執筆者:桜井悌司(ブラジル中央協会 常務理事)
私は海外駐在地でスピーチや講演を依頼された場合、原則すべて受けることにしていた。もちろん、物理的に不在であるとか、全く私の専門外は別である。なぜなら、日本や日本人は、全般的に対外発信が諸外国と比較して十分でないこと、したがって、ジェトロのような政府機関は率先して、発信すべきと考えたこと、また人脈の形成に最も効率的な手法であると判断していたからである。食事による方法も人脈形成に大いに有効であるが、講演やセミナーとなると、対象相手が多いので、一挙に多数の人々に名前を浸透させることができる。最初のメキシコ駐在では、そのことに気がつかず、2~3回だけであったが、チリのサンティアゴでは、70回、イタリアのミラノでも、つたないイタリア語で30回行った。
ブラジルのサンパウロ駐在(2003年11月~2006年3月)は、定年直前でもあったが、最後のご奉公ということで、事務所を挙げて、対外発信に取り組んだ。言葉は、ポルテニョールでほとんど自信がなかったが、やるしかないと考えた。2年半の滞在期間中に、ジェトロは、ブラジル人対象のセミナーを、合計67回開催した。そのうち私自身も30回くらい講演・スピーチを行った。幸運なことに、ジェトロ時代の同期の堀静雄氏が、JICAの長期専門家として、ブラジリアの開発商工省(MDIC)にジャパン・デスクを構え、ブラジルの輸出振興業務に取り組んでいた。彼が考え出したことは、ブラジル全州で「日本―ブラジル・ビジネス・オポチュニティ・セミナー」を組織し、ブラジル人ビジネスマンの輸出マインドを一気に高めることであった。JICAの招待でブラジル全土を回れるという恵まれた機会に大いに感謝したものだった。当時の次長の澤田吉啓氏は、ブラジルのエキスパートであったため、ブラジル全州を訪問すべきと考え、未訪問州には、彼に出かけてもらった。残りの州は、私が担当したが、それでも、エスピリト・サント州、パラ州、バイヤ州、ペルナンブコ州、アラゴアス州、リオ・グランデ・ド・ノルチ州、アマゾナス州、マット・グロッソ・ド・スル州、サンパウロ州、パラナ州、サンタ・カタリーナ州の11州をカバーすることができた。ジェトロの役割は各地で、「日本に輸出するには」、「対日輸出にあたって克服すべき点」、「ジェトロの活用の仕方」というテーマで話すことであった。開発商工省が各州の工業
連盟にセミナーの組織を依頼し、JICAー開発商工省―各地の工業連盟の3者共催で行った。セミナーは合計29回に及んだ。セミナー参加者総数は2,677名で1セミナーの平均参加者数は92名であった。ブラジル全土の企業家に輸出マインドを植えつけるというこのプロジェクトは成功裏に終了した。各地では、ブラジル人ビジネスマンの常として質疑応答も盛んであった。セミナーには、毎回新聞記者やテレビ局が多数取材に来たこともあって、短期間のうちにJICAやジェトロの名前をブラジル全州に知らせることができた。その後各州を訪問した際にも、各州の要人もこの時のセミナーを覚えていてくれた。
このセミナーを契機として、ジェトロに対し、遠隔地の州政府から、それぞれの職員をジェトロ・サンパウロで研修して欲しいという予期せぬ要請が出された。ジェトロは、アクレ州、トカンチンス州、ホンドニア州、アマパ州の職員を受け入れ、それぞれ2日間の研修を行った。研修の終わりには、レストラン・サントリー(今は名前が変わっているが)で日本食をご馳走した。
これらJICA招待の出張は、通常1泊2日ないしは2泊3日であった。滞在期間を最大限有効に活用するために、各州政府の開発長官や工業連盟のリーダーにアポイントをとり、意見・情報交換を行った。アポイントもセミナーの講師で行くと説明すると簡単に取ることができた。日本企業による投資誘致について最も関心を持っていた。さらに自由時間を利用して、代表的な名所旧跡や博物館を見学することができた。ブラジルの歴史、自然、民族の多様性当の理解のために大いに役立った。
その他、ブラジリアの下院会議場で行った講演、パラナ州選出の故アントニオ上野連邦下院議員の要請でクリチバ、ロンドリーナでは数回行った講演も思い出深い。上野議員とはたびたび食事を共にし、彼の経験談について聞くことができた。
セミナーや講演を通じての情報発信は、数々のメリットがあった。
まず、ブラジルの多くの州政府や工業連盟にジェトロや日本の存在をアピールすることができたこと。第2に、直接各州を訪問することにより、ブラジルの広大さ、多様性、美しさを実地に感じることができたこと、第3に、各州の要人と面談することにより、各州の経済・産業事情を取材でき、自分で各州の相違点を確認できたことである。
日本人対象の講演・セミナーにも力を入れた。ジェトロ主催のもの、ブラジル日本商工会議所コンサルタント部会の活動の一環として私が組織を担当したものを含めると2年半で55回組織させていただいた。
執筆者 桜井 悌司