針で移民を禁止、これらの諸要因が数年後の日本移民の導火線となったことは歴史が物語っています。1907年、皇国植民会社の先導で、サンパウロ州農務局との間で正式に政府移民の契約が調印され、前の年にハワイ移民646人を運んだ笠戸丸は、1908年、榎本武揚の長年の夢も乗せてサントスに向けて舵を取りました。彼がサムライ姿でリオを闊歩して40年後の出来事です。新天地開拓に夢を託し続けたサムライは、時代の変化を見届ける様に、戦利船で最初の官約移民船“笠戸丸”の最初で最後となるブラジル到着を確認し、4か月後の1908年10月26日、新天地開拓の夢を未来に託し、73歳の生涯を終えました。 もし、リオの街に魅了されたこの幕末の侍が幕末・明治を生きることがなかったら、ブラジルと剣道の出会いが遅れていたことは間違いありません。“開陽丸と笠戸丸”、共に日本人の夢と希望を運び、図らずもブラジルと剣道を結び付けた2隻の外国建造船は、数奇の運命を辿り日本の北の海で静かな眠りについています。

居合演武中の筆者

さて、話を戻し、52日間の長い笠戸丸の船旅、甲板上で余興として行われた8組の剣道試合では、元愛媛県警の剣道師範を務めていた芳我徳太郎(はが・とくたろう)が優勝したと記録されています。しかし、同氏の名前はブラジルに到着して以降忽然と消えており、その後のブラジル剣道の歴史の中に二度と現れて来ません。当時は、剣道防具も高価で日本から取り寄せる環境にもなく、サンパウロ州を中心に、同好の士が集まり野外稽古を行いました。故郷を偲びながら技を磨き、天長節など等祝日の折々に、模範稽古や試合を披露していたようです。大正11年(1922年)の天長節祝賀会には撃剣の試合が催された事が当時の新聞にも残っています。ブラジルの剣道が本格的に始まるのは大正15年(1926年)小林美登利三段がサンパウロの聖州義塾内に本格的な道場を構え指導を始めてからです。それから5年後の昭和6年(1931年)、サンパウロ農事実習場(通称エメボイ実習場)でも稽古が始まり、徐々に他の地域にも道場が広がりを見せます。

 

その流れの中で、サンパウロ市内の邦人学園にも剣道科が設けられるようになり、菊地英二・桜田松麿両先生による本格的な剣道指導がスタート、更にサン・フランシスコ学園でも剣道の稽古が始まっています。剣道場が増えるにつれ、同好の士が集まり組織化運動も起こり、昭和8年(1933年)6月18日、笠戸丸がサントス港に到着した日から25年目の節目に行われた渡伯二十五周年記念事業の一環で、ブラジル剣道界の最初の組織である“伯國柔劒道聯盟”の仮本部が聖州義塾の中に創立されています。当時は柔道と剣道を包括した組織で、サンパウロ市総領事館副領事の海本徹雄氏が会長に就かれました。林久次郎駐伯大使と内山岩太郎サンパウロ総領事が名誉会員になられ、矢崎節夫、秋穂梅吉、村上龍助、大河内辰夫、河合武夫各氏が役員を務められています。

 

伯國柔劒道聯盟の趣意書の一節には、“・・(中略)・・・我々在外の日本人の民族的使命は一に懸って質実剛健の精神と、強靭不撓の体力を養成すると共に、知徳の涵養振作し我が民族の特異性を発揮し・・(中略)・・・柔劒道聯盟を組織し、普く斯道愛好士と共に一致協力、我が民族の隆昌に資し、以て共存共栄の実を揚げんと欲す・・(略)・・”とあり当時の方々の気概が窺えます。また、連盟設立に合わせ、サンパウロ市カルモ街の労働館において、第一回伯国武道大会が開催されています。剣道の部では先ず、菊地英二と村上龍助両氏が大日本帝国剣道形を打ち、有段者の部では後々語り草となっている六人抜きの渡邊至剛氏が優勝、団体戦では紅白試合という形式を取り、内山総領事寄贈の優勝旗争奪戦が行われました。草創期の剣道指導者の中には、アリアンサ居住地に定着された庭瀬健児氏のような猛者もおられます。同氏は、岡山県出身で金沢四校在学中、全国高等学校剣道大会に出場し2回連続制覇を成し遂げています。また、昭和8年(1933年)には、その後のブラジル剣道の発展に大きな貢献をされた伊藤早苗氏が渡伯、昭和11年(1936年)から赤間女学校の教師となり熱く指導に当たられた菊池英二氏も登場人物として欠かせません。サンパウロ市郊外にある今も残る瑞穂村の道場のそばに居を構えておられました。こうして、ブラジルの剣道は組織された連盟の下で発展し、戦前の活動の基礎が次第に出来上って行きました。奥地に入植された剣道家達は片道汽車に乗って2泊三日もかけサンパウロ市の大会会場へ意気揚々と赴いておられたと伺っています。

 

