会報『ブラジル特報』 2012年11月号掲載
文化評論

                      岸和田 仁( 協会顧問・編集委員、在レシーフェ)


 度重なるセッカ(干ばつ)にやられてきたセルタゥン(ノルデスチ内陸部)にも太古より住みついている小鳥がいる。その白い翼(アーザ・ブランカ)を持つ小鳥は、どんな干ばつになっても土地を見捨てないと信じられてきたことから、いつしか地元民謡で歌い継がれてきた。子供の頃から、こうした大衆音楽を聴いて育ったルイス・ゴンザーガ(1912~89年)が、相棒の作詞家ウンベルト・テイシェイラと組んで制作したのが、今や「ノルデスチの国歌」ともいえる名歌「アーザ・ブランカ」だ。
 「アーザ・ブランカは行ってしまったセルタゥンから飛び立ってラララ、泣くんじゃないよ」と、歌詞ばかりかメロディーも哀愁を帯びていたことから、ノルデスチ出身者ばかりかブラジル国民の心の琴線に触れたのであった。このレコーディングが行われたのは1947年であったので、50年代が“絶頂期”であったが、60年代にその人気は低迷し、いったんは忘れ去られかけていたところに再び命を与えたのが、1971年亡命先のロンドンで、「アーザ・ブランカ」を独唱したカエターノ・ヴェローゾであった。朋友ジルベルト・ジルとともに展開したトロピカリア運動が反体制運動のシンボルとなっていた時期の彼が評価したことから、反軍政で海外亡命生活を余儀なくされた在外ブラジル人たちにとっての「第二の国歌」となっていく。そうした“第二段階”を経て、ブラジル国内の一般庶民層ばかりか知識人層にも広く膾炙するようになる。

 といった経緯もあって、今日、普通のブラジル人なら、ノルデスチはもちろんだがリオやサンパウロの住民でも「アーザ・ブランカ」と聞けば、歌詞を口ずさむことができる。さらに「バイアゥン」や「パライーバ」「ヴェン・モレーナ」などのヒット曲によってノルデスチ音楽の豊かな伝統を現代に復活させた詩人ミュージシャン、アコーディオン奏者、ゴンザーガがペルナンブーコ州内陸部のエシューで生まれたのが、1912年12月13日だった。したがって、今年は生誕百周年となる。
 となれば、今年に入って新聞雑誌でもテレビでもあらゆるメディアがゴンザーガ特集を取り上げるようになったのは、当然である。グローボ局の日曜バラエティー番組「ファンタスティコ」が何週にもわたって関係者のインタビューなどを独自に編集して多彩なゴンザーガの足跡を辿っているが、日曜の朝のTVクルツーラ長寿番組、「ヴィオラ、ミーニャ・ヴィオラ」は、名物司会者ローランド・ボルドリンによる番組会場の聴衆との音楽コラボ番組だが、8月26日は、ドミンギーニョスらも参加してにぎやかなゴンザーガ追悼を行っていた。

 1940年代後半、その頃のブラジル音楽シーンは、サンバ・カンサゥンやタンゴが支配していたが、そこに元々豊かだったノルデスチ内陸部大衆音楽を持ち込み、文字通りMPBを革新したのがゴンザーガだった」とボルドリン自身が熱弁をふるっていた。彼の説明に若干追加するとすれば、軍政に協力的であったゴンザーガを忌避していた知識人層がカエターノやジルベルト・ジルによるゴンザーガ評価で一転して彼の音楽を受容するようになった、という事実だろうか。
 この“ゴンザーガ・フィーバー”に拍車をかけているのが、10月末に全国一般公開される映画『ゴンザーガ、父から息子へ』だ。これは、2007年に出版された作家レジーナ・エシェヴェヒアによるベストセラー評伝『ゴンザギーニャとゴンザガゥン』を、セルタネージャ音楽のドゥオ、ゼゼ・デ・カマルゴ&ルシアーノを描いた『フランシスコの二人の息子』のブレーノ・シルヴェイラ監督が映画化したものだ。ルイス・ゴンザーガ(ゴンザガゥン)とは異なる音楽活動で玄人筋に高く評価されたゴンザギーニャの、親子軋轢物語ともいえるが、ゴンザーガが田舎から都会(リオ)に出て、苦労を重ねるシーンが既にTVで放映されており、新聞雑誌メディアも大きく取り上げていることから、前評判はすこぶる高い。

 また、ミュージシャンたちによるゴンザーガ讃歌といえるショーも各地で展開されているが、例えばサンパウロでは10月20日、27日、11月3日と三週連続で、アニャンガバウの野外会場にてモラエス・モレイラやシコ・セーザルらが参加して連続ショーが行われる。
 また、リオでは、劇作『ゴンザガゥン、伝説』が10月17日から演じられることになっており、リオ公演のあとはサンパウロでも催される。いやはや、ショーあり、劇あり、映画ありで、ブラジル中がゴンザーガを讃えるイベントだらけ、といえるほどの勢いだ。泉下のゴンザーガが苦笑いをしているかもしれないが、彼がノルデスチ音楽の伝統をさらに豊饒なものにしたことは間違いない。