―拡大、多様化する日本語教育― 日本への関心が高まる

執筆者:丹羽 義和 氏
(ブラジル日本語センター前事務局長)

日本語教育のスタート-移民と日本語学校-

ブラジルでは1908年の移民開始以来、綿々と日本語教育が続けられています。

多くの日本移民が永住ではなく、日本への錦衣帰郷を目的としたので、日本に帰った時に日本語や日本のことがわからなくても困ることがないように、子弟教育には力を注ぎました。そのため、初期の頃は、欧米人は植民地(新しい耕地の開墾のために作られた集団入植地や集団移住地)を作ると最初に教会を建て、日本人は学校を作ると言われたほどです。

このように、移住初期は「子弟教育=日本人教育」が行われていましたが、長期定住化が進むにつれて、ブラジル式教育を中心として、日本語学校では日本的考え方を身に付けた良きブラジル人を育成するという方向に変わりました。戦前のナショナリズムの影響も受け、「日本の魂を持ち、ブラジルの学門、知識を身に付け活用する」という意味で「和魂伯才」という言葉も生まれました。

 

日本語教育の目的の変化-ブラジルに貢献する人材育成へ-

しかし、戦後は・・・

「一世と二世と密接な繋がりに必要なものは言葉であり、一世のもつすぐれた才能、技術、母国日本のいい文化をブラジルに伝えるために、日本語でなければならない。」「つまり、二世の立場は単によいブラジル人であるというだけではなく、ブラジルを母国とする立派なブラジル人であると同時に、一世を理解し、日本文化に深い関心を持つ、日本人の子どもでなければならない。」「これによって、二世という特殊な立場が、輝かしい社会的存在となる。」(アンドウ・ゼンパチ『二世とニッポン語問題―コロニヤの良識にうったえる』から引用)

・・・といった文章に象徴されるように「ブラジルに貢献できる子弟を育成する」教育に移行し、ブラジルの教育機関で学び、日本語学校で「日本語や日本文化」を学ぶようになりました。

戦後の1950年代には、移民が再開され、戦後移民の子弟やブラジルで生まれた子供達も日本語学校に通うようになり、戦中には敵性言語として禁止され、隠れて行っていた日本語教育が息を吹き返し大きく発展しました。このように、1970年代までは、日本移民の子弟が中心の日本語教育でしたが、1970年代後半から1980年代にかけて、ブラジル人も「日本」に対する関心が徐々に高まり、日系以外の人たちが増えてきました。

 

日系日本語学校が支える日本語教育-寺子屋方式で多様な学習者に対応-

サンパウロ市から600キロ離れた弓場農場があるMirandópolis市のAliança移住
地内の日本語学校(地方の寺子屋式日本語学校)

このために家庭内で日本語会話の環境がある人達を主な対象としていた学校に「日本語に触れたことがない生徒」が入学するようになり、先生方はこの対応に追われました。この時によく使われた言葉が「国語から外国語としての日本語教育への移行」です。

これは日本語が母語である環境に育った子供に「読み書き」を教えるのではなく、日本語に触れたことがなく、日本語は全くの外国語である子供に「日本語をゼロから教える」方法を学ばなければならないということでした。

この時期(1984年から85年)に国際交流基金が行った調査によると、ブラジルには日本語を勉強する人が21.690人、先生が697人、日本語教育機関(日本語学校)が454機関(校)となっています。

現在では日本語教育機関も拡大多様化し、日系人や日系団体が経営する学校(日系日本語学校と略します。)だけではなく、公教育機関である小中高校や大学および語学学校(主に英語)でも日本語が盛んに教えられていますが、1984年当時はサンパウロ総合大学[1963年に文学部日本語・日本文学過程開設]などの限られた機関以外は、すべて、日系日本語学校でした。

