―ブラジル史をも作り変えた国民酒―
執筆者:田所 清克 氏
食前酒:カシャサとは
ブラジルを訪れた左党の方であれば、サトウキビを原料とした単式蒸留で造ったこのラム酒をお飲みになったことだろう。酒精含有量が高いこともあって文字通り、鬼をもひさぐ鬼殺しの、と同時に鬼好みの酒は、ブラジル国民にとっては欠かせない代物である。20年前に筆者は、国立民族学博物館企画の「世界の酒」研究プロジェクト参加への要請を受けた。日常、焼酎をよく嗜む熊本の風土に育ち、ブラジルのカシャサをこよなく愛する者としてはむろん、プロジェクトには諸手を挙げて参画した次第。ちなみに、この共同研究の成果はすでに一冊の本となっている。筆者が担当したのはブラジルの酒についての研究テーマであったので、ここでは対象をカシャサのみに絞りながら、研究から得られた知見の一端をご披露したい。
マデイラ島から植民初期に導入されたサトウキビの栽培は、アフリカからの大量の黒人奴隷を労働力として用い、他方で製糖技術を有するユダヤ人の入植も手伝って、17世紀になるとサルヴァドールおよびレシーフェを中心に製糖産業は絶頂期を迎え、“砂糖文明”が生起した。むろんこれには、サトウキビ栽培に適した黒い粘土質の肥沃な土壌(マサペー)が、北東部に存在している点も忘れてはならない。
ところで、サトウキビを原料とするカシャサの由来については諸説がある。黒人奴隷の住むタコ部屋(センザーラ)から偶然生まれた、という説もその一つ。が、今ではその説は論破されている。ブラジルが発見される前のヨーロッパではすでに蒸留技術が開発され、バガセイラ(bagaceira)のごときブドウの皮の絞りかすから造ったアルコール飲料が製造されていた。そうした低質の飲料を称するスペイン語のcachazaから来ているというのが有力説だ。ともあれ、植民期当初、蒸留せずに発酵したままの、つまりガラッパ・アセーダの状態で飲まれていたようだ。ところが、発酵蒸留飲料の造り方が普及し始めると、それまで植民地支配者の間で飲まれていた、ポルトガル製のアルコール飲料であるバガセイラは、サトウキビを原料とする発酵蒸留飲料に取って代わるようになる。この安価に製造できる飲み物こそカシャサに他ならない。
カシャサはブラジル通有の名称であるが、このラム酒のポルトガル語の正式名称はアグアルデンテ・デ・カーナ・デ・アスーカル(aguardente de cana de açúcar)。ピンガ、カニーニャ、ブランキーニャも、カシャサと同じ意味で国民の間では良く知られている。その他、ブラジル全土には200以上の名称がある。その中には、ウリーナ・デ・サント(「聖者の小便」の謂)のごとき、せっかくの味もまずくなるものもある。
食中酒:上質なカシャサの製造法とその多様な飲み方
学名がSaccharum officinarumで、イネ科の植物であるサトウキビ。ブラジルの歴史を通じて主要な農産物であり続けたこのサトウキビからは、加工することによって砂糖以外のさまざまな副産物が取れる。今や国の伝統的な蒸留酒となっているカシャサもその一つである。サトウキビが刈り取られてカシャサになるまでにはおおむね、6つの工程を経る。まずはサトウキビの収穫。これはいつも朝方なされる。糖度を高める以外に、刈取りそのものが重労働のために枝葉が焼き払われることもあるが、灰などの不純物を避けるために通常はなされない。刈り取ったものは工場の脇にある貯水池で洗浄され、一日から一日半以内に圧搾される。搾り取られた上澄みの汁は濾過された後、醸造桶に移され、発酵菌を加えて発酵のプロセスを経る。発酵した段階ではアルコール度数が低いので、銅製のランビキの中で沸騰される。そのうちの心臓部と呼ばれる80%がカシャサに利用され、熟成される。まろやかで芳醇なカシャサが生まれるかどうかは、この熟成次第である。
こうして出来上がったカシャサの良し悪しは、目で確かめられる。上質であることの条件は、①不純物がなく澄んでいるもの②コップに注ぐ際に、油のようにゆっくり滴り流れるもの③手につけて擦ると、香水のように心地よい香りを発するもの。その後口に含んで、④口中で適度にかっと熱くなるようなもの⑤4つの味、すなわちまろやかな甘さ,酸味、苦味、塩気が少々あるもの⑥二日酔いの原因ともなる、吐き気や頭痛を催さないもの、等々。これらの条件をクリアした最良質のカシャサが今では至る所で製造されている。中でも国中で名を馳せているのは、パラチ-のものを除いて、同じ南東部に位置するミナス州山岳部の、サリーナス市とジャヌアーリア市のカシャサかもしれない。北東部のセアラー州およびペルナンブーコ州産のものも一級品として知られている。しかし、日常ブラジル庶民が愛飲するのは普通、品質面でもさほど見劣りもせず値段も手ごろな、大リーグのイチロー選手の背番号と同じ「51」の名を持つカシャサのごときものだ。
