執筆者:日下野 良武 氏
(ブラジル日本語センター顧問)

日本語教師の養成・研修や日本語学習生徒育成などを目的に活動する「ブラジル日本語センター」がサンパウロ市にある。創立は1985年。主な活動としては日本語教師養成、全伯および汎米日本語教師合同研修や日本語能力試験のほか、日本語学校学習生徒には日本語学校作品コンクール(作文、絵画、書道など)、国内合宿「日本語ふれあいセミナー」や日本実体験の「ふれあい日本の旅」など年間20以上の事業を行っている。

筆者が同センターに関係し始めたのは1998年。以来、長く日本語学習生徒向けの事業にかかわってきた。低学年層向けの学習企画は今後も末永く継続したい。15歳ごろに学んだ日本文化体験は一生の思い出になるからだ。「日本語ふれあいセミナー」は毎年1月の“夏休み”に3泊4日の合宿を実施、今年で19回を数える。「ふれあい日本の旅」は西暦偶数年の7月の“冬休み”を利用して1か月間約30人が自費参加する。

「日本語ふれあいセミナー」(07年1月)、ブラジル北海道協会会館での会場風景

思えば20年ほど前の話になる。2000年到来を前に「見直し委員会」が同センター内に設置され、将来の展望や新規事業について話し合った。当時、筆者は教育担当副理事長。熟議の末に始めたのが「日本語ふれあいセミナー」だった。各日本語学校から学習生徒約120人が一堂に会し、合宿中に相互親睦を深めるのが目的だ。当初の会場はサンパウロ市のブラジル北海道協会会館。初めて親元を離れて過ごす生徒が大半だった。日系企業の工場見学、日本人高齢者施設訪問では童謡を合唱、最後の夜は全員でキャンドルサービスを楽しんだ。子供の感受性には目を見張るばかり。別れの日にはもう旧知の友達関係になる。解散後はメールでの交流を続けているようだ。

 

この企画を延長して、子供たちを日本へ連れて行き目、耳、口、鼻、体の五感で先祖の国の実情体験イベントをやろうとなり実施を決定した。しかし、だれが全体スケジュールをまとめて日本側と折衝し企画内容を詰めるのか。最終的に責任を取らなければならないのは発言した人間。結局、筆者が事前打ち合わせのために日本へ向かった。

 

個人的な人脈を頼りに北海道から九州まで駆け回り協力をお願いした。参加者に全国旅行をさせたかったからだ。一口に日本を案内するといっても北海道と九州では土地、風景、料理、言葉も文化も異なる。協力者にはこう言って頼み込んだ。「私の後ろには将来の日伯交流になくてはならない15歳前後の子供が一緒に頭を下げてお願いしています。きっと両国のためになる。よろしくご理解ください」。

 

第1回は試しに05年の7月に決めた。しかし、だれが引率するのか。言い出しっぺはつらい。考えた挙句、「私が行く」と宣言したが一人では自信がない。子供の引率経験もない。そこで、同じ教育担当副理事長で指導力抜群の日系三世の日本語教師M先生に相談した。二つ返事で引き受けてくれた。

 

出発前のサンパウロ国際空港ロビーは見送りの人であふれ子供たちは皆笑顔ではしゃいでいた。が、1か月後の帰国時の空港では表情が一変する。

 

約1か月間の旅程は大学・高校訪問やホームスティー、移民の出発地の神戸港や横浜港、明治村、観光地巡り、国会見学、デイズニーランド見物など盛りだくさんだった。京都と奈良では鹿に煎餅をやりながら歓声を上げ、大仏の大きさには目を丸くした。東京では秋篠宮様邸を訪問、ご家族でお迎えいただき激励のお言葉を賜った。第6回(2016年)まで毎回訪問できたのは秋篠宮ご一家様のご理解によるものである。

 

子供たちは全員元気でサンパウロ国際空港に着く。この時に驚いたのはわがまま放題で生意気盛りの生徒たちの態度だった。「お母さん、お父さんありがとう!」。この短い言葉の後で抱き合い泣きじゃくる。皆の顔はクシャクシャだ。「こんなに子供に感謝されたのは初めて」という親もいた。帰国後、秋篠宮ご一家様との記念写真を見た祖父母や両親が大喜びしたそうだ。この企画実行で家族の絆がより深まったに違いない。引率したのは第2回までだった。その後は若い先生にお任せしている。

「ふれあい日本の旅」(05年7月)秋篠宮様邸訪問時の秋篠宮ご夫妻、眞子様、佳子様との記念写真

第7回は20人ほどで今年7月に実施される。今回は新しく京都外国語大学訪問も予定に入っており、ポルトガル語学科の学生との交流も計画中だ。すべては日本側の皆さんのご理解によるもの。感謝のほかはない。しかし、滞在1か月間の全費用が7千ドルほどかかれば参加者数にも限りがある。費用の半額ぐらいを援助できる旅行にすればもっと人数が増えるのは確実だ。

ブラジルにおける日本語教育は110年前の第1回「笠戸丸」移民から始まったといえる。その後、移民一世の地味な努力が実を結び今日まで続いてきた。当初、日本へ帰るかもしれないという思いからブラジル生まれの子供の日本語教育に力を入れた。どんな過疎農地に配耕されても親たちが協力し合い学校を建てた。教科書も兄姉のお下がりをボロボロになるまで使ったというエピソードも耳にした。

 

ブラジル日系社会はめまぐるしく移り変わり現在3・4世時代を迎えている。ブラジルにおける日本語教師数は約1,200人、学習者数は2万3千人といわれる。しかし、近年足踏み状態が続き進展がみられない。これまで教師の大半が日本人女性で、一家を支える職業とは言えない環境だった。これからはポルトガル語を母語とする先生主導による日本語教育の切り替えが必要だ。いかに優秀な教師を育てるかが課題だ。指導力のある先生のもとには生徒が集まる。早急に2・3世の教師養成に取り組まなければならない。

昨年4月、日本政府による日本文化の発祥センター「ジャパン ハウス」がサンパウロ市にオープンした。開所式にはテメル大統領、アルキミン・サンパウロ州知事、ドーリア・サンパウロ市長、日本側からは麻生太郎副総理らが出席した。

 

「日本語ふれあいセミナー」(07年1月)、ブラジル北海道協会会館での会場風景

印象に残ったのはテメル大統領の慶祝の言葉だった。「日本人・日系人は教育程度が高く、謙虚で寛容な文化を持っておりブラジルのためになっている」。お世辞半分にしても褒めたたえてくれたのに感謝したい。大統領の祝辞は日本移民と日系人への思いと言っていい。日本語教育がブラジルだけでなく日本にとっても重要なのは言うまでもない。

 

世界最大の日系人約2百万人が住むブラジルでの日本語教育を軽視してはならない。今取り組まなければ一世紀以上の長い年月の努力が消滅の方向へ向かう。両国は地理的には最も遠いが心情的にはこの上なく近い国だ。「後悔先に立たず」。日系社会と日本国とが緊密に連携し何らかの手立てを真剣に考えなければならない時が来ている。教育にはカネと時間がかかる。一朝一夕に事は運ばない。「継続は力なり」という名言がある。未来永劫、両国のため恒久的に続けることが大切だ。深くて広い意味を持つ日本語の「もったいない、心配り、気遣い、思いやり、がんばる」などは、そのまま永遠に外来語としてポルトガル語の中に残していきたい。