会報『ブラジル特報』 2009年11月号掲載
<アマゾン日本人移住80周年記念寄稿>ニッケイ新聞編集部
日本移民の血と汗と涙がしみこんだアマゾン開拓が始まった記念すべき地、“アマゾン移民のふるさと“パラー州トメアスー移住地で9月15日夜、移住80周年祭典の前夜祭が行われ、一連の式典(トメアスー16日、ベレン18日、マナウス20日、パリンチンス22日)の幕が切って落とされた。ニッケイ新聞は松田正生記者を現地に派遣し、4つの節目の祭典を取材した。トメアスー式典 皇太子殿下がメッセージ
トメアスー文化農業振興協会では海谷英雄同文協会長を実行委員長に、前年から記念式典を準備してきた。15日晩、同会館で行われた前夜祭では日本から駆けつけた歌手の宮沢和史さん、アルゼンチン二世の大城クラウディアさんが歌声を披露し、約400人がしみじみと聞き惚れた。パラグアイのイグアス-移住地からは太鼓グループ『鼓太郎』11人が馳せ参じて、太鼓演奏ほか、さんさ踊りや、荒馬踊りなど民族芸能を披露した。
1929年9月22日にアカラ植民地(現トメアスー)に到着した42家族189人によってアマゾン開拓は始まった。初期はマラリアなどの風土病に苦しみ、戦中は敵性国人とされてアマゾン地域の日本人が強制収容されるなど、同地では苦難の道のりが続いた。そして戦後の胡椒黄金期を経て根腐れ病でそれが全滅し、移住地の3割がデカセギにいく事態にまでなった。このような困難を乗り越えるアイデアと力をもたらしたのは、常に青年らだった。農産物の出荷搬送を州政府に統括された戦時体制を打ち破るために終戦直後に立ち上がったアカラ農民同志会の若者たち、そして訪日就労最盛期の1990年代に組合の若手理事が中心になって進めたジュース工場建設などによって組合経営を立て直し、アマゾンの大自然と共栄できる森林農業を盛り上げて、現在のように徐々に注目されるようになってきた歴史がある。
好天に恵まれた式典当日の16日午前10時過ぎに始まった節目を祝う式典には、激動の移民史を刻む同地だけに、サンパウロ州からもブラジル日本都道府県人会連合会のふるさと巡り一行約200人を初め、同県連の与儀昭雄会長、サンパウロ日伯援護協会の菊地義治副会長ら主要日系団体代表者、オダイール・コレイア州副知事、飯星ワルテル伯日議連会長、ウィリアン・ウー同副会長、地元選出のゼナウド・コウチーニョ下院議員、カルロス・ヴィニシウス市長、生田勇治汎アマゾニア日伯協会会長、島内憲駐ブラジル大使、名井良三ベレン総領事、芳賀克彦JICAブラジル所長、日本からも全国知事会会長の代理として海老井悦子福岡県副知事、井本邦彦同副議長ら5人、今村忠雄日本海外協会会長などが来伯するなど、国内外から約600人が出席した。
海谷実行委員長はあいさつで「一時は7割が脱耕した過酷な状況の中でも残留者は夢を忘れなかった」と先人の苦労を偲び、同地は現在「森林農業」に取り組んでいることから、「アマゾンの自然と調和した農業をいかに効果的に進めていくかが我々の課題」と締めくくった。ヴィニシウス市長は「日本人はトメアスーの友人」と述べ、コレイア州副知事は同地が州発展に果たした役割を称え、日本とのさらなる関係進展に期待を表した。
島内大使が皇太子さまの祝辞を代読、「移住者の苦労を偲び、心から敬意を表する。アマゾン移住者の地道な努力が今日の日系人への信頼、評価につながっている」と現在の発展を称え、「これからも日伯の友好の架け橋として活躍することを願います」とのお言葉を寄せられた。南米拓殖株式会社の創立に尽力した鐘淵紡績社長武藤山治氏の孫、武藤治太氏 (71歳、大阪のダイワボウホールディングス(株)相談役)も出席し、「80年以上前にまいた一粒の種がこれだけになり、祖父も生きていたら喜ぶでしょう」と話した。
