会報『ブラジル特報』 2009年9月号掲載

                          園田 義朗 (元イシブラス副社長)


 資本金26億円、親会社石川島重工(当時)の身の丈に余る40億円の投資を決意したのは社長の土光敏夫であった。石川島ブラジル造船所、通称イシブラスは1959年1月リオデジャネイロで産声をあげる。それ以前、石川島重工はペトロブラス向けタンカー3隻を皮切りに軍隊輸送船4隻、気象観測船2隻を受注してブラジルとの関係を深めていたが、「50年を5年で」のスローガンの下に策定された「メタス計画」に基づき、造船業の誘致、育成を図りたいというブラジル政府の要請に応える形での進出であった。

 数々の困難を乗り越えて5,800トン型貨物船5隻を建造するがその後の受注が続かず、一方野心的で大規模な投資をともなう「メタス計画」はインフレを引き起こし社会不安が絶えなくなり、イシブラスでもストライキが多発した。政治、経済、社会不安は 1964年のクーデターによる政変により終止符が打たれ、67年には「国家開発戦略」が策定された。その一環として12,000トン型高速貨物船24隻の建造が決定され、イシブラス、マウア、ベロルメの3造船所がそれぞれ8隻を受注した。このとき自社の建造船のみならずイシブラスは石川島播磨重工 (IHI)と共同でマウア造船所への設計供与も引き受けている。

 この高速貨物船の連続建造でイシブラスは内外に高い評価を得たが、同時にブラジルに造船業ありというシグナルの発信でもあった。1970年代に入るとインフレも収束し、ブラジルは「奇跡の70年代」を迎える。それに呼応して「第一次計画造船(1PCN)」計116隻170万トン、「第二次計画造船(2PCN)」765隻533万トンと矢継ぎ早の建造が決定され、円高不況に見舞われた日本造船業を尻目にブラジルは空前の造船ブームに沸き立つ。イシブラスは40万トンドックを建設し、13万トン鉱油船7隻、20万トンタンカー(VLCC)4隻を受注、南半球最大の造船所に発展した。同時にカンポグランデに工場を建設、水門製作を手始めに、各種クレーン、運搬機器、ウジミナス、国立製鉄所(CSN)やツバロン製鉄向け高炉の新設、改修等、 IHIと二人三脚で続々と陸上機種への進出を果たしていった。

 このようにして1980年代初めには、売上高3億ドルに迫るブラジルの代表的企業に成長するが、イシブラスは規模の拡大とともに経営・技術基盤の強化にも努めた。工員教育のための社内職業訓練所、職班長の教育・研修制度、課長教育、作業マニュアルの作成、海外技術者研修協会(AOTS)を利用した日本での研修等々、VLCCの建造に際しては数十名に上る工員を2回にわたって派遣している。巷間イシコーラ(イシブラスとエスコーラ=学校をつなげた造語)といわれて、イシブラスの従業員育成制度は高く評価されていた。

 一方、ブラジル特有の出来高払いに直結したイベント管理、それを各工員の手割りとなる2週間予定までブレークダウンした工程管理は、ブラジルならではの手法であった。朝の体操はイシブラス名物として紹介されたし、それに続くミーティングはその日の作業の確認、会社の伝達事項に加えて従業員の身体状況を把握する重要な行事であった。永年勤続表彰、オープンハウス、クリスマスやサンジョアンのフェスタ、社員融資制度等々、福利厚生制度も充実していて従業員との関係は、合併に至るまで極めて良好であった。

 さて国家開発戦略計画の延長として政府は、1972年から86年にかけて4回にわたる国家開発計画を発動するが、野心的な計画はインフレを再燃させ、1980年には年率100%を超え、93年には年率2,500%というハイパーインフレとなった。こうなるとまともな経営は行うべくもないが、中でも造船のような長工期、イベントによる出来高払いの事業では工事代金の目減りが激しく、契約当時は利益を確保できる計画でも完成してみれば赤字という工事が続出、商船管理庁SUNAMANの商船建造基金も目減りして支払いが出来なくなってしまう。加えて汚職問題も発覚し所謂「スナマン事件」を引き起こしてブラジルの計画造船は終焉を迎えることになる。

