執筆者:日下野良武(サンパウロ市在住ジャーナリスト)

生まれてから大学卒業後2年まで私は熊本市で育った。その後、東京へ出て13年間住み1982年からはサンパウロ市で暮らしている。所用で日本を毎年訪問するが合間に故郷へも必ず足を運ぶ。家族や友人に会いたいからだ。郷土愛は人一倍強いと自負している。その熊本で2016年4月14日と16日の2度にわたり震度7前後の強い地震が発生した。同年11月末まで揺れは微震も含め4千回を超す。関連死も含め犠牲者は157人に達し、被害は5兆円弱。熊本には地震がないとの定説が覆された。

地球の反対側ブラジル・サンパウロ市でもNHK国際放送が見られる。ニュース番組は日本とほとんど同時放送になっており母国の情報が瞬時に分かる。夏時間でなければ12時間の時差があり日本が21時ならば当地は朝の9時。午前中出掛けない週日は『ニュースウオッチ9』を楽しみにしている。

いつものように4月14日は朝9時からテレビの前にいた。番組が始まって20分を過ぎたころだったろうか、画面に突然地震速報が出た。震源地はどこだろうと注視していたら何と熊本県中央部。震度6強、まさか、本当か、夢ではないか、そんな言葉が頭の中を駆け巡った。九州全域の震度が表示され、定位置カメラを通して大きく揺れる熊本市内が映り、熊本城の天守閣の周りに白い煙が漂っている。一瞬、火災発生かと思ったが、後で瓦崩落による粉塵と分かった。この現象だけでも地震の揺れの大きさが想像できた。

その後も震度4~5の揺れが短時間のうちに連発した。私はブラジルに定住する前の東京で生活中に震度4を2回経験している。それでも大地震の前触れかと心臓が高鳴った。県民の驚きはいかばかりだったか。察するに余りある。

とっさに、熊本市で暮らす実姉、実弟夫婦、姪や甥に親戚、友人・知人らの顔が心をよぎった。同日午後(日本は15日未明)、熊本県内に住む30人以上にメールで問い合わせたが約半数から回答がない。落下物でパソコンが潰されたのか、住まいが倒壊して避難場所にいるのだろうかと案じた。定時番組は映らず地震のニュースばかりが続く。これは偉いことになった、ただの地震ではない、死者が出ているかもしれない、被害はどの程度なのだろうかと食い入るようにテレビを見続けた。

本震が発生した4月16日午後、『ブラジル熊本県文化交流協会』(サンパウロ市)では急きょ臨時理事会を開いた。私は同協会の理事長を務めている。「“母県”熊本の皆さんにはサンパウロ市の会館建設の折に補助金をいただいた。さらに、いつも県費留学生や研修生の受け入れなどで大変お世話になっている。この大地震災害に直面して我々に何ができるか、何をしなければならないか」を討議。その結果、ブラジル在住県人を中心に義援金応募を広く日系社会へ呼びかけることにした。最初に、サンパウロ市で発行する日本語新聞の「サンパウロ新聞」、「ニッケイ新聞社」が大きく報道してくれた。感謝の外はない。

海外に住む日本人はヨーロッパ、アジア各国や米国に多い。企業や団体での任務終了後は帰国する人がほとんどだ。しかしブラジルの場合、約5万人の日本国籍所有者の大半が移民で永住者。生まれて育った“母県”への思いはことのほか強い。

発生2日後、同協会に突然高齢の男性が現れた。「妹が益城町(最も被害甚大の町)にいる。電話したが連絡がつかない。義援金を受け付けていると聞き、少しだけど熊本の皆さんに協力を…」と、ジャンパーのチャックをおもむろに下げ、懐から新聞紙に包まれた札束を出してテーブルの上に置いた。失礼ながら、身なりはお世辞にも立派ではない。その額2万レアル(約62万円)。会議中の役員4人が無言で顔を見合わせた。領収書を受け取ると「じゃあ、お願いします」と一礼、静かに立ち去った。優しい話しぶりに被災者への心配りが窺えた。