カシャサにはさまざまな飲み方がある。のみならず、そうした多様な飲み方によってグラスも変わる。ともあれ、まろやかでコクのある本物ののど越しを味わいたい向きにはストレートもよし。他方、フルーツジュース、ソーダ、ベルモット、コニャックなどで割って飲むのもよし。がしかし、ブラジル人の間でもっともポピュラーな飲み方はカイピリーニャ(caipirinha)だろう。「田舎娘」の意味を持つこの酒は、カシャサに潰したレモンと砂糖を加えただけのものである。が、私のような上戸には砂糖は不要である。このカイピリーニャの誕生を巡っては諸説がある。1918年頃、サンパウロ州奥地ではスペイン風邪が猛威をふるっていた。この時住民たちは、闘病と予防のために民間の処方箋として、カシャサにレモンと蜂蜜とニンニクを混ぜたものを服用したそうな。これが有力な説となっている。時の経過と共に、ニンニクと蜂蜜は次第に使われなくなり、それに代わって今日では砂糖と氷が加えられるようになった。カシャサ同様にカイピリーニャは、1922年の「近代芸術週間」の最中、ブラジル文化を表徴する意味で広範囲に飲まれていた。このことが、とくに1930年以降、ブラジルの津々浦々に拡大・消費される決定的な要因となったようだ。
食後酒: ブラジルの歴史をも作り変えた国民酒カシャサ
植民期ブラジル、特に世襲制のカピタニア制度の下での砂糖文明が殷賑を究め、その立役者の一つになったのがカシャサである。しかし、事実上ブラジルの誕生と共に発現し、国民的な酒になるまでの5世紀余りの歴史は、酒を巡っての植民地本国との戦いの歴史であったといっても過言ではない。
植民地ブラジルでカシャサが製造し始められると、本国のワインおよびバガセイラと競合関係になり、後で述べる17世紀に起きたリオのカシャサ製造者たちの暴動の要因ともなった。次第に普及する中、ポルトガル王室は1635年、競合する自国のアルコール飲料を護るために法律を制定するまでに至る。しかしながらその効力はなく、海外市場に向けてもカシャサの生産は大規模に行われ続けた。しかも、ブラジル同様にポルトガルの植民地であったアンゴラでは、長きに亘ってカシャサは奴隷売買の貨幣に代わるものとして通用していたのである。その後ポルトガルは、アルコールも含めてさまざまな産品の、植民地での独占販売を意図する目的で交易会社を設立した。しかしその甲斐もなく、非合法ながらなされていたカシャサの製造は相変わらず成功を収め続けていた。
これに業を煮やしたポルトガル政府は1659年、今度はランビキの破壊という強硬手段に訴えた。対するリオの市会議員たちは翌年、カシャサの製造を認めるようポルトガルに要求したが受け容れられず、たまりかねた蒸留酒製造業者たちは立ち上がり、リオの公権力を奪還した。俗に言う「カシャサ革命」である。こうした暴動が引き金になって、ポルトガルの摂政であったルイ―ザ・デ・グスマン女王は1661年、法外な税金を課しながらもブラジルでのカシャサの製造、販売を認めた。この背景には、ブラジルから追放されたオランダ人が、アンティール諸島に持ち込んだサトウキビの生産が隆盛し、良質の砂糖が生産され、競合を生んだことも看過しえない。女王によるカシャサ製造と販売の放免によって、カシャサの製造は至る所でなされるようになった。そして、リオ南部の主要な港の一つであったパラチーには100以上のランビキが集中して、一大カシャサ製造の地となった。
17世紀以降、カシャサはブラジルにとって砂糖同様に経済的重要性を増した。これに併行して、カシャサ消費者も増大し、ポルトガルからの独立の気運が高まる19世紀の初頭にあっては、ブラジル性(brasilidade)の象徴にまでなった。であるから、カシャサで乾杯することはナショナリズムを表出する手段でもあった。従って、カシャサを飲まないものは逆に、反愛国的な烙印を押される風潮さえあった。政治的独立から1世紀を経た1922年の、従来の模倣に過ぎない自国の文化の有り様を問い直し、ブラジル性を希求・標榜した近代主義者たちも同じく、カシャサを国の表徴として位置づけ、公の場で喧伝するのに腐心した。
こうしてみる限りカシャサは、5世紀に亘る歴史の節々で重要なエレメントとなり、その意味ではブラジルの歴史を作り変えたと言ってもよい。カシャサは、インディオ狩りや金・ダイヤモンド発見のために内陸部に出向いたバンデイランテ(奥地探検隊員)たちを元気づける飲み物であったし、他方において、アフリカの奴隷を購入する貨幣的な役割も果たした。のみならず、それが証左しているのは、ブラジルの独立と「近代芸術週間」の時点においては特に、ナショナリズムの高揚という観点から、ブラジル性をもっとも表出したものになったことだろう。