執筆者:田尻  慶一 氏
(日本ブラジル中央協会 理事)

イパチンガ(IPATINGA)は、ウジミナス(USIMINAS- Usinas Siderurgicas de Minas Gerais S. A)の製鉄所の所在地である。

ミナス・ジェライス州の州都ベロ・オリゾンテから直線で約155 ㎞、陸路でおよそ215㎞、かつては、一日1本しか走らない汽車で10~12時間、車で9~10時間はかかる人跡未踏の荒原であった。ここに、ウジミナスの製鉄所が建設され、現在は、約26万人の大都会になっている。

1956年1月に就任したクビチェック大統領は、「50年の進歩を5年で」をスローガンに、野心的な経済開発5ヵ年計画を策定した。この計画には、鉄鋼の国内生産を5年で倍増する目標が設定された。そして、クビチェック大統領は、自らの出身地であるミナス州に製鉄所を建設することについて日本に協力を要請した。当時の日本の鉄鋼業は、第2次世界大戦による壊滅的な打撃から、驚異の復興を遂げ、急成長を続けていた。それでも、粗鋼生産量はやっと1千万トン、アメリカの10分の1にも満たない規模で、国民経済も、その年の『経済白書』が、「もはや戦後ではない」といったように、復興がようやく終わったといえる時期であった。

ブラジルの要請を受けた日本は、石坂泰三経団連会長の下に「ミナス製鉄所建設協力問題小委員会」を設けて、現地調査を含めた検討を行い、また、ブラジル側とも折衝を重ねた結果、立地、建設予算、資本金、日本側からの必要な技術団の派遣およびブラジル側の協力態勢等についての細目が確認された。

その内容を踏まえて、1957年4月岸信介内閣の閣議で了解がなされた。

「日伯合弁によるミナス製鉄所の建設計画は、我が国のプラント輸出を伸長するとともに、企業提携によって日本、ブラジル間の経済交流を促進し、両国の友好関係に寄与することが多大と認められるので、政府においても、この計画を援助するものとする。」

閣議了解を受けて、堀越禎三経団連事務局長を団長とする日本と、後にウジミナスの初代社長となるラナリー氏を代表とするブラジルとの間で、協議を重ねて、1957年6月に「日伯合弁製鉄会社設立に関する協定(堀越・ラナリー協定)」が締結された。

技術的な検討がなされた結果。製鉄所の建設地が、イパチンガに決定され、1958年8月に、クビチェック大統領隣席のもとに、定礎式が行われた。ただちに、森林の伐採、整地作業が始まる。

その後幾多の困難を関係者の努力で乗り越え、1962年10月26日に第1高炉の火入れが行われた。引き続き、製鋼工場、厚板工場等が、相次いで稼働し、1965年10月末には冷延工場が稼働した。こうして当初目的の年間50万トンの銑鋼一貫製鉄所が完成した。無人の荒野であった広大な地域(3,000万㎡)が、人口4万人におよぶ工業都市へと変貌したのである。

堀越―ラナリー協定が締結され、具体的な、建設が始まり、冷延工場が稼働するまでの間、建設・操業に関わる日本からの派遣者は、八幡製鐵、富士製鐵、日本鋼管の鉄鋼3社から約550人、石川島、日立、東芝等の機械メーカーおよび鹿島建設をはじめとする建設会社から約250人、総計800人を超え、同伴した家族を含めれば、約1,000人にも及んだ。

私は、1960年に八幡製鐵に入社し、1961年6月から3年間イパチンガで、製鉄所調整部調整課に勤務した。そのときの直属の上司が、東大柔道部の4年先輩にあたる阿南惟正さんである。阿南さんとは、ブラジルに行ったら、柔道をする機会があるかもしれないと、語り合って、お互いに柔道着を持参することとした。

