執筆者:関根 隆範 氏
(ブラジル講道館会長)
ブラジルは未来の国と言われて久しい。いつになったら未来は来るのか。更に、昨年からは再び先行きの見えない混迷が深まろうとしている。この5月に入って、テメール現大統領が弾劾裁判へと引き出されると、2年弱で3人の大統領が裁判にかけられる事になる。
足掛け50年、ブラジルで生活をしてきたが、こんな事態は初めてだ。しかし、そうした政治社会情勢にはなっているが、国民は、それでも、もがきながら国を動かし、必死に働いている。
話は変わるが、2億の総人口を抱え、所得格差の激しく混迷する国情ではあるが、ブラジルの柔道の指導者達は、貧困地域にも赴き、子供達の柔道の指導に当たっている。ブラジルの柔道人口は200万人を超え、増加の一途であることは、日本では未だ広く知られてはいない。その90%以上はブラジル人で、日系人は数%にも満たない。日本の23倍の国土の隅々で、日夜「規律、礼!!」の掛け声で老若男女が正座して、礼をする。壁には、嘉納治五郎師範の写真が掲げられ、柔道の稽古が始まる。
前回のリオオリンピック大会は、開催すら危ぶまれたが、どうにか予定の日程で実行された。ブラジルの成績は、当初、芳しくなかった。消沈していた開催国ブラジルで、最初に金メダルを獲得したのは、女子柔道選手 ラファエラ シルバであった。彼女はリオの貧民窟から這い出して、育て上げられ、今回のリオオリンピックではブラジルの星、結晶として、最も称えられた女子選手となった。その女子柔道選手を育てたのは、イギリスの柔道コーチから招聘された藤井裕子であった。貧しい家庭出身の、苦悩する少女を丁寧に指導し、家族同様に温かく育て上げた。大会終了後、藤井裕子はブラジル・オリンピック委員会から、次の東京オリンピックに向けて、最初のコーチとして、契約を締結するに至った。今年になって、彼女は、二人目の赤ちゃんの出産を8月に控え、再び、若いブラジルの女子選手の教育指導に邁進している。その努力は正に敬服に値する。
1)「日伯スポーツ交流促進覚書」
昨年末、テメール大統領は、インドで開催されたBRICSの会合の後、訪日して安倍総理と会見する機会があった。その際、日本政府は唐突なブラジル大統領の訪日ではあったが、混迷するブラジル社会へのお土産として、外務省と文科省が急遽「日伯スポーツ交流促進の為の覚書」を交わした。それはブラジルの若い人材育成こそ、未来の国ブラジルに向けて、最も必要だと考ええられたからである。その根底には、国民的スポーツに成長した柔道を、更に進化させ、公教育に、学校柔道を導入する意図が込められていた。
ブラジル講道館は、日本のの講道館、外務省の100年以上に亘る支援で、柔道をブラジルに定着させてきた。それは明治維新直後の1907年から始まった、日本移民の歴史にまで遡る。日本移民は、貧しい地方の農村から農業移民として、豊かな国で夢の実現しようと言う謳い文句で、ブラジルに送り込まれた。彼等は。灼熱のコーヒー園の農作業の傍ら、子供達の健康と教育を考えるだけでなく、ともに働くブラジル人農業労働者の子供達にも、柔道を教え、育ててきた。他のスポーツとは、その生い立ち自体から異なり、この国に定着してきたのである。
前ブラジル大使梅田邦夫氏(現ベトナム大使)は、在任中、ブラジル全国を回り、その柔道普及の実態を見聞された。日伯の交流基盤を強化するためには、学校教育面での交流が必要と考えられた。そこで、公教育に柔道を取り入れることにした。ブラジル柔道が最も普及しているサンパウロ州には、度々足を運ばれ、私共と具体策を練った。今回、安倍総理、テメ―ル大統領の間で「覚書」を交わす段取りが整うと、日本の外務省は、文科省に協力を依頼した。急遽、戦略スタッフとして文科省は武藤久慶氏を任命し、ブラジルでの学校柔道の実現を計画し、武藤氏をブラジリア大使館の一等書記官として派遣した。
2)「学校柔道導入の始まりと実態」
混乱は暫く継続する事は想像されるが、一方、ブラジルには最近新しい風も吹き始めようとしている。汚職と腐敗が蔓延する政治、社会であっても、底辺には国を改革しようという機運が出てきている事も我々は感じている。隅々にまではびこっている不正は、歴史的蓄積として、一挙に解消できるとは、誰も思っていない。諦めにも繋がる国民的感情もあり、底辺から一掃する為の隠し技は、どこにもない。
今回の日本政府の、前向きな支援は、ブラジルで十分に理解されるには、今後50年―100年の道程が必要かもしれない。ブラジルは、日本や欧米諸国のように、1千年以上をかけた国家建設の苦難の歴史の上に築かれた国ではない。しかし、先ず隗より始めよで、日本移民がとりかかることも、日本移民を受け入れてくれたブラジルへの感謝の印として意味もあろう。我々ブラジル講道館では、全館一体で努力し、行動を開始している。
未来に向けた理想を追う人間形成や、青少年指導の教育政策が、ブラジルで出来上がっているとは誰も思ってはいない。しかし、知育、徳育、体育を並行して伝える柔道の教育は、ブラジルには好適な幼少年指導教育だと我々は考える。また、同じことを言うブラジル人が、全国的にいることも、我々は知っている。ブラジルは、世界中から集まった移民の集合体として国が形成され、500年の歴史が綴られた。豊かな自然と、資源の国に来て、誰もが苦難から逃れ、より良い生活を夢見る国を描いていたに違いない。
