会報『ブラジル特報』 2013年7月号掲載


                              宮尾 進(サンパウロ人文科学研究所顧問)


聖美会の誕生
 ブラジルでの日系美術家の誕生を見ると、それはやはり、農業移民としてサンパウロ内陸部にあって、親のもとで日がな一日働く単純労働にあきたらぬ若い青年層が、その中にあったことである。そういう者たちが、はっきりとした目標があった訳ではないだろうが、1920年代後半あたりから、大都市サンパウロを目ざして出て来た。しかし当時、サンパウロには彼らを受け入れてくれるような十分な職場はなく、その日暮しの頼りない生活をせざるを得なかったが、そうした青年の中には、当然ながら絵を描きたい、芸術家になりたいと、青年特有の夢を見るものもあった。
 これは絵を志す者の、エピソードの一つであるが、後に日系画家の最初の集団、サンパウロ美術研究会(略称聖美会)のメンバーにもなり、大いに活動した二人の画家、高岡由也、玉木勇治のことであるが、彼らもサンパウロで似顔絵を街頭で描いたり、その日暮しの生活をしていたものの、やはり絵を本格的に勉強するには、すでに美術館なども創設されている主都、リオでちゃんと師匠について学ぶべきだ、と思い立って、ふところ無一文、トランク一つをぶらさげ、400キロの道程を徒歩で旅立ち、途中野宿をしたりして、14日をついやし、たどりついた。そのリオデジャネイロで幸い良い師匠にめぐり合い、苦学をしながら、絵の道を修業した。
 ブラジルの名を知られた画家でさえも、まだ絵画の世界では十分に生活が出来なかったこの時代に、大変な苦労をしながら一途に絵画の道を目ざしたこれら青年の情熱は、何だったのだろうか。
 が、こうした青年たちが次第に増えて来て、1931年、サンパウロ市在の「日本倶楽部」の主催する移民社会では初めての、絵画公募展があり、これに応募する者が意外に多くあったり、33年に初めて開かれた「パウリスタ美術展」への参加者もあったりしたことが、聖美会の誕生につながるのであるが、この聖美会の誕生は日系美術史上極めて画期的な出来ごとであった。いまはすべて故人となってしまったが、この会創設の音頭取りであった半田知雄をはじめ、田中重人、富岡清治、桧垣肇それに前記高岡由也、玉木勇治など十数名の絵画を志す者、あるいは美術に関心を寄せる者が参加し、会員相互の親睦、作品の鑑賞・批判、年少者の指導、会員の展覧会開催などを目的とした会であった。そして日曜などに皆でスケッチ旅行をしたり、この間高岡の自画像が日本人として初めてリオの国展で銀賞を受け、話題となったりしたが、こうした活動は、41年の太平洋戦争の勃発によって、彼ら日系画家も敵性国民となったため、野外での写生もままならず、互の集合も禁じられ、実質上会の活動は中断しなければならなかった。

聖美会の再開
 1945年8月の日本敗戦の報は、移民社会にも大きなショックを与え、その中でカチ組、マケ組の事件があったことは、ひろく知られているところであるが、それには係りなく、1947年には、高岡らの奔走によって、聖美会は再開された。これには旧メンバーのほかに沖中正男などの移住者青年や、ジョルジ・モリという若い二世や、フラビオ・シロー・タナカという日本生れで幼児に来た者も参加して来る。そして、この二人はブラジル画壇に知られるようになるとともに、フランスにわたり、更に画風をみがき、現在もなお、ブラジル画壇で活躍を続けている。この頃から会員の個展も活発に行なわれるようになったばかりでなく、半田などが中心となって結成された「グルーポ・キンゼ」、あるいはリオからサンパウロに移動していた福島近のアトリエを集りの場としていた「グルーポ・グァナバラ」などには、日系のメンバーばかりでなく、後に名をなした非日系の若い画家たちも多く参加し、ブラジル人画家たちとの交流も生れて来た。
 1950年代になると、ブラジル美術界も活発化し、51年にはリオに新たに「ナショナル近代美術館」が設立されるとともに、サンパウロにも「パウリスタ近代美術館」が創設され、同時に第1回「ビエナール展」も開催され、この国際展で内外の前衛的現代美術に、大きな刺激を与えるようになった。
 こうしたブラジル美術界の活気は、日系画家にも大きな刺激となって、聖美会は「コロニア展」を52年を第1回に、以後毎年開催されるに至った。そしてこの「コロニア展」の受賞者の中から、「ビエナール展」においても受賞する間部学、福島近、大竹富江などが出て来た。特に1953年、「コロニア賞」を受賞してからの間部は、56年、「パウリスタ近代美術展」で小金、翌57年に大金、58年「州知事賞」と、連続受賞し、更に翌59年には新設のブラジル美術界の年間総合最優秀賞である第1回「レイネル賞」、これと並んで同年の第5回「ビエナール展」で国内大賞を受賞し、このことが時の仏文化相であったアンドレ・マルローの注目するところとなり、パリの第1回「青年ビアンナール」にブラジル代表として参加し、同展での最高賞「ブラウン賞」を獲得するところとなり、同年タイム誌に「マベ黄金の年」と特別記事で紹介されるほどであった。