ブラジルの柔道の歴史は長い。最も早く柔道を伝え、かつ有名なのは、コンデ・コマこと前田光代であろう。同世代の三船久蔵名誉十段をして「講道館ナンバー1」と言わしめた強豪である。前田は、1904年に渡米、その後、メキシコ、キューバ、ヨーロッパを転戦、不敗を誇った。スペインでコンデ(伯爵)の称号を受ける。1915年ブラジル北部のアマゾン河口のベレン市にたどり着いた。アマゾンへの日本移民が始まる14年前のことである。前田は、ここで道場を開き多くの門弟を育てた。今、世界中で注目を集めている、グレーシー柔道(ブラジリアン・ジュージツ)のカルロス・グレーシーも彼の教え子である。ブラジルに柔道を普及した日本人は、大河内辰夫氏、他多数いるが、詳しくは、現在、岡野脩平さんが執筆中の『ブラジル柔道史に見る武士道の心(日本移民の果たした大きな役割)』の完成を待ちたい。岡野さんは、石井千秋さんが、ブラジルを代表して銅メダルを獲得したミュンヘン・オリンピックで、ブラジル柔道チームの監督を務めたほか、サンパウロに、「ブラジルの講道館」と言われている大道場(ブラジルの代表チームは必ずここで練習する)を、日本の「草の根資金」を活用するなどして作り上げた功労者であり、全伯講道館有段者会の名誉会長である。

私が、ブラジルに赴任した当時、僻地であったイパチンガには、柔道の種は、全くまかれていなかった。

阿南さんと私は、日系の有段者たちと一緒に、日伯親善と柔道精神の普及をモットーにして、柔道場を作ってもらうように、製鉄所幹部に働きかけた。しかし、ただでさえ、工場や住宅の建設が遅れているときに、柔道場の建設は難しいと判断された。そこで、私が住んでいた独立家屋の庭に、20坪くらいの木枠を置き、その中に、オガ屑やカンナ屑を建設現場からもらってきて、山盛りにし、その上を天幕で覆った。雨が降れば使えなくなるので、防水シートをかぶせて防ぎ、稽古を始めるときははぎ取ることとした。また、途中からは、針金で電球を吊り、縁日の露店の照明のようにして、ナイター設備もこしらえた。

このようにして、1962年2月、カリル地区(ウジミナスの社宅区画の一つ)の一隅に、文字通り青天井の道場が出来上がった。有段者同士の練習は、自然と行われたが、ここでキッチリとした形で指導が開始されたのは、日本から来ている派遣者の子弟教育がきっかけである。

派遣者が続々と着任し、家族帯同の人も増え、一番懸念されたのは、子弟の教育問題であった。はじめは、教師の資格を持つ人から個人授業を受けていたが、その内小中学校生合わせて16名に及ぶようになって、日本学園建設という段階になった。しかし、体育までは手が回らない。そこで、父兄から子供たちに柔道を教えて欲しいという要望が出た。私たちはこれを快諾し、週2~3回の指導を始めた。最初は6人の男の子である。日本の子供たちの練習を見るようになって、ブラジル人の子どもたちも加わり1か月で15人を超え、やがて大人も参加するようになった。初心者の指導に一番気を配ったのは、事故を防ぐことである。そこで、受け身の練習に工夫を凝らしながら、徹底させた。

ただ、部員は続々と増える一方で、この道場では危険が伴うので、62年5月、日本学園の新校舎が完成したのを機会に、その校庭の一画に前より面積を広くした道場を急造することにした。ここも、下はオガ屑で、その上に天幕を張ったものであったが、20人ほどの少年組と同数程度の青年組を火木と月水金の曜日に分けて、練習ができるようになった。

青天井の柔道場で、子供たちを中心に指導を行いながら、私たちは、ウジッパクラブ(USIPA)に柔道場を作るように、製鉄所幹部にお願いを続けてきた。ウジッパクラブは、オルト地区(ウジミナスの社宅区画の一つで、ブラジル人従業員が多く住んでいた)から少し離れた地にある公園で、ちょっとした動物園や池があり家族連れで楽しむ場であった。1962年中は無理であったが、63年4月ごろから急速に柔道場建設の話が進み、6月30日には道場開きが行われた。当時の井上誠所長も有段者であり、日伯双方の幹部も柔道に理解を示していた。柔道場は、「井上誠道場」と命名された。投げられた時のショックを和らげるために、下に40個の自動車の古タイヤを敷き詰めた板張りの上に、サンパウロからとりよせた50畳の畳を敷いた柔道場である。部員一同、大喜びで練習に励んだ。月曜から金曜まで毎日6時から、少年部と青年部に分けて、それぞれ1時間ずつ練習を行った。