1940年代後半の野外試合の様子(個人蔵)
二刀の剣士は野田派二天一流の使い手坂本誠氏

また、戦前のブラジルには古武道、居合術等を修得した武芸者も渡っています。剣道を教えられた桜田松麿氏は伊達藩のお家流である北辰一刀流、伊藤早苗氏は小野派一刀流の使い手でもありました。薙刀術では山口県出身で、乃木希典将軍とも縁があった神陰流の古本静子女史がその名を残し、式典の際は剣道家と多くの異種模範試合(竹刀と薙刀の戦い)をやっておられます。

 

ブラジル暦の昭和16年(1941年)12月7日、太平洋戦争が勃発し、翌17年1月29日にはブラジル政府が枢軸国との国交を断絶、その前日には既に在リオ日本帝国大使館や在サンパウロ総領事館等は閉館、様々な在伯組織も解散され、突然姿を潜めることになります。伯国柔劒道聯盟は、1月31日の夜8時に聖市治安維持警察の命により常盤ホテル広間にて解散、ブラジルで日本武道を統括していた組織は消滅し、道場も閉鎖、貴重な剣道防具も政府に没収され、武道の稽古が事実上禁止されます。

 

太平洋戦争勃発後、邦人資産の凍結や重要都市からの立退き命令が下り日本語は使用不可、三人以上の集まりは厳禁となり、日本語で号令をかけて集団で行う剣道の稽古なども大っぴらにできなくなりました。私がブラジルに来た当初、数回稽古をお願いした故木村三男先生は、深夜になると、石油や蝋燭の代わりに豚脂で明かりを灯しながら稽古に耽ったと語っておられたのを想い出します。終戦を迎えたブラジルの日本人社会は、「勝ち組」と「負け組」に別れ、在伯邦人社会は剣道界も含め未曾有の激動の渦に呑み込まれています。

 

混乱極まる一時期を過ごしたブラジル剣道界は、同好の士たちの尽力により、昭和21年(1946年)2月11日に開催されたスザノ市管内剣道大会を皮切りに少しずつ復興への道を歩み始めます。この時期、日本では、GHQの指導で、戦後数年に渡り剣道が排除されていますが、ブラジルでは、勝ち・負け騒動を経てほどなく、俄かに剣道熱が盛り上がり、あちこちで大会やイベントが開催されるようになります。時にはシネマ館やサーカスアレーナも会場になりました。自然に剣道組織再興の声が上がり、当時の剣道指導者が中心となり終戦後わずか2年目の1947年には伯国中央線柔剣道聯盟が生まれました。現在私が所属するブラジル剣道連盟設立に向けた基礎は、この時期の先達指導者の方々の汗と熱意、また、次世代を担いつつあった青年団組織“全伯青年聯盟”(1950年設立)の面々の努力の賜物であります。設立の年に行われた第1回全伯柔剣道大会は、各地方で予選を行い、精鋭の剣士を選出して競わせた戦後最初の全国規模の剣道大会となりました。

 

この頃には、別組織である日伯産業振興会の会員の中にも剣道愛好家が増え青年聯盟と並び日伯産業振興会主催の2つの大型大会が実施され両方の大会で活躍した剣士もおられるそうです。そして、昭和26年(1951年)に日本から剣道指導に来られた森下泰氏の訪伯を機に、しばらく途絶えていた日本との剣道交流が再開されることになります。 翌年から達士九段の中原實氏がブラジルに一年間滞在され、国内各地を巡回し剣道講習会を開きながら指導を行われました。

 

昭和28年になると、漸く日本移民が再開され、剣道に覚えのある剣士が多くブラジルに渡り、ブラジル剣道界の発展に弾みを付けました。そして、昭和29年(1954年)、聖市(サンパウロ市)創立四百年記念を契機にブラジルの剣道を一つに纏める組織立ち上げの運動が起き、日本と頻繁に連絡を取り合いながら、“全伯國剣道連盟”結成に向けた機運が一気に高まります。新連盟結成後、昭和 33年(1958年)4月に全日本剣道連盟に加盟、世界最初の海外支部登録を行いました。翌年には、改めて森下泰氏を全日本剣道連盟代表として迎え、サンパウロ西本願寺で第一回全伯剣道大会を開催、正式に全伯國剣道連盟が日本側にも認知されました。更に、昭和38年(1963年)には連盟創立5周年記念を祝して日本から大型剣道使節が派遣されています。私が故郷熊本県玉名市で初めて剣道を教えて頂いた大麻勇次範士十段を団長とする当時の日本剣道界の錚々たる先生方で、現在、ブラジル剣道連盟で私が責任者として指導している居合の演武もこの時に行われたとの記録が残っています。幼少時、稽古の後で大麻先生がブラジルのことについてお話しされたことを幽かに覚えています。

 

