会報『ブラジル特報』 2010年9月号掲載
追悼文化評論

                      岸和田 仁(協会理事)


 日本のポルトガル語学研究をリードし、文学や史料の翻訳でも多くの業績を残された池上岺夫(山の下が令という文字)東京外国語大学名誉教授が7月6日、瞑目された。享年75歳。
 閑寂なるアデウスを希望された故人の遺志を尊重し、本欄では池上教授が為された主要な業績を中心に再確認しつつ、若干私的回想もさせていただくこととしたい。

 まず、現在日本で出版されているポルトガル語辞書のなかでは最新にして最良なのが、白水社『現代ポルトガル語辞典』(1996年、改訂版2005年)である。ポルトガル語学習者はもとよりブラジルやポルトガル・アンゴラなどの駐在員も移住者もボサノヴァ愛好者も、さらにはサッカー関係者もお世話になっている辞書だ。5人による共著であるが、全体の統括は池上教授が行っており、まさしく現代ポルトガル語が集約されている。

 言語学者としてのポルトガル語研究は、学会誌への論文に加え、単行本としては『ポルトガル語とガリシア語−その成立と展開』(1984年、大学書林)、『ポルトガル語文法の諸相』(1987年、大学書林)、『Se考−ポルトガル語のseの正体を探る』(2001年、大学書林)といった成果を生み出した。この分野においては、他者の追随を許さない、第一人者といわれる所以である。

 だが、専門研究者ではない、ブラジルの社会や歴史・文化に何らかの関心を有する普通の人間にとっては、言語学論文よりも、池上教授による翻訳作品にお世話になったと断言できるだろう。とりわけ、1980年から刊行が始まった「大航海時代叢書」(第Ⅰ期)(岩波書店、全25巻)における活躍は顕著であった。私的回想になってしまうが、20数年前、全巻を駐在地ブラジルで受け取り、ハンモックに横になりながらやや興奮して各巻の頁をめくった経験のある筆者にとっては、特別な思いがあるからだ。

 第一巻『ヨーロッパと大西洋』に収録されているのが、カミーニャ『マヌエル国王宛て書簡』とマガリャンイス『ブラジル誌(サンタ・クルス州の歴史)』であるが、いずれも”発見”直後のブラジルを活写した第一級の史料である。とりわけ『ブラジル誌』のほうは地理、先住民の生活、多様な植物、果物、動物についての記録が詳しく記述されていて、今日の読者にも興味津々の民俗誌である。こうした基本文献を池上訳の正確な日本語で読める幸せを感じたことは、今でも筆者の記憶に鮮明である。

 大航海時代叢書関係の翻訳では、池上教授は、さらに、第Ⅰ期第10巻『日本教会史』、第Ⅱ期第2、3巻バロス『アジア史(1)(2)』、第4巻アルヴァレス『エチオピア王国誌』、第5巻モンセラーテ『ムガル帝国誌』、の共訳者として実に大きな仕事をされている。
 

 時期的には、第二期大航海時代叢書よりも先行した仕事であるが、ブラジル社会論の古典的作品、セルジオ・ブアルケ・デ・オランダの『ブラジルのルーツ』を『真心と冒険−ラテン的世界』(1971年、新世界社)として刊行している。「真心ある人」をキーワードとしてブラジル的心性を読み解いた歴史社会学の名著であるが、収録されたアントニオ・カンディドの解説とともに多くのブラジル研究者を興奮させた訳業であった。(絶版となって久しいが、岩波文庫か講談社学術文庫あたりで再刊すべきだと思うのだが。)

 文学関係では、レッサ『太陽通りのぼくの家』(1977年、岩波少年文庫)、『ポルトガルの海−フェルナンド・ペソア詩選』(1985年、彩流社)などの翻訳も知られるが、イエズス会宣教師が1620年に著した日本語解説書、「大航海時代のヨーロッパが生み出した言語認識の成果」といわれる、『ロドリゲス 日本語小文典』(上・下)(1993年、岩波文庫)は、その正確な訳文と緻密な訳注が際立っていた。

 こうした業績を積み重ねた池上教授が心血を注いだ訳業といえるのが、カモンイスの英雄叙事詩『ウズ・ルジアダス』だ。まず共訳者として、『ウズ・ルジアダス−ルシタニアの人びと』(1978年、岩波書店)の補訳と解説を担当されたが、自分で納得できるものではなかった。2000年に刊行された、格調高い文体による『ウズ・ルジアダス−ルーススの人びと』(白水社)が、まさしく畢生の訳業となった。

 ポルトガルやブラジルに関わる者は、池上先生の業績を反芻するところから再出発するしかないだろう。合掌。