執筆者:桜井 悌司(ブラジル中央協会 常務理事)
1973年に初めてサンパウロに出張した。サンパウロ日本産業見本市の組織・運営のためである。その当時、ブラジルの経済は絶好調で、「ブラジルの奇跡」と呼ばれていた。
スーパー・ミニスターのデルフィン・ネット大蔵大臣が大活躍していた。まさにブラジル・ブームの真っ盛りで、日本企業のブラジル進出ラッシュは目を見張るものであった。この見本市は、サンパウロで最大の展示会場であるアニェンビー展示会場で開催され、屋内・屋外合わせ20、000平米を使用したジェトロ史上最大の見本市であった。我々は大規模な見本市と思っていたが、直前に開催されたドイツ産業見本市やフランス産業見本市は、6万平米のアニェンビー会場をフルに使った大規模見本市で、フランスからは当時のジスカールデスタン大蔵大臣(後に大統領)がコンコルドでやってきたものであった。ブラジルの規模の大きさやフランスやドイツのブラジル進出の積極性には驚かされた。
私は、PR・広報、セミナー、催事の担当として、73年2月半ばから5月まで3ヶ月間、サンパウロに滞在した。PR・広報と言っても、すべて自分でやるしかなく、アシスタントの日系ブラジル人と一緒に、ニューズ・リリースを作り、ポルトガル語に翻訳したり、広告・宣伝計画を立案したりした。一番効果があったのは、新聞社めぐりで、ニューズ・リリースと小さなお土産をもって、サンパウロの有力紙やテレビ局を次から次とまわり、日本産業見本市を周知させるというやり方であった。訪問すると小さい記事にしてくれたり、新聞記者発表の時には、旧知の記者が出席し、後で記事を書いてくれたりした。見本市直前や会期中には、テレビ局からの出演依頼が結構舞い込み、タレント性豊かな私の上司である石沢正氏に出演してもらった。日本産業見本市の地方への広報を目的として、VARIGブラジル航空(その後破算した)とタイアップして、サンパウロ州及び近郊の州の16都市で巡回プロモーションを行った。それら一連の活動が効を奏してか、見本市が始まると地方の日系の方々が、連日十数台のバスを連ねて見学に馳せ参じてくれた。その光景は感動的なものであった。この見本市では、300円くらいの入場料を現地のブラジル日本商工会議所やブラジル日本文化協会(文協)を中心とした受け入れ委員会が徴収したが、2週間の会期中、合計で35万人の来場者があった。収益も相当額になり、後にブラジル日本商工会議所や日系最大の組織である文協(現ブラジル文化福祉協会)に寄付した。2003年にサンパウロ駐在になったが、その時の寄付金について商工会議所や文協に問い合わせたところ誰もそのことについては知らなかった。記録は残しておかないと消えてしまうことがよくわかった。当時見本市に出展したお土産屋さんや飲食店は、「あの時は、大いに儲けさせてもらった」と私に大いに感謝してくれた。特に、ブラジル製のハッピ・コートは飛ぶように売れたことを覚えている。
セミナーについては、日本からの講師派遣による2つの経済セミナーと出展企業による10の技術セミナーを行った。経済セミナーは、上智大学の水野一教授の講演で、2回開催し、企業による技術セミナーは、合計10回組織した。必ずしも参加者は多くなかったが、後にサンパウロでセミナーを組織することになったが、そのノウハウ習得には役立った。サンパウロ州政府の招待で、日本企業のために「投資環境視察ミッション」も組織された。水野一教授が団長、私が副団長で参加した。スケジュールを終了し、サンパウロに戻る途中で、航空機が故障し、ミナスジェライス州のウベラバ市に不時着し、1泊を余儀なくされたのも思い出である。
催事は、展示会場に隣接した大劇場と展示場内の特設ステージの2か所で会期中の2週間、毎日、途切れなく実施した。1日の催事スケジュールをみると、大劇場では、映画3回、日本舞踊・日本音楽2回、助六太鼓、ファッション・ショウ、沖縄民俗舞踊が休みなく上演され、特設ステージでは、エレクトーン3回、パンの芸術、活花実演2回、友禅染実演2回、日本舞踊・音楽2回、沖縄民俗舞踊2回、空手、剣道、助六太鼓、茶道実演と合計16回の多彩なイベントを展開した。