リオカーニバル招待演武。揺れる特設櫓の上で、70分間家内と居合を披露

全伯国剣道連盟の創立を機に剣道の普及と剣士同士の親睦を図るため、全伯剣道大会をはじめ種々行事が開催されることになります。1960年代になると戦前の指導者の大半がお亡くなりになり、一方、若い一世や二世の剣士が積極的に活動を始めることで、全日本剣道連盟との交流も増えて行きました。1965年には第一回高段者剣道大会、翌年には地方の交流を深めるための第一回汎ノロエステ大会、1967年からはインテリオー

ル大会(内陸部大会)を毎年開催するようになります。稽古の成果も上がり、日本武道館で開かれた1970年の第一回世界剣道大会では、団体戦で3位を獲得しました。1977年には剣道教士で落語家の柳家小さん師匠もお出でになり、ブラジルと日本の文化交流とスポーツを通しての日伯親善に貢献したとして、グランデ・オフィシャル最高勲章が授与されました。また、昭和初期以降に国士舘大学の前身であった高等拓殖学校からアマゾン地域への入植が続いた歴史を背景に、1979年には国士舘大学が慶祝訪伯団をブラジルに派遣、サンパウロ総合大学(USP)との間で大学交流を行うこととなり、サンパウロ市近郊に総合スポーツセンターを開設する一方、アマゾンのベレン市では国士舘武道場を開くことになりました。翌1980年9月9日には40名の国士舘使節団が再訪され、ベレン市道場の鏡開きが盛大に行われました。これらの後押し環境も奏功し、ブラジル剣道は着実に実力を伸ばし、1982年8月にブラジル・サンパウロ市で開催された第5回世界剣道選手権大会では、男子団体戦(1チーム5人構成)で準優勝を果たすことになります。その後の世界大会でも、1985年準優勝、1988年、1997年と2000年は3位、女子団体では2000年に準優勝、島内大使にも臨席いただいた。2009年のサンパウロ第14回世界大会では男女団体とも3位、また、2015年5月、45年振りに日本武道館で開催された第16回世界大会では、男子団体が準々決勝で最強の日本チームと戦い、満員の会場を沸かせ正々堂々の敗退、一方、女子団体3位、個人世界3位と好成績を重ねました。

サンパウロで行われるブラジル全国剣道選手権大会スナップ

1970年代に入ると 全伯国剣道連盟として、ブラジル政府の公認を取得するという大きなテーマを掲げ、組織名も当初の全伯国剣道連盟から、全伯剣道連盟、全伯剣道協会、全ブラジル剣道連盟などの幾つかの名称を冠して来ましたが、平成10年(1998年)に、剣道・居合道・杖道の3道を包括したブラジル剣道連盟 (CBK:Confederação Brasileira de Kendô) が設立されました。当初、サンパウロ州、リオ州、パラナ州とブラジリア首都の支部で構成され、後に諸州からの加盟を得たこの剣道連盟がブラジル政府公認の組織として活動を始め、現在に至っています。全国に剣道・居合道・杖道の愛好家も増え、非日系人の剣士も毎年増加傾向にあり、50か所以上の道場で日々稽古に励んでいます。また、平成14年(2002年)にはブラジル、アルゼンチンとチリが中心となり南米剣道連盟(現在本部:ブラジル)され、イベントには20か国余が参加、各国持ち回りの中南米大会や講習会には全日本剣道連盟から先生方もお招きし、剣道・居合道・杖道の普及に力を入れています。

 

最期になりますが、ブラジルに住み始めて18年目、私にはブラジルに居合道を広めることを約束したEliezer Batistaさんという恩人がいます。陰に陽に色々な相談も聞いてくださりいつも冗談話に花を咲かせています。Batistaさんの別荘があるVitoriaの景勝地に招かれ、地元の身寄りのない子供たちの前で家内と二人で演武をしたことも良き想い出です。日本を良くご存じのBatistaさんは、中南米に広がる日本文化―居合と剣道―の話を楽しみにしておられるので、会話はいつもその話題から始まります。

 

いつも叱咤激励して頂けるEliezerさん(2月リオのご自宅で)

先般ご自宅にお伺いし、9月の世界大会にブラジル選手団の団長として参戦すること、また、願わくば、決勝戦で世界最強の日本と戦いたい旨お話しした処、いつも変わらぬ優しい眼差しで、“おめでとう、どっちが勝ってもいいからブラジルと日本のためにしっかり尽くせ”と、ニコニコしながら背中を押されました。日本のゴールデンウィークのど真ん中がお誕生日で、今年94歳になられます。“健康にもいいんだぞ!”と、ますます磨きがかかったイタリア語で大声を張り上げオペラを謳われます。ご存じの方の中には、同氏の鷹揚な身振り手振りが目に浮かぶ方もおられるでしょう。勿論、ブラジル版パバロッティの歌いぶりは、彼の人生そのもので半端ではありません。

今年9月、“交剣知友”の理念の下、世界の60か国近い国の剣士達と竹刀を交え親睦を図ります。ブラジルや中南米各地で行った居合道の講習会も今年で74回を数え、世界のあちこちで楽しい仲間達に出会いながら充実した武道人生を送っています。