執筆者:金岡 正洋 氏
(日本ブラジル中央協会常任理事)
リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)79-81
失われた10年:70年代後半になるとこれまで天を衝く勢いだったブラジルの経済にも暗雲が立ち込め始めました。通貨が下落しインフレが昂進しこれまでの開発モデルに挫折が生じるようになります。80年代に入ると愈々インフレが上昇し年率1,000%を超えるハイパーインフレーションの時代を迎えるようになります。タクシーの運転手(当時は殆どフスキーニャと呼ばれる現地製のVW車)も日々の料金の値上げが料金メーターの切替では追い付かず苦肉の策として紙に印刷した換算表(タベラ)を持って対応していました。又、駐在員の奥さんは給料支給日になるとジュンボ(SAO)、カレフォール(RIO)等のスーパに行列し出来るだけ多くの日用雑貨品を購入していました。
60-70年代に競って進出した日系企業も次々に撤退を余儀なくされるようになります。当社(伊藤忠商事)に於いても20社を超える事業(単独、合弁)がものの見事に消えてなくなりました。僅かに残ったのはブラジルの国や国営企業(リオドセ社等)、外国系企業を相手とした資源関係(金属・エネルギー資源のみでなく森林資源、食料資源を含む)の大型プロジェクトでした。こちらの方は息の長い投資事業であり日本の国、業界を巻き込んで進出してきた以上引くに引けない所も有ったのでしょうか。何れにせよこれらのプロジェクトは紆余曲折は有ったものの現在も続き概して良い業績をあげています。撤退の要因としては業績不振、現地合弁相手との不仲、労働争議等色々有りますが矢張り一番大きかったのは為替の大幅な下落による日本から持ち込んだ資本金の欠損であったように思われます。こちらの方はある意味で一企業或いは個人の能力の範囲を超えたものがありある程度致し方なかった所もありましょう。
軍事政権:私が最初に駐在した70-80年代前半は軍事政権が続きました。然しながら海外からの滞在者であった私にとっては実感として其れほど軍事政権であるが故の不自由さを感じることはなく、むしろ発展途上の騒擾の中にある国に於いては安定、規律を守るため軍事政権もやむをえないと言う印象を持ったものです。然しながら後から見聞きしたところによれば左派系の政治家、学者、文化人に対しての取り調べ、締付けは相当に厳しかったようで難をの逃れ海外に居を移す人も多かったようです。(例えば後に大統領になるF.E.カルドーゾ) 又、これも後に大統領となる労働者党(PT)のルーラやジルマ・ルセフに対する取調べもきついものだったようですね。 その辺の所は2015年に発売されたベルナルド クシンスキー著の実録小説「K. 消えた娘を追って」(花伝社、1836円、翻訳は私ども家族ともお付き合いある小高利根子さん)に生々しく描かれています。興味のある方は是非ご一読有れ。 尚、上記私の駐在中の大統領がメデイシ(イタリア系)、ガイゼル(ドイツ系)、フィゲレード(ポルトガル系)だったのも如何にもブラジル的ですね。
コレーガ(Colega-同僚):話題を変えましょう。78年だったと思います。未だサンパウロに住んでいたので休暇を取り家族(家内と小さな娘)でリオに遊びに行きました。飛行機で行くのでなく愛車(VW車のスポーツタイプの車、カルマンギアー)を駆りドウトラ 街道を400km延々と走るのです。偶には奮発してイパネマの先のリオ シェラトンに泊まりました。夜、折角ですのでかの有名なサンバショーを見ようと家内と二人でセントロのレストラン シアターに出掛けました。娘が未だ小さいので当時は未だ珍しかったホテルのベビーシッターに娘を預け家内と二人で出掛けました。ショーは素晴らしく(私は仕事上の客先接待でしょつ中見ていましたが家内は余り機会が有りませんでした)カイピリーニャをしこたま飲みいい調子で帰途につきました。当時は未だ飲酒運転の取締りが其れほどうるさくなく帰りもご機嫌でカルマンギアーでの御帰還です。お酒の勢いも有り娘をホテルに残してきたこともあり車は可なりのスピードでした。ところが、コパカバーナ、イパネマを過ぎた辺りから後ろを一台のパトカーが追走して来るのがバックミラー越しに見えました。スピード違反か、飲酒運転か、かなり酔っていたので若気のいたりでエイヤーとそのままスピードを上げました。いつの間にかホテルの前を過ぎ海沿いのニーマイヤーの曲がりくねった道をジェイムス ボンドまがいの逃走劇が始まりました。走りに走り逃げ切ろうとしましたが敵もしつこく付いてきます。遂にバーハ(今回オリンピックの会場になった)の辺りまで来たところで山側の道で行止りとなり万事休止。已む無く車を停止しました。観念して運転免許証を用意して待っているとおもむろに一人の警官が近づいて来ました。酔っているとはいえ私にも若干の思考力が残っていたのでしょう。此れまでの経験から学んだ(?)免許証のフォルダーにそっと折りたたんだ50クルゼイロ(当時2500円程度だったと記憶します)を挟みその警官に渡しました。警官は暫く書類(とその下のお札)を見ていましたがおもむろに「タ、ボン!」と言うのでこれは助かったとほっとしました。但しですよ、その後に警官がもう一言。「コレーガ タンベン」と後ろの車で待っている相方の警官を指さしました。これには空いた口が塞がりませんでした。如何にもブラジル的対応ですね。
色々有りましたが私の二度目の駐在は81に終わり日本に帰国しました。その後あらたに赴任して戻って来るのは20年後の2001年になります。80-90年代に低迷したブラジル経済も90年代後半になると回復の兆しを見せカルドーゾ大統領の就任後再度ブラジルも国際部隊の中で脚光を浴びるようになります。(BRICS、G20等)それ以降の話はまた別の機会という事で今回はこれで筆を置きたいと思います。
追記:81年にブラジルから戻り83年にはすぐに又米国(NYC)に駐在することになります。赴任後暫くしてある日の午前中マンハッタンの46ST(ブラジルのお土産屋、レストランが多くブラジル街と呼ばれていた)を歩いていますとかの有名なデルフィン ネット氏(ブラジルの奇跡の主導者で当時企画大臣を務めスーペルミニストロと呼ばれていた)に出くわせました。偶々、デルフィンにはパウロ横田氏、池田氏との縁もあり先のブラジル駐在時知遇を得ていたので彼に向って「調子はどうですか?」と聞くと彼は赤い目をして(恐らく睡眠不足だったのでしょう)「ドルの事で頭が一杯だ!」と応えてきました。恐らく為替と外債の問題で眠れない夜を過ごしていたのでしょう。