そして、この新道場で、ミナス州柔道選手権大会が開催されたのである。

阿南さんは、この選手権大会について、その著『鉄の絆』において、次のように述べている。

「こうなってくると、せっかくできた柔道場のためにも、かつ、この道場造りに協力してくれた人のためにも、何か大きな行事を開きたいという願望が出てくる。全体の環境としては、誠に有難いことに、7月には厚板工場が稼働し、銑鋼一貫体制となり、イパチンガにほっと一息ついた雰囲気が流れた時で、加えて柔道部の中心として頑張ってきた田尻君も来年6月には任期満了となる。彼の柔道にかけてきたひた向きな情熱に報いるためにも、新しくできたホームグラウンドで花を咲かす機会を与えてやりたい。そのためには、例年行われるミナス州選手権大会の開催地に名乗り出ることが理想的だったのだが、費用や他チームの宿泊用設備等の諸条件を考えると二の足を踏まざるを得なかった。しかし、結果は案ずるより産むがやすし、私たちの恐る恐るの提案に対し、井上所長がまず快諾して、ウジッパクラブのクラウジオ庶務部長も予算を承諾してくれたので、ミナス州大会を開くことが可能となった。ミナス州柔道連盟もこの申し出でに対して大喜びで、にわかに大会開催の運びとなったのである。大会開催が決まると、次には、ホームチームとして戦う以上、一昨年、昨年と二度団体で優勝してきたチームとしての面目にかけても勝たねばならぬ、というのが厳しい課題となってきた。試合は9月7日の独立記念日に開催することが決まったので、3週間前の8月半ばから、日伯合計18人を選び、連日の強化練習を開始した。・・・・・試合前日に、監督阿南3段、ヘッドコーチ佐藤4段、主将田尻3段以下、若手の勢いのある2,3段でチームを編成、戦いに臨むこととなった。試合の当日9月7日は祝日、翌日は日曜の連休ということで、この2日間の大会にミナス州各地から8チーム、約100人の選手がバスを連ねて乗り込んできた。思えば、東京オリンピックを翌年に控え、初めてその種目となる柔道の大会を、ブラジルの山奥ではあるが、日本人の造った道場で開くことに大きな意義と張り合いを感じたものである。試合は、若い体力十分なブラジル人を揃えた各チームとも強力で、どの試合も接戦を続けたが、ウジミナスは4戦全勝して優勝、3連覇を飾ることができた。道場を埋め尽くした地元の期待に応えることもでき、その夜は、チーム一同、勝利の歌に沸きに沸いた。・・・・・翌日の日曜日は個人戦、ここでも最後のチャンピオン戦で田尻3段が宿敵アルバロ(ミナス・テニスクラブの強豪・のちにミナス州柔道連盟会長)の猛攻をかわして巴投げで転がした後、抑え込むという圧巻の見せ場があり、この勝利には満場総立ち、大会は興奮のうちに幕を閉じた。

このようにして、大会は成功裏に終わったがさらに大きな余禄があった。ポッソ・デ・カルダスのチームの監督としてやってきた岩船貢4段は、1955年の東京学生柔道大会で2回戦に拓大と東大がぶつかって試合をした時に、お互いに7人の選手の一人として出場していたことが分かり、思わず学生時代の昔話が弾んだのである。

