会報『ブラジル特報』 2008年7月号掲載 <日本ブラジル交流年・ブラジル日本人移住100周年記念寄稿> 小池 洋一(立命館大学 経済学部国際経済学科教授・当協会理事)
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日本人移住100周年に当たる2008年は日本とブラジルの新たな時代の始まりである。他方で国際的には、2008年は食糧への不安が高まり、食糧大国ブラジルがクローズアップされた年でもある。日本とブラジルは新しい時代に向けてどのような関係を築き、国際的な役割を果たしえるであろうか。 食糧危機の時代 食糧価格高騰の要因は、世界人口の増加、中国など新興国における食糧需要の増加、世界各地の生じた旱魃、洪水などの天候不順、原油高と輸送費の高騰、サブプライムローン破綻と穀物市場への大量の投機資金流入、バイオ燃料への穀物利用など多岐にわたる。中国など新興国での穀物需要の増加は、食用だけではなく、肉食の普及にともなう飼料用穀物需要の急増がある。地球温暖化に起因する天候異変は世界各地で生じているが、オーストラリアの旱魃、米国の穀倉地帯であるアイオワの洪水はその一例である。食糧が地球規模で移動しているグローバル化の時代にあって、原油高は輸送費を引き上げ、食糧価格を上昇させる。農業生産が大量の石油を消費している問題もある。サブプライムローンは世界が直面するもう一つの危機であるが、それを救済のためにマネーサプライが増加し、大量の余剰資金が投機資金となって穀物市場に流れ込んでいる。バイオ燃料は、地球温暖化を抑制するという理由で正当化されているが、バイオ燃料の生産と輸送のための化石燃料の使用を考慮した場合、CO2排出をどの程度節約するか疑問が多い。ブッシュ政権がバイオ燃料に積極的な背景には、イラク侵略の失敗、ベネズエラの政治対立などから石油の安定調達に不安が存在することと、政権の支持基盤の一つである農家およびADMなど穀物メジャーの利益を拡大することがある。食糧危機には人類が直面する多様な問題が集約されているのである。食糧危機が人々に与える苦痛は平等ではない。4月11日から13日にワシントンで開催された世銀・IMFの合同委員会は、金融危機ともに、食糧危機を議題にした。食糧価格の高騰によって食糧自給率の低い途上国において食糧輸入が国難になり、食糧が不足し貧困層の生活水準が低下し、飢餓に直面する人口が増大した。多くの途上国で農業は輸出向け商品作物で占められ、またかつて食糧を自給していた国でも米国など先進国の補助金付きの農産物によって駆逐されてしまった国が少なくない。さらに食糧輸出国でも、国際価格の高騰によって食糧価格が上昇し、国内の社会、政治不安を抑制するため輸出規制を発動する国が相次いだ。こうして食糧を輸入に依存する途上国では事態がいっそう悪化した。ハイチ、メキシコ、エジプト、カメルーン、セネガル、フィリピン,インドネシア、タイなど多くの途上国で暴動、デモなどが発生した。先の世銀・IMFの合同委員会で、ゼーリック世銀総裁は、穀物価格高騰がこれまでの貧困との戦いを台無しにさせているとし、失われた損失は7年に相当するとした。食糧高騰の被害は途上国にとどまらない。先進国でも所得が低く食料支出の比重が高い貧困層を苦境へと追いやっている。 世界の食を支えるブラジル 食糧危機がしのびよるなかで広大な農業フロンティアをもつブラジルへの期待が高まっている。すでにブラジルはすでに米国と並ぶ世界の農業大国である。農業部門の純輸入(輸出マイナス輸入)では米国を凌駕する。商品別に見ると、多くの農畜産物でブラジルは、世界の生産、輸出において大きなシェアを占めている。ブラジルの農産物輸出は、砂糖、エタノール、オレンジ・ジュース、牛肉、鶏肉などで世界第一位、大豆、大豆粕で第二位にある。生産では砂糖、エタノール、オレンジ・ジュース第一位、牛肉、大豆、大豆粕で第二位にある。農業適地の減少の一方で進行する世界人口の増加、新興国を中心とする食糧および飼料需要の増加、バイオ燃料に対する需要増加などは、食糧供給国としてのブラジルはその重要性はさらに高めている。それでは、ブラジルは世界の期待に応えて食糧供給を増大しうるであろうか。ブラジル農務省は2006/06年から2017/18年の主要作物の生産増を表のように示している。増加率ではエタノール、砂糖、綿花、大豆が、生産量では大豆、砂糖、トウモロコシの伸びが大きい。生産の増加にともない農地はどの程度拡大するであろうか。主要8品目で同期間に約900万ヘクタール、約18%農地が拡大すると予想している。伸び率が大きいのは、サトウキビ、小麦であるが、栽培面積の絶対的な伸びが大きいのは、大豆、サトウキビである。生産増に比べて耕地面積の増加が小さいのは、生産性の上昇とともに、作物転換による農地の効率的利用があるためである。しかし、生産性の上昇は可能であろうか。作物転換は円滑に進むであろうか。それらがない場合、農地は18%を上回って増加する。周辺に安価な土地がある場合、作物転換ではなく新たな農地が土地切り開かれる。 表 主要農産物の生産、栽培面積の予測-2006/07~2017/18年