5月9日午後6時過ぎ、梅田邦夫駐ブラジル日本大使(当時)と中前隆博サンパウロ日本国総領事が揃って同協会を訪問。「少額だが何かの役に立ててください」と、それぞれ職員らで集めた金一封を田呂丸哲次会長に手渡した。6月8日には菊地義治サンパウロ日伯援護協会会長(当時)が同協会を訪問し義援金を手渡した。開封すると関係者152人の名前があり、金額は2レアルから1千レアルまでさまざま。少額寄付者は同協会福祉施設の非日系入居者や清掃員、付属病院の職員らと聞いた。義援金の意義は、金額の大小ではない。その人の真心、気持ちだ。リストの名前を追いながら目がうるむ。

また、サンパウロ市の日系団体や各県人会、さらにベレン、リオ、クリチーバ、ロンドリーナ、バストス市で暮らす県出身者などを中心に募金が同協会に寄せられた。義援金協力者は500人を超えた。各地から県人会へ手書きの心温まるお見舞状も届く。

「…多くの被害者が出ておられ同情に堪えません。ほんの志ですが送金しました」(富樫雄輔さん、ブラジリア市在住)。「4年前、友達が住む熊本へ。阿蘇山や熊本城へ行きました。このたびの地震に心が痛みます。被災された皆さんに少しでもお役に立ちたい」(田中義文さん、ミナスジェライス州在住)。「熊本地震被災者の方たちにお見舞い申し上げ、励ましの一助になれば幸い」(サトシ・イトウさん、サンパウロ州在住)。文面から3人の年齢は古希前後のようだ。達筆ではないが日本語でていねいに書かれており、読み進んで行くうちに胸に熱いものが込み上げてくる。

筆者は熊本地震の現状を視察するため発生約半年後の10月中旬、故郷の熊本を訪れた。想像以上の惨状を眺めて心が痛んだ。

ホテルに着いてすぐ熊本城の周りを歩いた。周囲は4キロもある。天守閣の最上部は瓦がはげ落ち風によるものか、それとも鳥によって種が運ばれたのか雑草が生えている。石垣が各所で崩落し、一つの櫓が今にも落ちそうだ。悔しくて悲しかったのは石垣、天守閣の屋根瓦、長塀の一部、櫓などが崩壊・破損した哀れな熊本城を目の当たりにしたときだった。両手で目を覆った。郷里訪問の折に必ず足を向けるのがこのお城。熊本城は外国に住む私の心の中にいつも存在し、支えにもなっている。私は「一口城主」の一人でもある。外国に住む熊本県人の文化的シンボルは「熊本城」に尽きるだろう。見終わって、お城の無残な姿にため息が出た。

熊本城

熊本城

幼いころ歩き回った熊本市東区の商店街へ行った。アーケードが一部破損し古い建物の壁には亀裂が確認できた。文房具店経営の女性は、「まさか、あんな大地震が来るとは思わなかった。明日また何が起こるか分からない。地震は怖い」と、発生当時の恐怖を語った。

戻る途中で水前寺公園に立ち寄った。いつもくぐっていた大鳥居がない。参道入り口近くのお土産品販売店主に聞くと、「ご覧の通り、もう片付けた。幸い、池の水はほぼ回復しました」と力強く話す。園内に入り、鯉が数十匹群れながら元気で泳ぐ姿を見て気分が和らいだ。

被害が最大だった益城町を始め城南町、宇土市、菊池市、大津町も回った。城南町の食品製造会社は通常通りの生産開始までに半年も掛かった。ある社員は「地震後の休職中に給料の全額支給はなかったが7割程度もらえて助かった」と話す。

筆者が住むブラジルのサンパウロ市には地震がないといわれる。揺れても震度は1~2程度。台風や津波もない。しかし、たまに豪雨や竜巻に見舞われるし、雹も降る。大天災は少ないが、他国に比べて人災面で交通事故多発や治安が悪いのは事実。この世に100%安全な場所はないようだ。熊本地震からの一日も早い復旧・復興を願いたい。