日本の戦国時代から、鎖国、更には明治維新の革命的変革の建国の歴史とは、異なる国である。ブラジルには地震も津波も、台風も、隣国からの侵略もない。そうした外的圧力もなく、ポルトガルから独立したこともあり、建国の苦節はなかった。真の愛国者を育てる必然性すらなかったのかもしれない。気が付いたら、経済規模だけが拡大し、世界10傑に入る大国になってしまった。国を貪ることすら、不正とは感じられなくなって拡大した。
こうした歴史の中で、日本人移民は、100年に亘り農業を伝え、柔道を伝えてきた。そして、今、柔道が、学校や、社会の青少年教育に適したスポーツとして、青少年の教育に必要だと思う家庭が、徐々に出て来た事は興味深い。事実、既に地方の小中学校や、地方の公共事業体で、柔道が教育に取り入れられている所が増加している。
サンパウロ州内のサン・ジョゼ・ドス・カンポス市は、人口80万の中堅都市である。この町の近隣の学校では、既に20数校の私立、公立小中学校で、体育が義務教育として取り入れられた。その中で柔道が最も好まれている体育科目として評価されているという報告書が出されている。同市のスポーツ局長であった曽我部道治市会議員(ブラジル柔道9段)の長年の努力で、柔道教育には、税制恩典が付与され、法令化され、加速的に柔道教育として進められている。
一方、南マットグロッソ州の、パラグアイ国境地区にポンタポラン市という町がある。そこでは、連邦政府が放置した地域に学校を作り、生徒達、家族達の協力も得て、体育館や、柔道場が建設された。ポンタポラン市では、近郊の町と協力して、毎年柔道大会が開かれる。大会の開催には、先ず国歌が斉唱され、「規律、礼」で試合は始まり、会場一杯の子供達、家族から、大きな応援の歓声が上がる。
この地域は、過去には、ブラジル最大の大豆の穀倉地帯が出来上がり、盛えた。だが大企業になった穀物会社が破産するや、麻薬流通地域となってしまった。現在は、大型のTax Free Shopが建設されてはいるが、それを取り巻いて、夜間は不穏な様相を呈する地区でもある。遠隔地帯ではあるが、そのポンタポラン市で、子供達は柔道着を着て、実に折り目正しく、柔道の稽古に励んでいる。サンパウロから来た筆者と写真を撮りたいと、両親を連れて、寄り添ってくる。母親は、この子は柔道も好きだが、勉強もとても良くする良い子に育ったと、誇らしげに語った。輝いた目の少女は、若い母親と並んで礼をした。その感動はいつまでも忘れられなし。学校柔道の基盤が、こんな遠隔地にも育ち始めている証左と言える。
3)「柔道の国際的な普遍性」
柔道は、IJF(国際柔道連盟)及びIOC(国際オリンピック委員会)において、その規約に下記のように記されている。
「柔道は精神が身体の動きを制御する、高度な規律に基づくスポーツであり、個々人の教育に寄与するスポーツである。競技や、格闘と言った側面のみにとどまらず、柔道には専門的な研究、形の練習、護身術、身体つくり、並びに精神の鍛練等の要素が含まれる。先人達の残した伝統に派生する規律の実践として、その創始者が極めて近代的、かつ進歩的な手法に仕上げた規範が、柔道である」と。世界200カ国以上の国々で、柔道は単なるスポーツとしてだけでなく、その教育的な価値が認識され、世界が共有する、貴重な日本文化となったと言うことが証明されたと言えるのではないだろうか。
我々ブラジル講道館は、日本人一世の有段者を中心として、日本人移民の歴史と共に歩いてきた。30名そこそこの小さな組織である。経済的後ろ盾も、何もないが、日本の魂を伝えたい日本柔道家の集まりである。最近は、日本人有段者だけでなく、日系人、ブラジル人の医者、弁護士、企業家などの有識者が加わり、正しい柔道の普及を願って、ブラジル柔道連盟を支援する形で活動している。
一世が減少する中で、弊会の岡野修平名誉会長は、80歳を目前に、優れない体調をも越えて、渾身の努力で学校柔道実現に粉骨砕身している。日本の細かい思想や、哲学を正しく伝達することは並大抵ではない。昨年の年度総会では、柔道の普遍性、教育の価値観を永遠に伝える団体となるべく、定款も改正した。日本の武士道精神を、ブラジル生まれの日系人、ブラジル人達が信じ、後世に伝える事を織り込ませた。柔道人口が世界最大にまで拡張したこのブラジルで、今こそ、柔道が、学校教育に織り込まれる事を実現したい。
ブラジル中の柔道大会で、若い両親に連れられて来る幼い男女の子供達を見ると、その輝いた目から未来が垣間見ることができる。 ブラジルの青少年達は、礼儀作法をきちんと身につけている。メダル競争に流れるのでなく、大部分の青少年、両親達は日本の文化に敬意を払い、柔道を通じ、知育、徳育、体育を学んでいる。健康な身体と、合理的な力学や、医学、文化、歴史、哲学まで学んでいる。苦悶しながら、国の未来像も語っている。時間を守り、先生や、親を敬う事を道場で教えられている。世の中の矛盾も見分ける教育も受けている。
ブラジル人は、基本的には開放的で、明るく、心の広い国民性を持ち合わせている。豊かな自然が育てた民族性だと思う。北半球で起こり続ける争いを見ながら、ブラジル人が、南半球から平和の道標を提案できる日が来ることを期待している。