さて、皆さんはブラジルの「日系日本語学校」と聞くとどのようにイメージされるでしょうか。

同年齢の生徒が同じ教室で一斉に授業を受けている状態をイメージされる方が多いのではないかと思います。しかし、21.690人に対して454校の学校ということからおわかりのように、広い大地のブラジルで日本語を教えるためには、一部の大規模校を除くと一校当たりの生徒数は30~40人、先生も1~2人、1~2教室というのが一般の日本語学校でした。

つまり、日系日本語学校は日本語を聞いたり使ったりする環境にある生徒と全くその環境がなく、しかも、年齢も離れている生徒達が同じ教室で一緒に学ぶ「寺子屋式」の学校がほとんどです。

余談になりますが、先生は一度に異なったレベル(日本語能力、年齢、学習目的)の生徒に教えるために、常に教材などの準備に追われています。

 

日本語教育機関の多様化-寺子屋式日本語学校から公教育機関へ-

サンパウロ市から120~30キロのソロカバ市近くのピラールドスール市(農業の町)
の日本語学校で書道の授業を行っているとき(中都市の日本語学校 日本語だけで
はなく、習字も習う)

このように、「寺子屋式」日本語学校に支えられてきたブラジルの日本語教育ですが、1990年代になるとブラジル国内の不況に対し、好景気に沸く日本の人材不足が顕著となり、日本就労者「出稼ぎ」が激増します。日本に関心があり、日本語や日本文化に関心のある日系人とその子弟達から日本就労に向かったため日本語学習者は大幅に減少してしまいました。

このような日系社会の流動化と並行して、サンパウロ州やパラナ州では多文化理解教育の一環として州立の中高校で外国語(英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ウクライナ語、ポーランド語、日本語)の導入が検討され、1989年にサンパウロ州のレジストロ市州立Hiroshi Sumida語学センターで他言語に先立って、日本語とスペイン語が教えられ、その後、パラナ州でも同様のプログラムが始まりました。90年代後半に入るとバイリンガル教育を目指した小中学校へと変革するために日本語学課を導入する学校も現れ、学習者総数は減少したものの、公教育における日本語が広がり始めました。

当時のエピソードとして、経済的問題から私立校を続けられずに公立校に転校する「教育熱心な日系人の子弟」を引き留めるため、サンパウロ市などの日系人の集住地では日本語コースを開設した私立校もありました。

このように1990年代は日本語学習者が多様化し、広がり、普及していった時期といえます。

日系人が大量に日本に移動し、1998年には16.678人にまで減ってしまった学習者数でしたが、2006年には21.636人と増加に転じ、2015年には22.993人と国際交流基金が1974年に調査を始めて以来、最大の学習者数となりました。

多様化する日本語教育-公教育だけではなく語学学校へ、児童生徒だけではなく幼児、熟年層へ-

この要因には以下の3つがあると考えています。

・日本、日本文化への関心が高まり、日系人だけではなく、日系人以外の人たちも日本語に関心を持つようになった。

・そして、これらの層を受け入れる日本語教育機関が日系日本語学校だけではなく、小中高校及び大    学、英語などの語学学校に拡大した。

・さらに、「児童・生徒」中心の時代から「幼児、児童、生徒、学生、成人、熟年」というすべての世代が学ぶようになった。

ここで、日本語を学ぶ機関(学校)別に学習者数を比べてみます。

ブラジル日本語センターで行っている全伯日本語教師研修会の参加者の集合写真(ブラジル全国から集まった先生と来賓)

前述のように、1984年時点の学習者総数は21.690人でした。しかし、当時はサンパウロ大学など限られた大学でしか教えられていなかったので、このほとんどが、民間で、しかも日系日本語学校で学んでいました。

そして、2015年の22.993人の内訳は公教育機関で学ぶ人は7.962人(小中高校の学習者が6.897人、大学が1.065人)で、民間で学ぶ人が15.031人と1984年時点ではほとんど、存在しなかった公教育機関の学習者が30年後には、1/3以上を占めるようになりました。