 一方外貨不足に悩む政府は、1979年に中銀行政令509号「輸出利子補給制度」を発令、イシブラスもこれを利用してコンテナ —船2隻、タンカー3隻を受注するが、80年に直接助成制度が廃止され、工事採算は一挙に悪化してしまう。この制度は後に「輸出前払い制度」に変わり、イシブラスは結果としてタンカー8隻の契約につなげることが出来た。

 しかし、輸出船の受注には国際的に通用する品質が要求される上に、契約履行保証面等で所謂「ブラジルリスク」を回避せねばならず、他の民族系造船所はこれらのハ —ドルを越えることが出来ずに次々と休業に追い込まれる事態となった。受注してもインフレ価値修正の目減り、生産金融の遅れ、輸出助成の廃止等々、外部環境の悪化による損失は大きく、その額はイシブラスの場合当時合計1億2千万ドルを超えていたといわれている。

 悪性インフレと度重なる物価凍結令、デノミネーションや次々と変更される政策に振り回されながらも、子会社の整理、派遣者の繰上げ帰国やカンポグランデ工場の閉鎖などの対策を講じ、1994年10月エマク・ベロルメ造船所との合併で選択と集中による再起を図るが、肝心要の契約が実現しないため95年8月石油ストレージバージの完成を最後にイシブラスのカジュー造船所は休業状態となり、合併による新会社IVIも実質的な破産状態とたった。

 現在ドック周りは元イシブラス社員による修理会社にリースされている。他社も似たような状態で嘗ては五大造船所が集中しリオ州の代表的産業であった造船業に昔日の面影は見られない。

 以来十余年、ペトロブラスに漸く26隻にのぼる新造船計画が戻ってきたものの、契約、融資を担保出来るだけの信用力がある造船所は既になく、計画は難航していると聞く。その中で一人気を吐いているのが、近年レシフェ郊外の工業団地に設立されたアトランチコスル造船所である。

 この造船所はブラジルの大手ゼネコンであるカマルゴコヘイアに属するが、韓国のサムスンも出資しているといわれ、130万平米の敷地と1,200トンゴライアスクレーン2基を持つ本格的な大型造船所である。造船は労働集約型産業であり優秀なキーマンの存在が欠かせないが、生産を担う幹部は工場長をはじめ殆どが元イシブラスの社員で、図らずもイシブラスがレシフェで再起したかの観がある。いわば究極の「イシコーラ」であるともいえよう。イシブラスで培った技量を活かして、ブラジルに再び造船業の花が開くことを心から期待して止まない。

イシブラスと関連政策、業界年表
     イシブラス 政策、業界及び備考
1957       メタス計画
1958 プロトコール調印 商船建造基金(FMM)創設
1959 イシブラス設立 オランダ系ベロルメも進出
1964 ストライキ多発 クーデター勃発
1967 高速貨物船8隻受注 開発戦略計画
1971 大型鉱油船5隻受注 第一次計画造船(1PCN)
1972 ウジミナス第三高炉受注 SPR(輸出回廊計画)等も
1974 第二ドック竣工 陸機工場も操業開始
1975 VLCC4隻受注 第二次計画造船(2PCN)
1979 輸出船受注増える 輸出利子補給制度(中銀509号)
1981 タンカー3隻受注 持続的計画造船(PPCN)
1983 イシブラス政府を告訴 スナマン(SUNAMAN)問題発生
1986 インフレ被害甚大 矢継ぎ早のインフレ対策
1989 シェブロンタンカー3隻受注 IHIとの共同プロジェクト
1992 カンポグランデ工場閉鎖 リース、売却等実現せず
1994 エマキ・ベロルメと合併、IVIに IHI出資比率は20%以下に
1995 大規模な経営縮小(IVI) カジュー造船所は事実上の休眠
1996 コンテナーのヤードにリース ドック周りは入渠修理作業を継続