会報『ブラジル特報』 2014年5月号掲載
文化評論

岸和田 仁 (『ブラジル特報』 編集委員、在レシーフェ)


 英国人監督スティーブ・マックイーンによる映画 『それでも夜は明ける』 は、32日にアカデミー賞最優秀作品賞を受賞したことから世界中で話題になっているが、同映画がブラジルにもたらした様々な反響は、他の国にはありえないような重層的なものとなっている。

 この映画は、音楽家として活躍し、幸福な家族を築いていた自由黒人である主人公サイモン・ノーサップが、1841年、騙されて南部ルイジアナに奴隷として売られ、12年間隷属生活を強いられたという実話に基づくが、世界最大の黒人奴隷輸入国ブラジルでも数多くの同様のドラマがあったという歴史認識の視点からの反応が第一の余波であった。
米国の奴隷制に比べ、ブラジルの奴隷制は温情主義的で人種間の関係はより温和なものであったとする、社会人類学者ジルベルト・フレイレらの “定説”に批判的なサンパウロ学派からのアカデミックな反応としては、32日付けフォーリャ・デ・サンパウロ紙学芸欄に掲載された論文(歴史人類学者リリア・シュワルツと歴史学者マリア・エレナ・マシャードの共著)が、典型的だろう。ブラジルの奴隷制は、 『それでも夜は明ける』 で描かれたものと本質的に異なるものではなかったから、何千ものノーサップがブラジルには存在したのであり、奴隷制の廃止についてはブラジルは西洋で最後の国であった、という歴史的事実が我々ブラジル国民に重くのしかかっているのだ、という趣旨であった。
33日の同紙に寄稿したのが、外交官フーベンス・ヒクペロ(元財務大臣、元UNCTAD事務局長)で、奴隷解放運動家ルイス・ガマ (183082年) の闘いの半生を略述したうえで、批評家ホベルト・シュワルツによって再発見された彼の手記は「誉れ高く真実の物語で映画『それでも夜は明ける』 よりもはるかに優れている」と評価している。
その手記の書き出しは 「自分は、ミナ海岸 (現ベナン) 出身の、自由アフリカ黒人ルイーザ・マインを母として生まれた」というもので、父親は白人だが、母親は西アフリカ出身の元奴隷の自由黒人だ。10歳の時、実の父親から奴隷として売り飛ばされ、17歳で法学生から学問の手ほどきを受け、自由黒人となって、法学を学んでから、弁護士として奴隷解放運動に邁進する。ブラジルの奴隷制が廃止されたのは1888年であるから、それよりも20年以上も前から解放運動に取り組んだ彼のおかげで、解放された奴隷の数は500人以上といわれている。
詩人でもあったガマは、死の2年前の1880年に友人のルシオ・メンドンサに対して送った手紙のなかで、自分自身の7年間の奴隷時代の生活について詳しく書き残している。これが現在ガマの手記とされる文書であり、文字による史料をほとんど残さなかったブラジル黒人奴隷の、ほとんど唯一の例外といえる、奴隷体験文書である。
もう一つ特筆すべき“現象”が、翻訳書のベストセラー化である。
ノーサップ自身が書き記した1853年刊行の原著のポルトガル語翻訳が、二つの出版社からそれぞれ別の訳者によって出されているが、いずれも、3月に入って、好調な売れ行きを示し、ベストセラーリストのノンフィクション部門で、3位ないし4位を4週も連続でキープしている。160年前に米国で出版された奴隷体験手記の翻訳が、ペーパーバック廉価版とはいえ、何故売れるのか。アカデミー受賞映画の影響だけでは説明がつくまい。やはりサイモン・ノーサップの同時代人であったルイス・ガマやあるいはジョアキン・ナブーコらが奴隷解放運動を展開した、という自国の歴史を振り返る、現代のブラジル人読者が多くいるから、と解釈すべきだろう。
さらに、TVドラマにも話は広がっていく。
彼の母親ルイーザ・マインをモデルとした、作家アナ・マリア・ゴンサルヴェスの大河小説 『色の瑕疵』 (2007年) を基にして、このルイス・ガマの一生をテレビドラマ化する計画が進められていたが、アカデミー賞映画のインパクトもあって、この具体化が一挙に早まり、監督はルイス・F・カルヴァーリョが決まっている。
この歴史小説の大作については、本欄 (200711月号) で簡単な紹介をしたことがあるが、少女時代に奴隷としてバイーアに売り飛ばされ、捕鯨場や農場で働かされてから、身請け解放奴隷となって、自営パン屋を開くが、イスラム系奴隷蜂起としては最大規模の「マレーの乱」 に関与したことで逃亡・潜伏せざるをえなくなり、さらには、アフリカに回帰して、女実業家・貿易商となる、といった19世紀のブラジル史が凝縮された、歴史小説である。彼女の息子がルイス・ガマであるが、このTVドラマ、ブラジル版 『それでも夜は明ける』 が放映されれば、また大きな話題となるだろう。
奴隷制時代は単なる過去ではない。この歴史再認識をアカデミー受賞映画が再生化させてくれた、ともいえるだろう。