会報『ブラジル特報』 2009年9月号掲載
<アマゾン日本人移住80周年記念寄稿>
フランシスコ 坂口 (トメアス総合農業協同組合 理事長)

トメアス地区への日系移民の歴史を語るには、1920年代のパラー州知事(当時は州統領)の要請から始まったことと、この移民については当初から相互信頼関係があったこと、をまず指摘しておきたい。すなわち、コーヒー畑での労働者としてブラジル南部に入植した日本人は正直で働き者揃いであったため、サンパウロ州経済への貢献度も大変高い、という話を聞いたジオニージオ・ベンテス州知事は、まず1924年在リオ日本大使館に現地視察を要請する。この要請を受け、書記官がまず第一回のアマゾン視察を行うのである。 翌1925年には日本政府の調査団がパラー州アカラ郡(市制改変でトメアス郡となるのは1959年)を視察し、この調査報告がアマゾン移民の有望性を確認したことから、1928年8月、南米拓殖株式会社が設立され、アマゾン移民事業を開始することとなる。
1929年に当地へ到着した移民第一陣の人たちは、希望に胸を膨らませていたが、何をすべきか、何を植えるべきか、といったことすらも事前にわからず、これから何が起きるかも、わからないままアマゾンに入植したのであった。また入植時期としては最悪で、世界恐慌によって世界経済がどん底に落ち込んでいた時であった。多くの人が熱帯病にやられ、命を落とした者も数多く、こうした惨状に耐えかね、移民会社との契約を反故にしてでも、州都ベレンに近い地区へ移転する人たちも急増したのであった。州都の近くを選んだのは、市場へのアクセスが容易であったからであるが、ちなみにベレンからトメアスまで移動するには、当時陸路もなかったため、唯一の輸送手段であった船で12時間から16時間もかかったのであった。
トメアスに留まった人たちは、生き残るための闘いを続ける。カカオ、野菜類、米などの栽培を確立するため、まず1931年「アカラ野菜組合」を創立した。州都ベレンでの販売を促進するべく水路流通を整備し、並行して農業調査も進めたのであったが、当時の関係者の苦闘は筆舌に尽くしがたいものであったといってよい。
そうした日々の苦闘をさらに混乱させる事態が発生する。第二次世界大戦の勃発である。ブラジルが連合国側についたことから、1942年2月、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)資産凍結令が発令され、さらに枢軸国の言語使用禁止も決定。資産が差し押さえられたばかりか、ドイツ語もイタリア語も日本語も話してはならず、三人以上の集会も禁止となってしまった。アカラ組合も政府介入を受けたため、自主運営は出来なくなってしまう。同年8月には一層険悪な事態となる。8月18日、ドイツ潜水艦がブラジル商船を撃沈したことから、住民による枢軸国民の商店・家屋の破壊・焼き討ち事件が続発する。このため州政府は、枢軸国民をアカラ植民地に隔離収容することになる。
1945年、第二次世界大戦が終了。1933年にシンガポールからトメアスに導入された、「黒いダイヤ」といわれた胡椒が富を創出し始める。戦争によって東南アジアの主産地が荒廃したため、国際相場が急上昇したからである。1946年3月「アカラ農民同志会」が結成され、同年4月「アカラ産業組合」と改称されるが、1947年から胡椒の売上が急増していく。
こうした経済的背景もあって、「アカラ産業組合」は母国の戦災救援金として5コントス(注:当時としては大金)を送金することが出来たのであった。まさに胡椒は救世主といえる作物であった。1949年9月、「トメアス産業組合」と改称した組合は胡椒とともに伸長していく。
1940年代後半から60年代にかけてトメアスに多大な富をもたらした、この「黒いダイヤ」もその繁栄と農家の夢は、残念ながら長く続くことはなかった。胡椒畑のほとんどがフザリウム菌というカビの一種にやられ、70年代に入ると破産状態に陥る農家も増えてきたのであった。胡椒モノカルチャーの弊害を克服するべく、トロピカルフルーツ類(クプアス、マラクジャ、グァバ、アセロラなど)やアサイ(ヤシ科)の栽培導入やカカオの再導入が70年代後半から進められ、複数の作物で構成される農業が新しい基盤となっていく。
1984年には冷凍ジュース加工工場も竣工し、このアグロインダストリーを中心に展開することで組合再生が図られてきている。原生植生と複数の栽培植物を有機的にミックスする手法はアグロフォーレストリーと呼ばれ、自然環境と経済性を混合した新しい熱帯農業形態として全世界の注目を浴びているが、トメアスの日系コロニアはこれまでの試行錯誤の結果得た経験知に基づき、この農法を経済基盤として選択したのである。
さて、紙幅も限られているので、年表風に、アマゾン移民史の主な出来事をメモしておきたい。
1916年 アマゾン地域への移民調査のための第一回日本政府ミッション派遣
1925年 パラー州政府は日本大使館へ書簡を送り、農業改善のための日本移民を要請
1928年 南米拓殖株式会社、創立1929年最初の日本移民(43家族、189名)がトメアス(当時
アカラ)に到着
1931年 アカラ野菜組合、創立
1933年 日本移民の数が年間 2万人(ブラジル全体)を超えた年は、胡椒がトメアスに導入された年である。
(悪性マラリアが猛威をふるった年でもある。)
1934年 外国移民制限法を公布
1935年 トメアスからの脱耕者が激増し、南米拓殖(株)の現地法人は財政難のため、事業を縮小
1942年 ブラジル、日本との外交関係断絶。トメアス、枢軸国民の収容所となる
1949年 トメアス総合農業組合の創設
1952年 途絶していた移民再開(戦後移民の開始)
1956年 胡椒価格が急落
1960年 胡椒の国際価格回復
1962年 胡椒畑にフザリウム菌による病害始まる
1963年 初めての日系(二世)市長誕生
1972年 トメアス地区にカカオ栽培を再導入、ベレン-トメアス街道開通
1974年 水害により胡椒栽培が更にダメージを受ける
1984年 JICA(国際協力機構)の援助を得て、冷凍ジュース加工場建設
1989年 JICA並びに州政府からの出資でCOERTA(トメアス地域経済農村電化電話組合)を設立
1991年 ジュース加工場の経営管理権をCAMTA(トメアス総合農業協同組合)に移管
2000年 ジュース加工場の第二工場建設、加工能力並びに冷蔵能力アップ
2005年 新冷蔵庫増設
2008年 COERTAをCAMTAが吸収合併
2009年 現在ジュース加工場の加工能力は、冷凍ピューレ換算で2,300トン
(原文はポルトガル語。 翻訳:岸和田 仁 協会理事)

80th_07

現在の混栽農法:胡椒+ブラジルナッツ木+アサイ他