 かくして、ブラジル画壇の主流から離れた存在であった聖美会のメンバーにも、ようやく陽がさして来たのである。

聖美会の面々 1958年
半田知雄(2)、高橋吉左衞門(3)、沖中正男(4)、田中重人(5)、間部 学(7)、
“São Paulo:visão dos nipo-brasileiros” (Museu Lasar Segall 刊より転載



戦後移住者による新しい波

 太平洋戦争が終って、ブラジルへの日本移民が再開されたのは、1953年初頭からであった。それから70年頃までに5万人余の移住者があり、その中にはすでに日本の美術界に身をおいていたが開放的なブラジルの新天地により一層の自由な活動の場を求めて、やって来た若い芸術家も多く見られた。その新天地には、ようやく足場を固めつつあった聖美会があり、同時にブラジルの美術界も近代美術の開花期で、新興の美術運動に燃えている時でもあったため、彼らは聖美会の先輩画家たちのような苦難も少なく、比較的容易にプロとしての道を開拓することが出来た。
 この戦後移住の芸術家の中には、ブラジル国内あるいは海外での美術展で、各種の賞を受賞し、現在もなおブラジル画壇で広く活動している者も多い。豊田豊(彫刻)、若林和夫、楠野友繁、近藤敏、金子謙一、越石幸子などがそれであるが、その他、小原久雄(彫刻)、木暮光孝、白井久雄など、すでに故人となってしまった者もある。

新世代の登場
 1972年、聖美会主催の「コロニア展」は、ブラジル日本文化協会に席を譲り、「サロン文協展」として毎年開催されるようになったが、このサロンも回を重ねるに従って非日系の応募者、受賞者が次第に増え、2007年からは同展にそれまでは別にあった「工業展」、「造型美術展」などのグループも合同し、「文協大総合美術展」と名を変え、現在では美術、芸術の総合展となり、新人のこの世界への登竜門として広く名が知られるまでになっている。
 1960年後半あたりから70年代初頭にかけて、タカシ・フクシマ、マスオ・ナカクボ、リジア・オクムラ、ユーゴ・マベなど、「サロン文協」時代に賞をとったものや、各種の美術学校を出た二三世世代が目立って来たが、これに次いで更に若い二三世のジェイムス・クドウ、ロベルト・オキナカなどといった者たちが今は活動している。中にはニュー・ヨークや日本で創作活動を行なっている者もある。

確固たる日系美術家の地位
 ブラジル日系社会の歴史も、すでに100年余を数えるに至ったが、これまでの25万人程の日本移民のほとんどは、農業移民として、この国へ来たものたちであった。そして彼らは、ブラジル農業界への大きな貢献を果して来たことで、今なお広く称讃されている。しかし戦後になると、世代が変りブラジル各界に広く浸透して行くようになるとともに、日系の農業者は極端に減少してしまった。そしてこれにかわり、ブラジル社会に日系人の名を高めて来たのは、20世紀後半からの美術に係った上記の日系美術家たちであったと言える。
 現在のブラジルの美術界は、日系の美術家を除外しては語ることが出来ないほどになっている。誰かがブラジルのエンシクロペジア(百科辞典)の中に出てくる日系人で一番多く名前が掲載されているのは美術家だ、といっていたが、それは事実だろう。ちなみにいえば、今年100歳を迎える聖美会時代からの画家大竹富江は、現在も現役作家として絵筆をとっており、ブラジルの各紙は、ブラジル美術界の最長老で、最も多くの美術賞を受賞している作家として称讃する記事を掲載しており、近々100歳記念展も開催されることを報じている。
 聖美会世代の者たちが身につけて来た日本の美意識に基く色彩感、表現形式といったようなものは、ブラジル風土の中で花開き、ブラジル美術界にも新鮮な影響をもたらすとともに、幸いにしてこうした日本的美意識は、移民後継世代にも、不思議と残されており、表現形式が抽象具象その他いろいろであったとしても、どこかにそれを感じさせるものがあるように思える。

 ここしばらく、ブラジル美術界はあの20世紀後半のような活気は見られず、沈滞している感じで、前衛的な国際総合展をうたった「ビエナール展」も、余りぱっとしないところから見ても、これは世界的な傾向とも見られるが、いずれにせよ、ブラジル美術界に大いなる地歩を占めるに至った日系美術家は、今後とも断絶することなく、活動して行くと見て良いだろう。