彼は、卒業後奥さんを連れて渡伯、柔道の指導をして生活していたが、出来ればウジミナスに就職したいという強い希望を持っていた。私は自分たちが帰国した後の指導者としてまたとない適任者であることから、ぜひ来てほしいということになった。その後、採用の手続きに若干時間がかかったが、数か月後に入社。家族ぐるみの親しい交友が始まることとなる。彼は私たちが去った後、長年にわたり、この大道場の師範として十分に責任を果たしてくれた。

この優勝を契機として、大人、子供を問わず、柔道部への入部希望者は続々出て、1年前には想像できなかったような形で練習も盛況をきわめるようになった。

ウジミナス従業員はもとより、その子弟の入門も多く、その中にはブラジル側部課長クラスの子どももいたので仕事の上でも意思疎通が早くなるという、思いがけないメリットも生じてきた。特にレアル運輸部長には、3人の男の子があり、皆練習に来ることになったので、町からウジッパクラブまでの練習用のバスを出してくれたのはありがたかった。」

夕暮れ時になると、柔道着を着た子供たちが、このバスに乗るために、あちこちにたむろする光景が見られた。

また、私が帰国のため、イパチンガを去るときには、このバスに柔道着を着た子供たちが乗り「向こうから飛行機が飛んでくる。それには、タジリがチャンピオンだと書いてある」と歌いながら、空港まで見送ってくれた。

1973年ウジミナスから、技術指導だけでなく、スポーツコーチ派遣の要請があった。1970年に八幡製鐵と富士製鐵が合併し、新日本製鐵となった。そして、1972年に新日鐵は、ブラジル・リオデジャネイロに事務所(南米事務所)を開設した。私は、その開設及び運営に最初から携わった(1972年~1977年)。ウジミナスからの要請を受けた私は、当時本社の人事課長であった阿南さんに相談した。そして、柔道の神永昭夫さん(東京オリンピック代表・元全日本柔道連盟会長)と水泳の黒佐年明さん(オリンピックメダリストの田中聡子を育てた)がその視察のために派遣された。その助言を基に、ウジミナスに本格的な体育館(バスケットボールその他のスポーツもできる多機能の体育館で、柔道大会となれば、500畳の道場となる)と競技用のプールを建設すること、そして、新日鐵からコーチを派遣する協定を、1974年に締結した。水泳は、黒佐さん自身がコーチとして1年半派遣され、その後ブラジル人コーチに引き継がれた。柔道は、初代コーチとして派遣されたのが、メキシコの世界選手権大会の覇者須磨周司氏である。そして、岩尾福重老、八尋力、岩崎元、水谷久夫、庄司誠一、丸谷武久の各コーチが、それぞれ1年半ずつ派遣された。1974年から1991年まで17年にわたって、これらの一流のコーチが指導を行ったこともあり、イパチンガの柔道部はピーク時には1,000人に近い部員を擁した。また、この道場において、全伯の代表選手の合宿が行われたこともあり、各種の選手権大会も開催された。さらには、神永さんが、世界の山下泰弘さんを連れてきて、技の指導を行うこともあった。

この道場からは、全伯や汎米等の諸大会における多くのメダリストを輩出しているが、オリンピックのブラジル代表選手も出ている。1984年のロス・アンジェルス大会にROGERIO DOS SANTOS、そして、1992年のバルセロナ大会および1996年のアトランタ大会の両大会にEDILENE APARECIDA ANDRADEである。

ウジッパ柔道部には、現在、部員が約158名、コーチが5名いる。

2013年11月から2016年12月まで、新日鐵住金からウジミナスに、薄板部門の技術アドバイザーとして派遣された山下雅之さんは、技術指導の傍ら、ウジッパ柔道部の指導も行った。山下さんによれば、現在ウジッパで練習をしているROMANI TOREDO(17歳)は、東京オリンピックの有望選手であるという。彼女がさらに研鑚を重ね、ブラジル代表の地位を勝ち取り、東京オリンピックに出場してくることを心から願っている。

 

*参考文献
『鉄の絆』阿南惟/『ブラジル柔道のパイオニア』石井千秋/『ウジミナス物語』中川靖造/『ブラジル移民百年史第2巻 産業史 〔ウジミナス〕』