執筆者:岩尾 陽 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

ブラジル銀行東京支店の誕生とその後の発展

日本ブラジル中央協会より、私が若い頃から33年間働いた、在日ブラジル銀行について、連続エッセイの形で書かないかとお誘いを頂きました。33年間の在日ブラジル銀行勤務中には、その創立から成熟の間に、様々な出来事がありましたので、その間の私の滑ったり転んだりの歴史を、思い出しながら書かせて頂こうということになりました。まず如何にして私がブラジルと、かくも長きにわたる縁を持つに至ったのか、その辺りから始めてみたいと思います。

 

初めてのブラジル訪問

そもそも私とブラジルの関係は、私が小学校5年生の頃に、10歳年上の兄が東洋紡績株式会社のブラジル工場をサンパウロ州アメリカーナ市に建設するために派遣されたことから始まりました。ですからもう半世紀以上、ブラジルとの関係が続いていることになります。その当時は、すでに日本からの移民の動きは収斂しつつありましたが、それでも日本は未だに戦後から脱し切れておらず、ブラジルに新天地を求めて移民する人々も少しは残っていた時代です。私は小学5年生でしたが、ブラジルに赴任した兄から定期的に届く「AIRMAIL」の手紙や同封されている写真を楽しみにしていました。1960年代初頭の頃、つまり日本経済が飛躍的発展のスタートとなった東京オリンピックの直前の話です。まだ日本には高層ビルもなく、サンパウロ市高層ビル街の写真は印象的でした。しかし、もっと印象的だったのは、兄がパイナップルを手に持っているところを撮った写真でした。当時の日本では、バナナでさえもまだ貴重品でしたし、私が知っていたパイナップルは、缶詰になった、真ん中にドーナツのように穴のあるスライスされたものでしたから、ラグビーボールのように大きなパイナップルの果実そのものを持つ兄を羨ましくさえ思ったものです。兄からのエアメイルが何通も溜まったころには、私も小学生ながらすっかり洗脳され、「将来はブラジルで仕事をするぞ!」と子供ながらも固く決意するようになりました。

それから、中学、高校、大学と月日が経ち、私のブラジルに対する思いも益々強くなっていきました。 そして、大学4年生の夏休みを利用して、ようやくブラジルに初めて旅行する機会が訪れました。1970年のことでした。

 

ヴァリグ・ブラジル航空、 1ドル360円、 スコッチウイスキー

1970年は円ドル相場もまだ360円で固定されていました。日本もまだまだ世界銀行から借款を受けているほどでしたから保有外貨も乏しく、海外旅行に行く時に持ち出せる外貨も一人当たり1,000ドルに制限されていました。今では、1000ドルはそれほど大金ではありませんが、当時は、大卒初任給が2万円程度の頃ですから、1000ドルと言っても、36万円にもなるので、旅行のお小遣いを得るのも大変でした。1000ドルが初任給の18倍、往復航空チケット代も60万円近くしたと記憶しています。つまり、ブラジルに三か月滞在するのに、当時は100万円位掛かったということです。初任給の50倍程度ですから、今の初任給20万円からすれば、1千万円位になる訳です。体感的には、それほどでは無かったですが、それでも大きな負担でありました。そんな時代ですから、海外旅行に行くこと自体が夢のような時代でした。実際、当時流行ったサントリーウイスキーのコマーシャルは、「トリスを飲んでハワイに行こう。」というもので、抽選で「当時の日本人には夢であった」ハワイ旅行に招待しますというものでした。ジョニーウオーカーの黒ラベルが酒屋さんで1万円しました。初任給の半分位の値段ですから、当時のジョニ黒は若い学生やサラリーマンの憧れの的でした。今日この頃、ジョニ黒は町のスーパーで、二千円台で買えますので、当時の有難味はなくなりました。

話をブラジルに戻すと、1970年当時は、まだ成田空港もありませんから、関東ではすべての海外便が羽田から出発しておりました。私が初めてブラジルに行った時には、まだ海外旅行も珍しい時期でしたから、家族や友人が羽田まで見送りに来てくれました。

1970年当時、日本とブラジルの人材の行き来はそれほど活発ではなかったと思いますが、何故か当時ブラジルを代表する航空会社であったヴァリグ航空が日本からの直行便を運航していました。現在ではブラジルへの直行便は、何処を経由しても中間都市で一回トランジットをするだけですが、私が初めて乗ったヴァリグ便は、アラスカ、ロサンジェルス、リマ、リオを経由してサンパウロに到着しました。当時は、ホントに大変時間が掛かり、乗っているだけでも疲れるフライトでした。しかも、当時の飛行機は一定の高度に達し禁煙サインが消えると、多くのスモーカーが一斉にタバコに火を着けましたから、今から思うと想像も出来ない、紫煙の漂う機内の光景でありました。こうして、私は初めてブラジルの大地を踏みました。そこから3か月ブラジルに滞在しました。その体験談はこのエッセイの主旨ではありませんので、以下、在日ブラジル銀行の誕生から成長への軌跡を記したいと思います。

