会報『ブラジル特報』 2007年
9月号掲載

                佐久間 圭輔 (Japan brazil Consultant代表・マンゲイラ大使)



マジア・ド・サンバ

「難しいね。マジア・ド・サンバはブラジル人だけが持っているものだし、ジンガはわれわれの血に流れるものだから・・・」
マンゲイラの役員のアマウリが、日本人のためのサンバ・レッスンを取材に来たテレビのレポーターに、こんな感想をもらした。この短いコメントの中の二つの言葉、「マジア・ド・サンバ」と「ジンガ」が、何故か私の頭の中に残った。実はどちらも耳にする言葉だけれど、よくわかっていなかった。運命に導かれてサンバの世界に入り込んだ私としては、こんなことがわからない自分が情けなかった。この二つの言葉は、サンバの世界やブラジルを理解するためのキーワードに違いない。

サンバやカーニバルについては、どちらもブラジルの代名詞のように有名だから、それなりに常識として知っているが、サンバの世界に直接触れてみると、そんな常識が皮相的で、間違っている場合すらあることに気づく。ブラジル人特有のもので、血の中にあるという「マジア・ド・サンバ」と「ジンガ」とは一体なんなのだろう。確かに、サンバのステップや、リズムを叩きだす様子を観察していると、ブラジル人にはいかにもブラジル人らしい身のこなし方があって、それが一種独特な魅力を発散させていることに気づく。これが「マジア・ド・サンバ」、つまりサンバの魔術なのかも知れない。

「ジンガ」については、映画で紹介されて少しは知られるようになったが、興味深い言葉だ。ブラジルを代表する社会学者ジルベルト・フレイレも、サンバと「ジンガ」の関係について書いている。ワールドカップで見たロナルジーニョのドリブルを思い出せば、あの独特の身のこなし方が「ジンガ」ではないかと思う。「ジンガ」はサンバから生まれたらしい。

サンバの世紀

ブラジル人を理解する上でこんなに大切なサンバは、一体いつ頃、どのようにして誕生したのだろうか。現存する最古のサンバ・スクールであるマンゲイラは、1999年のカーニバルで、「サンバの世紀」というパレードを見せてくれた。パレードの先頭でコミサン・ジ・フレンチが歴史上のサンビスタたちを再現して、サンボドロムの観客を魅了した。ピシンギーニャ、カルトーラ、ネルソン・カバキーニョ、カンデイア、シニョー、ノエル・ローザ、クレメンチィーナ・デ・ジェズス、チア・シアタ、アリ・バローゾ、カルメン・ミランダ、そしてドンガなどが現代に生き返って観客の歓呼に答えた。

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日本のサンバ -浅草サンバ・カーニバル 「サウーヂ・ヨコハマンゲイラ」のメンバーたち

 サンバの起源についてはいろいろな説がある。しかし一般には、サンバは20世紀初頭に、奴隷としてブラジルにつれてこられたアフリカの黒人たちのリズムと踊りがもとになって生まれたといわれている。1888年にイザベル皇女によって署名された「黄金の法律」によって奴隷制度が廃止され、解放された皇帝の車夫や皇居の使用人、兵士やブラジル北東部からの移民たちなどが、皇帝の住居に近いマンゲイラに住むようになった。そしてこれらの集落では、住民たちはアフリカから伝わる音楽や踊りを楽しんでいた。最も伝統的なサンバ・スクールであるマンゲイラは、1928年にマンゲイラのモーロのブラコ・ケンチに創立された。そう遠い昔のことではない。

 1917年に国会図書館に最初のサンバ「ペロ・テレホーネ」を登録したのは、チア・アメリアの息子のドンガだった。笠戸丸によって791人の日本移民が初めてブラジルの大地を踏んだのが1908年だから、その歴史は100年にも満たない。しかしながら、一世紀足らずの間に、ブラジルで生まれたサンバが、国境を越えて世界中に広まり、地球の裏側の日本にまでやってきたことは特筆すべき現象だ。宗教的にも、文化的にも全く異質の地で、ブラジルの文化の象徴ともいえるサンバが開花し、日本人に愛されている。サッカー少年たちが、サッカー王国ブラジルを目指したように、マジア・ド・サンバに魅せられた日本人が、カーニバルの国へ飛立っていく。

 私がマンゲイラのモーロに初めて登った翌年の1998年、マンゲイラは「シコ・ブアルキ・ダ・マンゲイラ」で11年振りの優勝を果たしたが、8月3日には、マンゲイラの創設者の一人でサンバの世紀のただ一人の生き証人だったカルロス・カシャッサが96歳で天に召された。この悲報は日本へも届き、浅草サンバ・カーニバルの開始前、日本人がこの偉大なブラジルのサンビスタを偲んで一分間の黙祷を捧げた。ロサンゼルスやマイアミ、あるいは日本の浜松などで、海外に住むブラジル人が中心になってカーニバルが楽しむのなら、それほど驚くにあたらない。ところが浅草のカーニバルでは、日本人が中心になって、しかもポルトガル語でサンバを歌っていることを知れば、これこそマジア・ド・サンバのなせる「わざ」と思わざるを得ない。

知られざるリオのカーニバル

 カーニバルと呼ばれるお祭りは、ブラジル国内はもとより、世界中で見ることが出来る。ところが、カーニバルといえばリオのカーニバルを想起するように、リオのカーニバルは地上最大の祭典といわれ、その規模、豪華さ、美しさ、すべてにおいて類を見ないものだ。

 ただ一口にリオのカーニバルといっても、この世界一のカーニバルといわれるのは、カーニバル期間中の日曜日と月曜日に、「サンボドロモ」(カーニバルの特設会場)で行われるパレードを指すものだ。今年これらのパレードに参加出来たのはスペシャル・グループにランクされた13のサンバ・スクールだった。スペシャル・グループの下には「アクセス・グループ」と呼ばれるグループがあって、グループAからグループEまで、全部で60のサンバ・スクールがランクされている。サッカーと同じで、毎年成績によって、グループ間の移動が行われる。

この世界一のカーニバルでも、日本では知られていないことがあまりにも多い。お祭りだから楽しめばいいといっても、ただ豪華絢爛たる山車や衣装が、これでもか、これでもかと出てくるだけでは、一晩中寝ないで夜が明けるまで見続けることは大変だ。どんなに素晴らしいオペラでも、ストーリーも、歌っていることも、何にもわからなければ、興味は半減どころか、うんざりするに決まっている。

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リオのカーニバル -山車の製作現場

世界中が見るリオのカーニバルは、長さ590メートル、幅13メートルの舞台で演じられる移動オペラだ。登場するサンバ・スクールは、テーマに従ってストーリーを展開する。サンバ歌手が歌い、バテリアがサンバ曲を演奏する。8台の山車は舞台だ。ちょうど8幕もののオペラのように、それぞれの舞台を背景に、舞台にふさわしい衣装を身に着けた役者がストーリーのパートを表現する。全員がサンバ歌手に合わせ、バテリアのリズムに合わせて歌い踊りながらパレードして行く。

この世界一のお祭りを見ていると、次々に知りたいことが出てくるが、そんな疑問に的確に答えてくれる資料は見当たらない。知っているようでいて知らないリオのカーニバルなのだ。


詳細については、近く刊行予定の拙著
『もっと知りたいブラジル マジア・ド・サンバ 知られざるリオのカーニバル』を読みお頂きたい。
(発行所: アララ文庫 Tel/Fax
0467-44-4865 ararabunko@aol.com)