(注)*100万リットル、**1,000袋(60kg)、***砂糖とアルコール生産に必要な面積。(出所) ブラジル農務省。 環境問題はブラジル農業にとって重要な制約である。アグリビジネスの発展はすでにセラード、アマゾンに開発と環境破壊をもたらした。セラードではすでに約半分の植生が変更された。水はセラードの農業の生命線であるが、大量の農業用水の使用によって、地下水、河川の水が減少しつつある。アマゾンでも毎年約2万ヘクタールの森林が失われてきた。気候条件が厳しく、土壌が貧弱なアマゾン森林はもともと農業不適地である。収奪的な農業、粗放的な牧畜が唯一可能な農法であった。短期間に土壌から栄養分が失われ、農業は持続不能になる。農業に対する影響でより深刻な問題は、アマゾンの森林破壊がもたらす気候変動である。森林が農地、牧草地に変わると、地温が上昇し水分の蒸散量が減少する。開発はアマゾンでの気温を上昇させ、降雨量を減少させる。こうした気候変化は、全体としてアマゾンでの農業を一層難しくする。気温上昇と降雨量の減少は、アマゾンに隣接し周期的に旱魃を経験してきた北東部の農業にも深刻なダメージを与えることになる。 アマゾンの降水量はアマゾンの南に広がる地域の水収支とも関わっている。アマゾンで蒸散した水蒸気は、ジェット気流や間歇的に吹く風に乗って西方に向かい、アンデス山脈に衝突すると南下し、ブラジルや隣国に雨を降らせる。アマゾンで森林が失われると、水の蒸散が減少し、アマゾン南方の地域で降水量を減らす要因になる。他方で、地球温暖化の影響で大西洋では海水温が上昇しているが、ブラジル南東部、南部、アルゼンチン北部では湿潤な大気の流入によって、降水量が増加する可能性が。しかし、降雨はしばしば集中豪雨的なものとなる。こうした降雨量の変動は、ブラジルとその隣国の農業に収穫の減少と不安定をもたらす危険がある。要するにブラジルが世界の穀物庫になるには不確実性がある。 食糧危機と日本ブラジル関係
食糧価格高騰のなか日本では食糧安全保障がにわかに叫ばれている。エネルギーベースで40%に満たない食糧自給率を考えれば当然である。食糧の安定確保を求め、官民ともブラジルとの関係強化に向かっている。ここで求められるのは、日本一国の食糧安全保障ではなく、世界全体のために食糧をどう確保するかという視点である。経済力にものをいわせて食糧を買いあさり、貧困国を飢餓に追いやるような一国主義的な食糧安全保障は容認されない。もう一つの視点は食糧生産が環境破壊をともなうものであってはならないということである。ブラジルでは常に開発と環境保護がせめぎあってきた。ルーラ政権は、食糧とバイオ燃料によって国際的な覇権を求めている。食糧危機に加えて、環境とエネルギーの危機が叫ばれるなか、ブラジルに求められるのは持続可能な農業の追求である。農地に変貌しつつあるセラード、アマゾンの環境保全には国際協力が不可欠である。セラードで枯渇しつつある水源の枯渇、劣化しつつある土壌の保全において日本に期待されるところは大きい。アマゾンでの衛星による違法伐採その他開発の監視システム、日系人のアグロフォレストリー(森林農業)の普及などでも日本の役割は大きい。食生活の変更も食糧、環境、エネルギー危機の克服にとって不可欠である。食糧は必ずしも不足しているわけではない。ここ数十年世界の穀物生産は人口を上回る割合で増加してきた。唯一サブサハラのアフリカのみで穀物生産は人口と同じ割合で増加したが、ほかの地域では穀物生産の伸び率は人口を大きく上回った。飢餓の一方で、飽食によって大量の食糧が廃棄されている。肉食の普及によって大量な農産物が飼料として消費されている。大量のエネルギー消費を賄うため、農産物がエネルギー原料として利用されている。ブラジルを世界の食糧庫として開発する以前に、食のあり方を変えること、エネルギー消費を減らすことが、世界に求められているのである。日本ブラジル交流年・日本人ブラジル移住100周年が、世界が直面するさまざまな危機を克服するための新たな一歩となればと思う。 追記)ブラジル農業と環境制約については、次の拙稿ご参照。「ブラジルのアグリビジネス:発展と環境制約」『ブラジルにおける産業の動向と消費社会の到来』国際貿易投資研究所、2008年
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