このような多彩な催事が可能となったのは、偏にブラジルの日系の方々の絶大な協力のおかげであった。その当時、ブラジル全土で、120万人の日系人がいると言われていた。当初予算不足のため、出演料は無料ということでお願いしたが、なかなか思うようにはボランテイア出演者が集まらなかった。そこで、サンパウロ日本産業見本市が、日伯の歴史上最も大がかりなイベントであること、出演することによって、自分たちの踊り、音楽等につきPRできることを強く説得して回ったところ続々とエントリーがあった。例えば、踊りや茶道、華道の一つの流派がエントリーすると他のライバルの流派が出演の名乗りを次々とあげるというように、好循環が続いた。結果的には、多額の入場料収入が入ったので、謝金も支払うことができ、すべてハッピーに終わった。福島県人会が、500人の県人を集めるのでやぐらを作って欲しいという要望もあり、実現に移した。500人の福島県人を中心に、ブラジル人と輪になって仲良く踊っている姿は壮観であった。当時、日系コロニアの方々は、日本から来た企業の出張者に対し、敵意に近い感じを持っていた。
日本企業からの出張者が群れをなして、ボアッチに出かける姿がペンギンのように見えたせいか、「ペンギン族」と呼ばれていた。コロニアの方々にしてみれば、長い間の苦労が実り、ようやくブラジル社会で評価されるようになったのに、新しく来た日本人は金にものを言わせ、大きな態度をしていると感じておられたのだと思う。しかし、見本市をきっかけに、日系コロニアと日本の進出企業のわだかまりも徐々になくなり、絆が強まった感じがした。私は、この見本市には末端の助っ人として出張したのであるが、見本市の実務責任者は私の先輩で宇野滋夫氏であった。同氏は、進出企業はもちろん、日系コロ二アの方々にも絶大な信頼があった。当時の文協の事務局長は、足達仙一さんでブラジル日本商工会議所の専務理事は鈴木与蔵さんや本田事務局長で大変お世話になった。
サンパウロ日本産業見本市の記録映画の作成も私の担当であった。シナリオ作りから撮影場面の指示等初めての仕事であったが、エクサイテイングであった。見本市用の展示品を積載したさくら丸のサントス港到着から始まる記録映画であった。記録映画を見ると当時の苦労が思い出される。
苦労と言えば、当時の電話事情を紹介するだけで十分である。今日では全く考えられないが。1970年代の初めのサンパウロの電話事情は、信じられないほど劣悪なものだった。関係機関・企業や新聞社にアポイントを取ったり、事業の進捗状況を知らせるために電話をかけても、まず10回の内8回は繋がらない。ダイヤルを回している途中でぷっつり切れるのだ。また仮に繋がっても、会話の途中で切れることも多々あった。そういう状況なので、パウリスタは、うまく繋がるとこの機会を逃すまいと長時間話すことになる。となると、話し中のことが多く、さらに繋がらないことになる。何回も何回も電話をかけるが、午前中に2~3本の電話に成功すると、その日1日しっかり仕事をした気分になったものだ。
1973サンパウロ日本産業見本市から20数年たった1995年に日伯修交100周年記念の一環として、「日本産業技術見本市」を再び開催して欲しいという要請が、日伯修交100周年委員会から出された。そこで事前調査のために私と部下の2名でブラジルに出張した。リオ滞在中に、神戸・淡路大震災が起こった。ホテルのCNNテレビを見ていると大震災の深刻さが直ちに判断できた。関係者を訪問したが、あちこちで大震災についてお悔やみの言葉をいただいた。日系コロニアの方々は、1973年の「サンパウロ日本産業見本市」をよく覚えておられ、それと同様の規模の見本市を期待されていた。しかし当時の日本及びブラジルの経済状況は決して良好ではなく、日本はバブル崩壊後で最悪、ブラジル政府も自動車の輸入関税を突然上げたりしたこともあり、目論んでいた自動車企業の出品勧誘も思うようには進まなかった。また会場のビエナールの館長が気まぐれで会場がなかなか決まらなかったのでハラハラする場面もあった。
それでも「第2回日本産業技術見本市」は1995年11月、ビエナール会場で無事開催にこぎつけた。前回の4分の1の規模の展示会だったが、開会式には、日本からは清子内親王が参列されたほか、カルド―ゾ大統領他要人が出席した。私は、本番実施時には、ブラジルに出張できなかったが、無事開催され、ホッとしたものだ。見本市は、規模が小さいと、経済的成果が十分には出ないのが通例であるため、経済的には成功したとは言えないが、政治的には、カルドーゾ大統領を引っ張り出したこともあり、大成功と言えよう。73年と96年の両見本市に関与できたことは、私にとって幸運なことであった。
執筆者:桜井 悌司