執筆者:桜井悌司(ブラジル中央協会 常務理事)

 

ブラジルの代表的な鉄鋼会社であるウジミナス社(ミナスジェライス製鉄所)といえば、1950年代後半の日伯巨大プロジェクトの代表例として広く知られている。旧新日本製鉄の技術援助に基づき、1962年に生産を開始した。その技術力は定評があり、自動車の鋼板等の品質は群を抜いている。日本企業のブラジル進出のサクセス・ストーリーとして、必ず取り上げられた。

しかし、ここ数年、日本の経済紙誌で、ウジミナスについて好意的に取り上げられるケースは少ない。2011年にブラジルの大手鉄鋼メーカーのナショナル製鉄がウジミナスの買収を試み、大いにこじれたことがある。その際に、既存の株主である大手セメントメーカーのボトランチン社に代わって新株主になったのがアルゼンチンのテルニウム社である。その際に、テルニウム社出身のCEOが就任した。ところが、2014年9月に、役員報酬をめぐり、不当な役員報酬があったとして、テルニウム側の社長と2人の副社長を解任したが、この措置をめぐり、日本ウジミナス社とテルニウム社側が対立した。今年に入って、新日鉄住金は、資金不足に問題を抱えるウジミナス社に最大300億円の追加出資を決定したが、テルニウム社は、この措置に同意していないという。さらに5月25日にウジミナス社が、株主間協定に反して、新社長にテルニウム者側が推すレイテ副社長が就任すると発表し、新日鉄住金は無効と主張している。その後、6月1日の日経新聞によると、新日鉄住金側とテルニウム側が、ウジミナスの事業分割協議に入ると報道されている。イパチンガ製鉄所は、新日鉄住金に、クバトン製鉄所はテルニウムに分割される可能性があるという。まさに泥沼の様相を呈してきた。さらに7月初めの新聞情報によると、新日鉄住金側が社長人事をめぐって、訴訟を起こす可能性があると報道されている。

さて、ウジミナスウジミナス社の現状はこれくらいにして、業績好調だった時代のウジミナス社に関する私の思い出を紹介したい。

ヒナウド社長との写真

ヒナウド社長との写真

2013年11月にサンパウロに赴任して、すぐに新日本製鐵のブラジル事務所長の浅賀健一さんから電話があり、ウジミナス社の業績発表会が12月に開催されるので参加しないかという招待を受けた。学生時代から日伯共同プロジェクトの成功例であるウジミナス社に大いに関心があったので、すぐに参加させて欲しいと回答した。業績発表会は、毎年12月中旬に開催されていたが、私は、2003年、2004年、2005年と3年連続して参加することができた。私はこのイベントを大いに楽しみにしていた。早朝にサンパウロとリオからチャーター便が出され、ウジミナスの本社のあるミナス・ジェライス州のイパチンガ/ウジミナス空港に向かう。チャーター便なので待ち時間も短く快適だ。あたりを見渡すと、知り合いの日本人もかなり見受けられる。空港到着後、バスに乗り換え、ウジミナスの支援でできた立派なコンベンション会場に連れて行かれる。当日のプログラムは、過去1年間の業績の発表、社員表彰式、工夫の凝らしたアトラクションがあり、最後に盛大な昼食会と続く。その中でも、最も心待ちにしていたのは、ウジミナス社の当時の社長のRinaldo Campos Soares氏のスピーチであった。彼の話を聞いていてすぐにわかったことは、彼が日本の文化、国民性に精通しており、日本式経営や品質管理に心酔していることであった。新日鉄の企業哲学がウジミナス社の社員の隅々まで浸透しているようであった。当時業績も好調で、スピーチにも自信に満ち満ちており、感動的であった。企業の功績に貢献のあった社員表彰も日本的で微笑ましい感じであった。受賞した社員も喜びと誇りに満ちていた。