この日は、第1回移民で健在な山田元さん(はじめ、82歳、広島)、加藤昌子さん(80歳、秋田)と、7月7日に亡くなった横山禮子さん(娘のアナさんが代理)はじめ14人の功労者に実行委員会から感謝状が授与された。2歳で移住、農協理事長を務めるなど同移住地とともに生きてきた山田さんは、「皆さんの支えがあって生きさせてもらった」と感謝し、「日本語はできるだけ続け、一歩でも前進するように努力してほしい」と次世代に期待を表した。
ベレン式典 カレパ知事ら600人が出席
パラー州都ベレンでは、18日午後4時半からアマゾン移住80周年記念式典(生田勇治祭典委員長、須藤忠志実行委員長)が開催され、600人以上が出席した。日伯国会議員連盟を代表して井上信治衆議院議員も出席し、麻生太郎議連会長のメッセージを代読。第1回アマゾン移民の大橋敏男さん(92歳)、山田元さん (82歳)や各日系団体の功労者、親日家ブラジル人など多くの人が表彰を受けた。
会場となったコンベンションセンター HANGARには同日伯協会加盟の18団体から代表者が集まった。トメアスーに引き続き日本からの来賓、現地公館代表、アナ・ジュリア・カレパ州知事、ベレン市のドゥシオマール・コスタ市長、山田フェルナンドパラー日系商工会議所会頭、飯星伯日議連会長らも出席した。
生田祭典委員長はあいさつで、ペルーからアンデスを越えて来た「ペルー下り」の日本人、1915年にベレンへ来たブラジル柔術生みの親コンデ・コマ(前田光世)などの移住前史から、五世が誕生する現在に至る北伯日系社会の歩みを振り返り、移民を受け入れたパラー州と長年の日本政府の支援への感謝とともに、「これからも二つの民族の絆を強めるため、日本の文化をブラジルに、ブラジルの文化を日本へ広めていきたい」と述べた。
井上議員が、麻生日伯議連会長の祝辞を代読。麻生会長は、日本移民と日系人が「誠実さと忍耐力で確固たる地位を築き、高い評価を得ていることを誇りに思う」と敬意を表した。トメアスーの式典に続き、島内大使から皇太子さまの祝辞が紹介された。
最後にカレパ知事は、同州に国内3番目、約3万人の日系社会があることを誇りに思うと話し、「日本は伝統を守りながら技術と共存する手本を世界に示している。パラー州も日本に見習い、環境に配慮した持続可能な開発を目指している」と述べ、経済面での協力関係継続にも期待を表した。さらに「道のりは楽ではなかったが、努力と忍耐で障害を越え、今日の地位を築いた」と日本移民・日系人をたたえ、感謝の言葉で締め括った。パラー州歌を歌い、6時半過ぎに式典は終了した。
マナウス式典 ジュート栽培の高拓生も参加
20日午前、アマゾナス州都マナウス市の西部アマゾン日伯協会でアマゾン移住80周年式典(委員長−錦戸健同日伯協会会長)が開かれた。戦前のジュート栽培に代表される農業貢献と戦中の苦難、戦後の各移住地の困難と発展を経て現在の繁栄を築いてきたアマゾン日系社会、先人を偲び、さらなる躍進へ思いを新たにした。
式典当日はサンパウロ市からの慶祝団を含み、マナウスなど各地から約500人が参集。日本からの来賓、島内大使、柴崎二郎マナウス総領事など日本側関係者、ブラジル側からは州知事代理のマリレーネ・コレア・アマゾナス州立大学学長などが来賓として訪れた。日本の9県、神戸日伯協会や海外日系人協会からも祝電が寄せられた。
日伯両国歌斉唱に続いて、錦戸実行委員長はあいさつに立ち、「不屈の大和魂によって開拓に挑んだ日本移民は、ジュート栽培によってアマゾンの経済復興に多大な貢献をし、勤勉で誠実な日本人の拓魂を示した」と先人の功績を称えた。戦中のビラ・アマゾニアの接収とその後の苦労、戦後のアマゾン移住の歴史、そして自由貿易港設置後の日本企業進出に触れ、「先輩の実績と日本政府の支援、ブラジル政府の日系人への信用が三脚となってゆるぎない日系社会がアマゾン、ブラジル全国に存在している」と述べた。
皇太子さま、麻生日伯国会議員連盟会長、麻生渡全国知事会会長の祝辞が代読され、その中で、先駆移住者へ敬意を表すとともに、現地日系社会を「日伯、アマゾンとそれぞれの出身地との理解と友好にとってかけがえのない存在」と位置づけ、「日系人の誇りと伝統を若い世代に伝えてほしい」とのメッセ-ジが送られた。