また、民間、15.031人の中には、50校を超える英語などの語学学校の学習者および大学などの公教育機関が行う一般市民への公開講座の学習者が含まれており、日系の日本語教育機関の学習者は11.000~12.000人と推測します。

このように今、ブラジルの日本語教育は大きな変革期を迎えており、これからますます、日本語学習者が増えるのではないかと考えています。

 

公教育における学習者の増加-さらに拡大が見込まれる日本語学習者-

2015年度の調査結果では、ブラジルの学習者数は中国、インドネシア、韓国、オーストラリア、台湾、タイ、米国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ニュージーランド、インドに次いで13番目です。いずれも日本と距離的にも経済的にも関係の深い国々ですが、これらの国々でも小中高校や大学などの公教育機関で学ぶ人が圧倒的に多くなっています。民間での学習者数はインドネシアは745.125人の学習者に対して民間が7865人、オーストラリアは357.348人に対して3.460人、アメリカは170.998人に対して10.562人、マレーシアは33224人に対して3332人、ニュージーランドは29.925人に対して20人、インドが24.011人に対して11.756人とブラジルの民間で学ぶ15.031人より少なくなっています。民間での割合が最も多いフィリピンで50.038人の55.67%の27.852人、ベトナムが64.863人の52.8%の34.266人、インドが24.011人の49.0%の11.756人となっています。これらに比べてブラジルでは民間の割合が65.5%と公教育機関の割合が低くなっています。

日系人集住地のサンパウロ、パラナ州で行われていた公立学校での日本語教育が現在、他州に広がりつつあり、ブラジリア連邦直轄区の言語センターで試験的に実施していた日本語講座が2017年から正式に行われることが決まったり、アマゾン州立校で6~9年生に対して全日制の日本語バイリンガルコースが開設されたりするなど、どんどん、公教育機関に導入されています。このような状態をみて、今後、ますます、日本語学習者が増えていくものと期待しています。

明るい未来-ブラジルの日本文化ファンやレベルの高い日本語話者-

サンパウロ市の地方公務員の福祉センターで行っている日本語講座の修了式(日本
語を学ぶ機会がなかった方が定年後、日本語を勉強している)

当地における日本語教育の明るい未来を感じる出来事の一つに、日本移民が多く住む日本人街(今は中国、韓国の人たちも増え、東洋人街と称する)リベルダーデ区の地下鉄の駅周辺に、所狭しと集まっているコスプレの若者達。これらの若者を如何に日本語学習にまで関心を持たせるかというのが課題であると聞いたことはあるのですが、ある時、「これらの若者の中には日系の本屋でアニメの本などを見たいのだが、日本語ができなくて、恥ずかしいので、中に入れない人がいる。」と聞いて、びっくりすると同時に「しめた。これでこの子達を日本語学習に向かわせられるかもしれない。」思いました。

既に、ご存知かもしれませんが、日本以外の国で日本語を話す人が一番多いのがブラジルだと言われています。これも移民の方々が作り上げた日系社会があるからです。30年前には、移民が来なくなることで、日本文化や日本語を日本で実際に習得した人が途絶えてしまうという心配もありましたが、前述のように日本就労ブーム時に日本で教育を受けた就労者子弟が帰国したことにより、移民同様、あるいはそれ以上に日本語を話したり、今の日本のことを知っている人が多く存在します。これにより、その心配もなくなりました。

前述のようにブラジル日本語センターでは日本語能力試験の受付をしますが、日本語がわからないお母さんやお父さんと一緒に申し込みに来る子供さんが日本語で話しかける職員にたどたどしいながらも立派に日本語で応える姿を見て、驚き、喜び、感激して、ご両親の財布のひもも緩んでしまうのか。ニコニコして受験料を支払ってくださる様子を目にすると「こんな親子がもっと増えてほしいなぁ~。よ~し、頑張るぞ!」と元気が出てきます。

このように、ブラジルの日本語教育は多くの可能性を秘めた、とても明るい未来であると思っています。