マナウスにあるモトホンダの工場の労働者が、同社で働くことに誇りを持っていると語ってくれたことを思い出した。ショウも毎年趣向が凝らされていた。外部のアーチストの公演であったり、同社に所属する体操や柔道等スポーツ選手が登場し、パーフォーマンスを披露してくれたリと様々であった。ウジミナス社がスポーツ振興に相当支援していることは有名な話であるが、そのことがよく理解できた。昼食会は豪華で和気あいあいの雰囲気であった。Rinaldo社長も機嫌よく、我々出席者との写真撮影に応じていた。最後に、ミナス・ジェライス州の産物であるカシャサや蜂蜜がお土産として参加者全員に手渡された。その日、1日は、「ブラジルの中の日本」を経験することができ、新日本製鐵等が精魂込めて育て上げた企業をつぶさに見ることができる貴重な機会であった。

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ウジミナス社のイパチンガ製鉄所

1950年代後半、当時の日本企業は、今ほど国際的でもなく、地球の反対側にあるブラジルのことも十分知らずに進出したに違いない。ウジミナス社の成功談については、種々の書籍で紹介されている。私が大いに興味を持つ点は、どのようにして、日本人の考え方、経営方針、品質管理の哲学と手法を末端の社員・労働者にまで浸透させることができたのかである。日本から延べ何千人という技術者がブラジルに派遣され、技術移転をし、ブラジルからも何百人かの技術者が日本で研修を受けたと思われる。日本人はコミュニケーションに苦労しながら、必死になって技術移転を行ったに違いない。その間、中小の失敗を数多く重ね、最後には、技術移転を成し遂げ、揺るぎない友情と信頼が日伯の技術者、経営者間に生まれたのであろう。振り返って、現在のウジミナスの複雑な問題の根底には、ウジミナス社は日本が丹精こめて育てた会社で、日本の会社であるという強烈すぎる自負心や思い入れがあり、そのことが事態の解決を妨げているのではないかとふと思ったりしている。ウジミナスはブラジルの会社であり、多国籍企業であるという発想が大切なような気がする。

そう言えば、ウジミナスと並んで語られるのは、石川島播磨重工業(IHI)によるISHIBRASの例である。同社はブラジル人のエンジニアやワーカーの人材教育に多大なる貢献をしたことで有名である。ISHICOLA(ISHIBRASと学校のESCOLAをミックスしたもの。石川島学校)はあまねく知られている。残念ながら、IHIは撤退を余儀なくされたが、今でもブラジルの造船所で働く、工場長クラスの技術者はISHICOLAで学んだ人物が多いと言う。サンパウロ駐在時代に、石川島播磨重工業本社の若手社員がジェトロ事務所を訪れたことがあった。その時に私に語った言葉を今でも覚えている。彼らがブラジルの会社を訪問し、IHIだと言うと誰もが、知っており、すぐに打ち解け、歓迎してもらったということであった。

話はまた飛ぶが、エリゼール・バチスタさんの話も大いに日本人魂を鼓舞するものであった。リオに出張するとリオ・デ・ジャネイロ工業連盟に立ち寄ることが多かった。専務理事に会っていたが、その際、不思議にエリゼール・バチスタさんが同席していた。バチスタさんと言えば、1924年にミナス・ジェライス州に生まれ、ブラジルが世界に誇る鉄鉱資源会社のヴァーレ・ド・リオ・ドーセ(現ヴァーレ)の社長を長く務め、鉱山エネルギー大臣も務めた大人物である。有名なトゥバロン製鉄所プロジェクトの推進者でもあった。数年前には、日本・ブラジル賢人会のブラジル側の代表も勤めていた。面会時に彼が語っことは忘れられない。「自分は、日本政府や企業と26回契約書を締結したが、一度として期待が裏切られたことはなかった。日本は尊敬すべき国である」と語った。彼は、90歳を数えていたがまだはつらつとしていた。

80年代には、ブラジル経済が停滞し、90年代には、日本経済はバブル崩壊によって、低迷した。その結果、日伯関係は、失われた20年と呼ばれる時期を迎えることになった。両国の経済関係は低調に推移し、人脈関係も失われることになった。今、もう一度、ウジミナス社、イシブラス社などのビッグプロジェクトがブラジル人企業家にどのような影響を与えたか、エリゼール・バチスタ氏等知日派との過去の深い人的繋がりはどのように築かれたのか等について振り返り、今後どうすれば、日伯経済関係、人的関係を深化させるかを考えるべき時期が来ていると思われる。