執筆者:金岡 正洋(ブラジル中央協会 常務理事)
「君を本部で此れから注力する海外の国の語学研修生として派遣を考えている。本部としては金属鉱産物の豊富なブラジルと油・ガスの埋蔵が豊かな中近東(エジプト)を考えているがどちらが希望かね?」入社2年目の新米社員である私に本部長から突然声が掛かりどちらの国にも殆ど予備知識が無いものの咄嗟に学生時代に齧ったボブ・デイランやブラザース・フォーなどのフォークソングの延長で好きになったセルジオ・メンデスやアストラッド・ジルベルトが歌うボサノヴァと水着姿の美女が目に浮かび(加えてお酒が自由に飲めること・・・)直ぐにブラジルにしますと答えたのが私のブラジルとの長い付合いの始めでした。実際に私の3年後に同じ本部に入社した後輩はその後エジプトの語学研修に派遣されカイロ大学で学ぶことになったのでひょっとしたら私も回答次第では今新聞、テレビを賑わせている小池百合子東京都知事(当時カイロに留学)と親しくなっていたやも知れません。
かく言う訳で71年に関西系商社に入社した私は72-73年(研修、ポルトアレグレ)、75-81年(駐在、サンパウロ、リオデジャネイロ)、01-06年(駐在、サンパウロ)と都合13年にわたりブラジル勤務を経験する事になりました。その間ブラジルの経済は大きく発展し人々の暮らしも豊かになって来ましたが70年代の高度成長、80年初期から始まる過度のインフレ、貨幣価値の下落による対外債務危機、85年の軍政から民政への移管、その後の農業・工業の国力の充実、00年以降の資源価格の上昇による経済の好調、更に最近の政治の混乱、経済不況など幾多の変遷を繰り返して来ました。
会社生活を終えもうすぐ古希を迎えるにあたり当時を振り返り遭遇した出来事に対する個人的所感を散文的に書いていきたいと思います。
ポルトアレグレ(Porto Alegre ) 72-73:
上述した経緯により73年4月よりポルトガル語の語学研修にブラジルに向かうことになりました。場所はポルトアレグレ(ブラジル最南端のリオグランデドスール州にある港町)。
サンパウロ、リオでは日本人が多く余り語学の勉強にはならないというのが会社の考えだったかと思います。一応出発前に会社でポルトガル語の個人授業の先生を付けて呉れましたが業務多忙を理由に殆ど欠席ほぼ白紙の状態で大学書林の辞書一つで現地に向かいました。私の場合大学での第二外国語はドイツ語であった為ポルトガル語はゼロからのスタートでした。(このエッセイをお読みの方でこれからブラジルに赴任の準備をされる方は協会のポルトガル語講座を事前に受講されることをお勧めします。)
言葉(Português):一応ブラジルでも一流と言われたURGS(リオグランデドスール州立大学)の経済学部に聴講生として在籍しましたが上述の通り授業の言葉は分かる筈もなく只座っているだけでした。それでも人間追いつめられると何とかなるもので3ヶ月程経つと大体生活していくのに困らない程度の日常会話が出来る様になりました。
言葉を覚える面で一番効果が有ったのは現地で小学校の教室などを使い夜間行われているMOBRAL(成人の為の文盲教育)のクラスに通った事でした。田舎から出てきた女中さん等と一緒に勉強し(勿論無料)かなり効果が有ったかと記憶します。面白かったのは授業の先生が国語では余裕で教えているのに算数の授業になると分数の掛け算、割り算や時間の計算になると苦手らしくしどろもどろ、時には間違えもありお笑いでした。
そうする内に言葉も可也出来る様になり、研修期間の後半には現地の総領事館に頼まれ日本語教室の講師をするようになりました。生徒には女子高生、お爺ちゃん、お婆ちゃん等色々な方がおられましたが授業の終わりに皆で童謡「浜千鳥」を歌うのを常としていました。
1年強の研修期間の終了にあたり大学からは期間が短すぎたので履修証明は取得出来ませんでしたが在学証明書なるものを出して貰いました。
会社からの要求は唯一つ、ブラジルの経済の将来性に関し何かテーマを見つけポルトガル語で論文を書き提出せよとの事でした。 色々調べましたがリオグランデドスール州の有力産業でありポルトアレグレにも幾つか工場の有った植林業、製紙業に絞り論文を纏めました。確か、日照が強い事、水が豊富な事、土地が比較的平坦な事等をブラジルの優位性として挙げたかと記憶しています。 後々日伯でFLONIBRA、CENIBRA等の植林業、製紙業が日伯合弁で立ち上げられ私の会社も参加する事になった事を思えば私の論文もそう的外れでは無かったかと思っております。
パケラ(Paquera): 現地での生活習慣に日本と異なるものが色々有り、驚きの連続でしたが当時まだ結婚前の独身だったこともあり、男女の事が色々目につきました。面白いなと思ったことは昼食後の休憩タイムに市内の目抜き通りの両脇に老いも若きも現地の男が只々立って漫然と通りを眺めているのです。その内それは通りを歩く若い女性の品定めをしながら時を過ごしているのだと分かりました。中には声を掛けたり電話番号を渡したりする男もいたようです。面白いのは見られている方もそれを失礼だという風には見せずいかにも見られるのは自分に魅力が有るからだと悠然と振る舞っていた事です。このパケラの習慣はその内私にも身に付いたものとなり、後々日本に帰った後も街を美人が歩いているとついつい凝視する癖がつき家内に相手に失礼だと注意されたものです。
シャ・コン・ピレス(Cha com pires ou cha de pires): パケラでも分かるように南米ブラジルの男女の関係はかなり自由放埓な印象を持たれますが(実際にある面では否定出来ません)カトリックの国だけにキチンとした家庭の結婚前の男女の付合いは当時思ったより厳格で私も親しくなったPUC(カトリック大学)の女子医大生を映画に誘ったところ母親が中々許さず、何度かの試みの後許しが出たので勇んで出掛けた所小学生の弟が付いて来てました。
所謂お目付、監視役で現地の俗語(gíria)でシャ・コン・ピレス(テイーカップの受け皿)だと呼ぶのだと友達に冷かされたのが記憶に残っています。
(後、サンパウロ編に続く-不定期連載)