執筆者:山岸 照明 氏
(Yamagishi Consultoria Ltda. 社主、元アマゾナス日系商工会議所会頭)

 

皆さん、{待ちぼうけ}と言う童謡をご存知ですか、北原白秋作詞、山田耕作作曲で1924年 満州唱歌として 発表された童謡です。

 

中国のあるお百姓さんが、毎日畑仕事をしていると、ウサギが飛んできて、木の切り株にぶつかり死んでしまいました。お百姓さんはそのウサギを売って儲けました。そこで、そのお百姓さんは、働くのは止め、毎日その木の切り株でウサギが飛んでくるのを待ちましたが、ウサギは二度と現れません。そして、お百姓さんは、作物を作る事も出来ず、世間の笑いものになり生活も出来ず死んでしまったというお話しでした。

 

私は、この話を小学校の授業で聞きました。先生は、このお百姓さんの様に幸運を待つのみで、働かないと死んでしまいます。皆さんは、しっかり勉強し、「物」を作ること、働くこと、を学ばないと生きては行けないのですと。昭和16-17年の頃だったと思いますが日本は米英との戦争を開始、緒戦に快進撃していた時代です。

 

前号で話した通り、ここアマゾンには東アジアよりの移民が住み着き、人間の集落が、

出来始めました。アマゾンへ移住して来たインデイオの祖先による農業も行われた形跡がありますが、アマゾン河と熱帯雨林が齎す恵みに依る採集経済の思考は現在に至っても色濃く残っています。「待ちぼうけ」のお百姓さんの様に、畑を耕さなくても自然の恵みは充分人間の生活を癒して呉れるのです。

 

私は、アマゾンの人々と生活するようになり、「待ちぼうけ」の教えを思い出しました。我々北半球で育った人間は冬期に備え、限られた時間内に冬を越す支度の計画を作り、衣,食,住を調えねばなりません。「物作りの計画」、「時間の観念」は何万年の経験により、私たちの血となり、肉と成っています。

 

一方、アマゾンの住民たちは、アマゾン河の齎す自然環境の中で、衣食住には全く不自由しません。熱帯の気候とアマゾン河が作り上げた熱帯雨林の富は一年を通じ、富を齎して呉れます。所謂 採集経済による社会を形成して行きました。

 

勿論、現代社会の貨幣経済は南北を問わず普及し、近代社会の秩序は保たれていますが、それぞれの育った地方の自然環境は、人々の習慣、思考として根付いています。

 

この南と北の観念がまともに交差したのが、アマゾンのゴムブームと思います。前置きが 長くなりましたが、アマゾンでのゴム産業の歴史に入ります。

ゴムの実用は、1770年代、英国の科学者が、既に樹木より抽出した乳液を固めたものを鉛筆で書いた字を消すのに使われたと言う話が伝わっています。その後、アジアやアフリカより採れたゴムでその耐水性を利用した衣類、履物等がヨーロッパやアメリカで使われるようになりました。

 

アマゾンのゴムは18世紀ソロモンエス河上流で、森林天然ゴム樹が発見されました。世界の市場に既に出回っていた中でも非常に良質な乳液で、メキシコ産やアフリカのコンゴ産のゴムより良質との評判でした。以下 1907年東南アジアで計画的に植林されたゴム園の製品が出荷されるまで、世界の市場を満たすことになります。当時のゴムの市場拡大は、丁度1820年~1840年に起こった産業革命がゴムの需要を大きく拡大させました。この時代を 分析すると、

 

1)第一期: 18世紀より1876年の「電話」の発明による送電線(1873年~1882年)の絶縁チューブの需要です。所謂、この工業インフラへの需要までは、釣り糸、玩具、合羽、オーバーシューズ、消しゴム、等々 実用品への市場でした。1840年、ゴムの硫化処理が発明され、先ず 蒸気船の部品に使用され、硫化処理されたゴムの市場は工業製品やインフラ整備等に劇的に拡大されました。アマゾンのゴムの生産は、1827年、年間35トンでしたが、以後 1876年迄、年間1,500トンに急上昇しています。

 

2)第二期: そして、1876年以降、電線被服チューブの需要より、1888年に、ダンロップ社の自転車のチュウブの生産開始で世界中へ一層の生産拡張が行われます。

 

3)第三期: 自転車のチュウブの需要で市場は延び続けていたところ、1895年には、

さらに自動車のタイヤ需要が出てきました。当時、アマゾンの天然ゴムには全く 競争相手は無く、生産高は、年間8000~9000トンに達していました。そして、アマゾンのゴムの単価はうなぎ上りに高騰して行きます。

 

世界のお金はアマゾンに集まり、マナウスは、美しい町に生まれ変わり、電気、水道、道路等のインフラは整備され、ブラジル初の市内電車が走っていました。この時代、マナウスは、ブラジルの近代文明の入り口でした。このような華やかな景気は1907年に終局を迎えます。

乗用車の普及でゴムの需要は増え続けますが、そこへ英国が東南アジアで植えたゴム園の製品が登場します。1876年英国の生物学者 HENRY WICKHAMは、ゴムの需要の将来に目を向け、ゴムの景気に沸くアマゾンより7万個の種を英国に送り温室で試作を始めました。そして、そのうち7000本の苗を先ず、セイロン島、継いでマレーシヤ、スマトラ、ボルネオ等々その他の英国領、オランダ領東南アジアへ送り試作を行いました。そして、非常に良質、且つ低コストのゴムの生産に成功します。最初の東南アジア製のゴム1トンが、1898年、ロンドンのゴム市場に出荷されました。

 

ブラジルの歴史では、英国がゴムの種を盗んだことになっていますが、私は、採集経済しか知らないアマゾンの人達は、DR.HENRYへ熨斗を付けてお土産として、提供したに違いないと思っています。正に、生きることに苦労をする北半球の計画経済の勝利と思っています。今では、マナウスより、種や苗、生物の持ち出しは、難しい検査を受けますが、

まだまだ、一般的には採集経済の血が濃く残されています。

 

私は、どちらも良否を問う訳には行きませんが、この裕福な自然の国の人々と付き合う上に、お互いを知り、理解し合うことが一番大切と思っております。それでも我々にとって、理解するのは決して簡単なことではありません。

 

因みに20世紀初頭の生産巣量の比較を載せておきます。

 

ブラジルton アジアton
 1900 21000 4000
1910 34000 8000
1912 42000 28000
1913 39000 47000

 

英国は、約40年の計画を経て、アマゾンのゴム景気をもぎ取ったわけです。さて、話を元に戻します。

 

以上の様な経過を踏み、アマゾンのゴム景気の独り占めは公式には、1907年で終了

しました。その後の状況ですが、先ずアジアの安い製品が出回るに連れ、アマゾンの天然ゴムの価格も急落します。しかし需要も急増してゆく為、1909年/1910年は相場も戻し景気は帰って来ました。

 

しかし、東南アジアの生産は、各地で起こり、経費のかかる天然ゴムの採集は競争力を

失って行きます。また、アマゾンのゴム樹木には、森林以外で植樹すると、カビの一種が齎す病気が入り、樹木が育ちません。現在 ブラジルはゴムの輸入国です。

 

このエピソードは、アマゾンの地方経済の将来に非常に大切な経験と思います。天然資源の開発について、この出来事は被害者意識を捨て、教訓として研究すること、「待ちぼうけ}の教訓を如何にこの裕福な地方に伝えるかを考える昨今です。