 

1971年、丸ビルにあったブラジル銀行駐在員事務所

ブラジルから帰国して後、ブラジルで駐在員として派遣してもらえる数社から入社のお誘いを受けました。私はブラジルで生活する積りでしたし、3か月の滞在ですっかりブラジルにも慣れておりましたので、それは嬉しいお誘いでした。しかしながら、いくつかの事情で、当面、日本に居ながらブラジル関係の仕事を探すことになりました。偶然その頃に、ブラジル銀行が日本で支店を開設するということを知りました。そして、これまた偶然ですが、兄の働いている東洋紡績のアウシーデスさんという顧問弁護士が元ブラジル銀行国際部の部長さんで、なんならブラジル銀行に紹介してあげようという話になりました。初めてブラジル銀行東京駐在員事務所を訪れた時のことはよく覚えています。今はタワーオフィスビルとなりましたが、当時は歴史を感じさせる重厚な丸ノ内ビルジング、いわゆる丸ビルの中にあった、小さな部屋でした。そこに、銀行本店から派遣された駐在員と、一人の女性秘書だけのひっそりとした雰囲気の事務所でした。駐在員は、橋爪征四郎という長髪、口髭の一見怖そうな方でした。秘書の女性の洋子さんも、タバコの煙を天井にスパーッと吹き上げる姉御タイプの女性でした。橋爪さんとは、50年経った今でも付き合いが続いています。あの日の出会いから50年があっという間に過ぎ去りましたが、東京支店を一緒にゼロから立ち上げた先輩として、また友人として良き人間関係を築くとが出来ました。その日から一週間ほど後、ブラジル本店から私の推薦が来ているだろうと思い、再び丸ビルを訪ねました。何のニュースもありませんでした。本店からは確かに、東京駐在員事務所に推薦をしてくれる筈でしたが、その辺りは、残念ながら有耶無耶になっている様でした。しかし、橋爪さんからは雑談の中で、ブラジル銀行東京支店の初代支配人は、三菱銀行からサンパウロの東山銀行に出向していたHさんと言う方が就任されると聴いておりました。たまたま、私の叔父が三菱銀行常務取締役を務めた後、幾つかの三菱系企業の社長などを歴任した後、三菱グループの最高意思決定機関である金曜会の幹事をしておりましたので、ブラジル銀行で働きたいことと、最初の支配人は三菱銀行出身のHさんが就任されることを話しました。叔父は後輩のHさんをよく知っており、私も三菱銀行から紹介してもらえるよう図ってくれました。このようにして、正式にブラジル銀行で働くことが出来るようになりました。

 

1992年東京支店開業直前

それから間もなく、大蔵省から支店開設許可が下り、銀行は丸ビルの小さな部屋から、丸の内3-4-1にある新国際ビルの1階と2階の大きなスペースに東京支店開設のために移動しました。その時点でのメンバーは、10人はいなかったと記憶しています。それから半年後の正式な開店までは、まさにゼロからの開設準備でした。私だけが新卒で、他のメンバーは日本の銀行経験者と一般企業出身の方々が半々でした。一番年が近かったのが、前述した洋子さんで、確か27歳でしたから、私は一番若くまさに駆け出しと言う言葉が似合ったと思います。人数が少ないので、雰囲気はとても暖かくアットホームなものでした。ただ、個性的な人も多かったので勿論、仕事を巡って口論などもありましたが、大抵は、その日の内に解決したと記憶しています。とにかく、銀行の支店を開設するためのあらゆるものが不足しており、半年間でそれらを間に合わせることが必要でした。私の役目は、主として銀行の伝票、通帳、小切手、約束手形などのデザインを決めて、それを印刷業者に回す仕事でした。毎日、デスクに着くと直ぐに物差しと分度器を手にして、ひたすら帳票類のデザインをしていました。勿論デザインの専門家ではありませんでしたが、そうした創造的な仕事は楽しいものでした。とは言いながら、その頃、例えば普通預金通帳は、どの銀行も同じように縦長のものを使っていました。A銀行とB銀行の通帳のデザインの基本は同じでした。銀行名、ロゴ、通帳の色だけが相違点でしたから、私達も通帳は日本の銀行のデザインを拝借し、ブラジル銀行名とロゴ、カラーだけ変えて簡単に作ったと記憶しています。外資系銀行ですから、書類は基本的に英語が主体でしたが、駐在員の本店への報告は勿論ポルトガル語でした。ですから、行内では日本語、ポルトガル語、英語が均等に使用されていました。例えば、預金の引出伝票なども、日本語と英語の併記でした。