コレア学長は、多分野にわたる日本移民、日系社会の功績を称え、「困難を克服してブラジル、アマゾニア州のため貢献した日本人の献身と業績に感謝する」と述べた。その後は、州知事として道路整備など日本人移住地の発展に尽力した故ジルベルト・メストリーニョ上院議員を祭典委員会が顕彰。名誉委員長の島内大使から代理に記念プレートが授与された。
続いて祭典委員会から80歳以上の高齢者11人(該当者は44人)を表彰。外務大臣表彰も行われ、アサヒ自治会(橋本博美会長)、エフィジェニオ・サーレス自治会(宮本倫克会長)がそれぞれ表彰状を受け取った。その後市内の開拓先没者慰霊碑へ移動し、参加者らが献花した。
「自分たちも苦労したけど、古い人たちはもっと苦労したと思います」と話すのは、ベラ・ビスタから訪れた野地忠雄さん(69歳)。故メストリーニョ知事が同地を視察後、道路を整備した思い出を語り、同氏が顕彰を受けたことを喜ぶ。高拓生7期生として渡伯、式典で高齢者表彰を受けた東海林善之進さん (94歳、宮城)は、「ジュートがあったから、私たちは今こうしていられる。気の毒なのは、早く亡くなった友人たち。一度も訪日できない人もたくさんいましたから」と話した。
パリンチンス式典 2年後に高拓生80周年
22日午前にジュート栽培発祥の地、アマゾナス州パリンチンス市でもう一つの記念式典が行われた。式典会場となったのは、高拓生(日本高等拓殖学校卒業生)が入植したビラ・アマゾニアだ。高拓生らを顕彰して記念モニュメントが除幕され、その本部だった「八紘会館」再建の定礎式も行われた。2011年の高拓生移住80周年に向け、地元日系社会と同子弟らが中心となって歴史を後世へ伝えようと動き出している。
パリンチンス日伯文化協会(武富マリオ会長)と、子弟らでつくるアマゾン高拓会(佐藤バルジール会長)が中心になって準備を進め、当日は同会関係者ほか、柴崎マナウス総領事と石倉秀美副領事、JICAブラジル事務所の吉田憲次長、錦戸西部アマゾン日伯協会長、ベレン高拓会の小野重善会長らも出席した。
船でビラ・アマゾニアへ到着すると、地元の公立校「ツカサ・ウエツカ学校」の生徒、住民ら数百人が一行を出迎えた。ジュート記念碑が設置されたのは、INCRA(国立農地改革院)から提供を受けて造成された「リョウタ・オヤマ広場」。入り口に真紅の鳥居。中にはアマゾニア産業研究所の給水塔を修復して、赤く塗った記念モニュメントがそびえる。その奥に、ジュート栽培の様子を描いた壁画が設置された。柴崎総領事とフランキ・ガルシア郡長、高拓生戸口恒治氏の夫人久子さん(75歳)、INCRA代表によって除幕。続いてジュート栽培の功労者尾山良太氏の胸像が除幕された。また、父親が高拓生の池上アントンさん(70歳)が高拓生の歴史を書いた“a fibra e osonho“の出版会も行われた。
武富会長はあいさつで「高拓生の夢は叶わなかったが、80年前に可能だったのなら今でも発展は可能」と述べ、「歴史を再認識し、再活性化することがコミュニティの発展につながる」と歴史を伝えることの重要性を強調した。ガルシア郡長も日本移民が果たした役割を称え、第二次大戦中の抑圧に謝罪の意を表明し、「今後は歴史を伝えながら、港を日本風に改装するなど観光地としても同地の再活性化を進めていきたい」との考えを説明した。
その後、かつて八紘会館があった敷地へ移動して定礎式を行い、記念行事を終了。式典後、武富会長は「八紘会館を歴史的建築物として修復することを、住民たちが前向きにとらえてくれ感謝している」とほっとした表情を見せた。アマゾン高拓会の佐藤会長も「コミュニティ全体が参加してくれてうれしい。高拓生の歴史を後世へ残すのは我々の務め」と語った。高拓生80周年記念事業である八紘会館の再建に関しては、使用する木材はIBAMA(国立環境院)からすでに寄付を受け、事業計画もできているという。式典は第1回高拓生が入植した日付の6月20日にあわせて、2011年に行われる予定。
(写真は、ニッケイ新聞 松田正生記者撮影)