会報『ブラジル特報』 2013年3月号掲載 林田 雅至(大阪大学 コミュニケーションデザイン・センター教授)
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契機となった事件 1999年1月、国立研究機関勤務のインドネシア人国費研究員は息苦しさを訴えて、医療機関を受診し、入院を希望するが、「入院するほどの状態ではない」「ことばが通じないため診療ができない」として断られた。翌日状態が急変し、救急車で搬送されるも、3日後、意識も戻らないまま搬送先病院で死亡した。本人は日本語がうまくなかったとはいえ、英語、フランス語、ドイツ語および母語インドネシア語は流暢であった。 大阪府下北摂で発生した「医療とことばの壁」の重大な問題は、2003年に「みのお英語医療通訳研究会」を誕生させ、翌04年4月18日研究会主催「医療通訳って何? 病院でぶつかるコトバの壁」講演会・シンポジウム(大阪国際会議場)を開催した。2002年に私の勤務先旧大阪外国語大学地域連携室で、医療通訳も含むコミュニティ通訳の社会的意義・重要性を考え、人材育成・派遣などの取り組みを始めていたが、私も追加発言者として参加した。以後、この研究会は問題「掘り起こし」の火付け役として非常に重要な社会的役割を果たした。 「外国語=英語」からの脱却 ところで、1990年以降、入管法の改正により、ポルトガル語、スペイン語話者である中南米日系人労働者が大量に流入した。一昨年、外国語学と看護学が共存する愛知県立大学で開催された、医療分野ポルトガル語スペイン語講座(ポルトガル語・スペイン語による医療分野地域コミュニケーション支援能力養成)シンポジウム・テーマ「大震災から医療通訳を考える」(2011年11月3日)で発表報告したが、同席したJAあいち厚生連・豊田厚生病院看護師長による「豊田厚生病院における医療通訳の現状と課題」は興味深く、入管法改正直後に来日したブラジル、アルゼンチンの日系人看護師3名(出身国・国家資格取得)を日本での資格がないとはいえ,院長決裁で看護助手として本採用し、以来、医療通訳の最前線に立つ所謂ソーシャルワーカーとして、特に日系ブラジル人の医療健康対応に奔走してきた経緯がある。それはやはりトヨタの工場労働者の福利厚生を目途に実施されてきた特殊性があった。 2004年、製造業に非正規雇用を導入せざるを得ないほどに日本企業のグルーバル化は一気に加速し、08年リーマンショックをもって、それまで一国市場主義であった「戦後の市場経済の枠組み」が、中国・インドなどの人口を標準とするグローバル市場規模に拡大し、必然的に労働市場における多民族化が促進された。国際コミュニケーション・ツールとしての「貿易・通商・経済」英語の位置付けはいまだ変化はないものの、人々の生活レベルの多言語化は飛躍的に進んでいる。 こうした経緯から、Language Barrier Free(ことばの壁を越える)を可能にするものが、英語だけではカバーできない状況が生まれ、「外国語=英語」からの脱却をはかる必然性に直面することになった。 多言語のLanguage Barrier Free 極端な例ではあるが、2011年1~3月、大阪府下でギリシャ語医療通訳の緊急要請があった。難病腹膜播種(末期胃癌)患者およびその付き添い家族と病院側との意思疎通を円滑に行うことが求められた。現代ギリシャ語の話者、ネイティブ・スピーカーを探すのは至難の業であった。本学に3人の存在が確認されたが、最終的に欧州ポルトガル語に関心を抱く日本国籍を有する外国語学部ポルトガル語学科の教え子の2年生(当時)にその役割を託すことになった。小学校教育をドイツで受け、中学校をギリシャで、そして日本で高校から5年を過ごす当時20歳の若者は「ギリシャ語」を話す機会が皆無であり、また人道的な貢献をしたいと、無報酬でよいとまでいうほどだった。患者および家族の抱える言語ストレスを解消するためには、また日本側医師、看護師、医局などの言語ストレスを緩和するためには、当該言語の日常表現を分かり易い語彙、こなれた文法で通訳(仲介)できる所謂Contextual sensitivity(文脈を汲み取る感受性)が必要であることが判明した。専門用語に精通することが不可欠とされる「医療通訳」においてContextual sensitivityの占める割合は相当に大きいと思われた。 肝心の患者の治療は、最終的に臓器ごとの摘出難手術を執刀する唯一の日本人医師の極みの技を以てしても困難な段階を迎え、「末期の水(終油の儀式)」をギリシャでとの本人および家族の希望で、3月10日関西国際空港から帰路に就いた。翌日からの日本の大混乱は敢えてここでは言及せず、また別の機会に譲りたい。 また、2009年7月初旬、鉄道資本主義開発の鑑とされる、阪急電鉄敷設による住宅街およびレジャーランド開発と宝塚少女歌劇団を生んだ聖地宝塚で、外国籍住民が1.5%を占め、日系ブラジル人に至っては0.15%という圧倒的な少数派の14歳の少女が、家庭環境の酷似する日本人少女とともに、自己破壊的に両家に放火しようと企み、日系人家庭の生みの母を焼死させ、来日直後7歳の折再婚した母から誕生した実妹と継父は重体となった。ただ、実妹が惜しみない愛情(母語)を注いで育てられる4歳までの5年間、彼女は11歳という第一使用言語(≒母語)が確立される公立小学校において、生活日本語は流暢であっても、学習日本語(≒第一使用言語)は未熟であった。家庭内で母語が育まれたかは疑問である。したがって、彼女にとって十分な第一使用言語は母語でもなく、また生活・学習日本語でもなかったかもしれない。かりに所謂ダブルリミテッド(第一使用言語が中途半端なこと)であったとすれば、これほどに気の毒なことはなかったのである。我々は個体差はあっても、一般的に11歳頃に第一使用言語≒母語確立の時期を迎える。私自身もそうだが、まるで生ものの美味しい食材を手に入れたかのような感激は誰しも経験するところである。言語形成期に体感する言語的に表現力が豊かになった喜びは例えようもない。そうして抽象的な思考が可能となり、地域社会の歴史文化を実地に学び、地図を手描きし、想像力を逞しくして、自前の地図を通じて現実認識を獲得するのである。 閑話休題、上記問題の少女について、低学年の頃、隣席のクラスメートが学習言語支援者となり、その子の友人二人くらいが増員支援者ともなって、同僚の3名が彼女を言語・生活面で支援に回るというシステムがあれば、現地初等教育機関で恐らく日系人は彼女だけであった可能性は高いから、仮に40名クラスとして、4人組であり、10%を占め、1人だけの孤立無援状況から既に脱していることになる。クラスサイズという小規模なコミュニティながら、学年進行で5年生(11歳)頃までに、少なくとも母語ではないかもしれないが、学習日本語が第一使用言語として獲得された可能性は十二分にあったのである。けれどもそんなシステムは、幻想であった。なお、私はサンパウロの日系人や大阪の在日韓国朝鮮人などの地域総人口比と、言語・文化継承の最小単位2名という数字を組み合わせ、我々日本人にとって馴染みやすい「クラス単位40名」を想定して得られる5%を便宜上「マイノリティーの最下限」と捉えている。
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