「太線の中だけご記入下さい。」などという注意書きを英語にするのですが、太線を正しい英語で何と言うのかを辞書で調べたりしたのが思い出です。その頃、二人目の駐在員が赴任してきました。ジョン・クリモトというやはり日系2世です。この方も優しい人でした。独身でお酒や料理が好きで、青山通りの紀伊国屋に近いオシャレなマンションに住んでおり、ほぼ毎週金曜日の夜には食事に誘ってもらいました。70年代初頭は、今のようにブラジル物産が簡単に見つかりませんから、ブラジルの代表的なお酒であるカシャーサも中々手に入りませんでした。仕方なく、紀伊国屋で簡単に手に入ったテキーラと、普通のレモンを使ってカイピリーニャ(?)を作ったのを覚えています。

当時の仕事の中で、あまり歓迎できなかったのが、毎日夕方になると本店に送るテレックスでのレポートです。 なにせ当時の通信環境、特に地球の裏側のブラジルとの通信環境は最悪でしたから、KDD回線でテレックスを申し込んでも、直ぐに繋がりません。30分で繋がる時もあれば、数時間待たないと繋がらない事もありました。まだ銀行業務そのものは始まっていなかったので、殆ど全員に残業と言うものがありませんでしたが、唯一、夕方に出る本店向けレポートをテレックスで送る係りだけが、その日の通信状態が悪いと残業となります。ほかの人が5時で退社するのを見ながら、たった一人、テレックスマシーンの前で居残るのは、あまり心地いいものではありません。そして、その係りは殆どの場合、最年少の私でした。

回線状況は深夜になると随分良くなりますので、深夜まで一人でビルの中に居るのも効率が悪い上に、例えばトイレに立っている間に、KDDから回線が繋がったという連絡が入って、それに応えられないと、申し込みそのものがキャンセルとなって、すべてやり直しになります。それは本当に悔しい体験でした。テレックスという通信方法を使うことは、今日では既に随分前からなくなっていますが、当時は、電報などに比べるとテレックスは、そのスピードと通信量の大きでは最先端のツールでした。メッセージをタイプすると、幅2センチほどの紙テープにパンチ穴が空きます。そのパンチ穴を器械が読み込んで、送信するという仕掛けでした。そして、そのテープがあれば、どの器械を使っても送信が可能です。ですから、一旦家にそのテープを持ち帰り、夕食などを済ませて、深夜になってからテレックスを打つと、あまり待たずに送信が出来ました。当時の私は横浜に住んでおりましたので、時々は、テープを持ち帰って、深夜にタクシーで山下公園の側にあったKDDのブースに行き送信を済ませたのを、今は良い思い出として覚えています。

その後間もなく、ファクシミリという、原稿そのものを画像として送る技術が出た時には、本当に驚きました。当時、三井物産本社でファクシミリを導入したという話があり、わざわざ見学に行った記憶があります。現在の携帯電話やEーメイルの普及を見ると、古き良き時代の牧歌的なお話です。私はピカピカの新人でしたから、勿論銀行業務の初心者でしたし、スタッフの中で最年少でした。ですから、活きた銀行業務を覚えるためには、実際に営業している日本の銀行で研修する必要がありました。研修先に選ばれたのは東京銀行日比谷支店でした。現在はペニンシュラホテルになっていますが、当時は日活ビルと呼ばれた場所にありました。一か月ほどの研修期間でしたが、銀行業務のイロハを叩き込まれました。当時、日本の銀行支店では、女子行員は一般的には各銀行独自の制服を着ていましたが、東京銀行では、総合職という選ばれた女性は私服で勤務していました。日比谷支店には一人しか居なかったと思います。その一人が、私の研修担当として業務をあれこれ教えてくれたTさんです。とても聡明な方で、その後、ロンドンかニューヨークへ転勤されたと聞きました。Tさんには私の駆け出し時代に、銀行員の基本を沢山教えて頂きました。キャリアウーマンの見本のような颯爽とした女性でしたから、若造から見ると眩しい位のオーラがありました。業務の一つとして、当座預金の出入りを記帳する器械の操作もその時に教えてもらいました。普通預金や当座預金の元帳は、レジャー(ledger)と呼ばれていました。その器械に、レジャーを装填して、当座預金を記帳する時と普通預金の時とは別々のパーツを固定します。長さ1メートルほどの金属バーですが、そのバーに幾つかのピンが付いており、機械とピンが接触する位置によって、預金の前日残高、当日の出金(デビット)と入金(クレジット)、そして新しい残高がレジャーに印刷される仕組みです。バーが左右に動き、機械とピンが接触する時には、ガチャガチャとさながら小さな町工場の工作機械のような音が響きました。現在では、すべてコンピュータのソフトにより、目に見えない形でデジタル帳簿が作られますが、あの当時の器械の動きを眺めていると、それだけで預金の出入りが簡単に理解できるという、実にアナログの原点のような器械でした。その頃、銀行や商店などの現金のやり取りの場で一番使われていたのが、N.C.R.(National Cash Register)と呼ばれたアメリカのレジスター会社でした。さて、年が明けて1972年になると、いよいよ支店開業のカウントダウンが始まりました。

