会報『ブラジル特報』 2008年
7月号掲載

                              岸和田 仁(在サンパウロ)



多くの人たちから国連事務総長になることを嘱望されていたブラジル人国際外交官セルジオ・ヴィエイラ・デ・メロ。国連イラク特別代表として赴任して2ヶ月足らずの2003年8月19日、卑劣なトラック爆弾テロにより殉職した。享年55歳。

 没後5周年の今年、待望の本格的な評伝が出版された。原著(今年2月、ペンギンブックス出版)のタイトルは「熱情を追い求めて-セルジオ・ヴィエイラ・デ・メロと世界を救う闘い」、ポ語翻訳版(8月出版、Cia. Das Letras社)では「世界を救いたいと思った男-セルジオ・ヴィエイラ・デ・メロの伝記」となっている。巻末索引を入れると622ページ(原著)と分厚いが、緻密な資料渉猟を踏まえた超力作であり、2週間近くかけて原著を読了した筆者も感動しながら読み進めた作品なので、ここで紹介しておきたい。なにしろ、伝記の対象者も著者も両方とも話題の人なのだから。

 著者サマンサ・パワーは、ハーヴァード大学行政学教授にして、ピューリッツァー賞受賞の著名なノンフィクションライターであるが、米国大統領選挙ではオバマ民主党候補の選挙顧問を務めていた。(過去形なのは、クリントン候補をモンスターと呼び捨てた舌禍事件を起こして辞任したからだ。)いわば米国的な「政治的に正しい」潮流の学者ライターが、自らの国連や国際政治への思い・信条を、生前から親交のあったセルジオ・ヴィエイラの評伝を通じて吐露しているという面もあり、その意味では“傾向的な”著作といえないこともないが、そんな卑小な見方を吹っ飛ばすほどの力作だ。膨大な関連資料・文献に目を通したばかりでなく400名以上の関係者にインタビューしたうえで書上げており、実際のデータに裏付けされた本格派評伝である。1948年リオで生まれたセルジオは、バイーア出身で苦学して外交官となった父親の任地ヨーロッパで少年期の教育を受け、大学はリオ連邦大学から編入試験を経てパリ大学で学び、アリストテレス、カント、ヘーゲル、マルクス、サルトルなどを貪り読む哲学徒であった。が、時代は激動期、20数年後に彼自身が「自分は、child of 1968(5月革命の申し子)だ」と自己規定したように、学生革命を信じ街頭デモに積極的に参加していく。1968年5月、セルジオも600名余の逮捕者の一人だったが、警官の暴力で右眼の上(眉毛の近く)を痛撃され、その傷は軽くなく入院している。

 大学院への進学を考え始めた頃、リベラル思想が仇となり父親が軍事政権から睨まれ、シュトゥットガルト総領事の時強制退職処分を受けてしまう。学費援助の道を絶たれたセルジオは自活すべく哲学教師のあてを探したがあるはずもなく、哲学専攻では一般企業の就職も難しく、と困り果てたところに現われたのが国連難民高等弁務官事務所の広報編集補助の仕事であった。1969年に国連に入った時はアルバイト感覚であったが、彼の有能さはすぐに認められ、2年も経たないうちにフィールドへ派遣されるのだ。1971年のバングラディッシュを皮切りに、派遣先を列記するとスーダン、キプロス、モザンビーク、ペルー、レバノン、カンボジア、ボスニア、ルワンダ、コソボ、東チモール、イラクで難民問題や人権問題のエキスパートとして働く「現場の人」であった。とりわけ1999年の国民投票でいったん独立の方向が固まったもののインドネシアのヤクザ民兵による軍事侵略で全てがご破算となった東チモールを再建する、という難問と格闘した時のタフガイぶりは有名である。国連暫定行政機構のトップとして海千山千の関係者たちと徹底的な対話を通じて独立の道筋をつけたのだが、この時は、本来の非暴力主義者も国連軍に対し「ヤクザ民兵が武力で仕掛けてきたら、発砲してもよい」との指示を出している。こうした激務の日々においても哲学研究の志はいささかも揺るがず、1974年には250頁もの論文「現代社会における哲学の役割」を書上げ、パリ大学から哲学博士号を授与され、1985年にはDoctorat d’Etat論文「Civitas Maxima:起源、基盤と超国家主義概念の哲学的かつ実利的意味」(なんと600頁!)を提出している。こんなに知的かつ行動的なブラジル人がいたとは、読者はこの哲人外交官の生き様に圧倒されるはずだ。是非日本語版も出てほしいものだ。