 

ブラジル銀行東京支店開業

ブラジル銀行東京支店は1972年2月17日に開店しました。東京にはまだ外国銀行の支店がそれ程多く進出しておらず、確か14番目の進出だったと記憶しています。その他には、バンク・オブ・アメリカ、ファースト・ナショナル・シティ・バンク、ドイツ銀行、スイス銀行、香港上海銀行、パリ国立銀行、ウエルズ・ファーゴ銀行、バンカーズ・トラストなどがありました。東京支店は丸ノ内3丁目4番1号、新国際ビルの1階の一部と2階の一部を占めて営業を始めました。正確な面積は忘れましたが、かなり大きなスペースでした。店内に1階から2階に上る折り返しの空中階段があり、デザイン的に人目を引くものでした。また、ブラジルを代表する銀行ですから、ブラジルから取り寄せたブラジリアン・ローズウッドを店内の壁面に惜しげもなく使った内装でした。ですから、日本有数の銘木業者が「銘木カタログ」に使いたいので、銀行のブラジリアン・ローズウッドの写真を撮らせてくれと頼みに来たりしました。赤褐色で大変に木目の美しい材木ですから、建築の内装、高級家具や楽器の材料に沢山使われました。その後、1992年には、ブラジリアン・ロー・ズウッドが「絶滅の恐れがある種」(endangered species)として、ワシントン条約の付属書1に登録され、国際的な取引に厳しい規制が課せられました。東京支店は数年前に丸ノ内から五反田に移転しましたが、その時、あの大量に内装に使用されていたローズウッド材はどのように処分されたのでしょうか?今でもとても気になります。支店の内装は、それ以外にも床に沢山の大理石を使用し、カウンターの後ろにはブラジルのアーチストによる大きな鉄のオブジェが壁代わりに置かれ、銀行店舗と言うよりは、ホテルのロビーのような風情がありました。

 

東京支店開設記念パーティ

1970年代は日本もブラジルも景気が良かった時代です。開店記念のパーティも、流石はブラジル銀行のパーティだと言って頂けるような場所で執り行いたいという意向が本店にも支店にもありました。ですから、当時、会場となるホテルの数も今ほど多くありませんでしたし、その中でも千人ほどのお客様を呼べ、且つ交通の便の良いホテルは数えるほどでした。結局、格式なども考慮し、ホテルオークラが選ばれたようです。私は新人でしたので、当時の招待客にどれほど著名な政財界の方が来られたかは知りません。しかし、ブラジルからは、当時の総裁ネストール・ジョストを始めたとした銀行の首脳陣、その他、当時既にスーパー・ミニスターとして政界重鎮であったデルフィン・ネット大蔵大臣などが参列されたと記憶しています。私はパーティ当日、羽田に到着するブラジルからのメディア関係者を迎えに行く役割を与えられていました。飛行機の到着が遅れてホテルオークラには開宴ぎりぎりの時間になんとか間に合いました。大変に賑やかで豪華な開店披露パーティでした。日本もブラジルも明るい未来に確実に向かっているということを参加者の全員誰もが感じていた、とても良い時代でした。私も胸に花飾りの名札を付けて貰い、ちょっと一丁前の社会人になった気分がしました。ブラジル銀行のロゴが入った氷柱がブッフェテーブルの中心に置かれ眩しかったのを覚えています。一方、銀行の支店には関係各方面から、花屋さんでも開けそうなくらい本当に沢山の花束が届き事務所を埋め尽くしました。あれ程沢山の花束に囲まれたのは、あの時が最初にして最後のことでした。

「続く」
連載85:ブラジル銀行日本支店開設物語 その2