会報『ブラジル特報』 2010年7月号掲載
文化評論

                岸和田 仁(協会理事)


「ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスとゴダールの二人がシネマ・ノーヴォを創始した。この映画運動は、ヨーロッパの諸矛盾にブラジルの諸矛盾が重なり合って出来たものだ。イタリアのネオレアリスモにとってのテーマは、社会であった。ヌーヴェル・ヴァーグにとってのテーマは、映画であった。

 シネマ・ノーヴォにとって、テーマはブラジルにおける世界の不在であった。」と断言したのは、映画監督としても批評家としてもポレミックな存在であり続けたグラウベル・ローシャ(1939〜81年)であった。

 シネマ・ノーヴォと呼称されることとなるブラジル映画革新運動が国際的な場で認められたのは、ネルソン・ペレイラ監督の『乾いた人生』(1963)とグラウベル・ローシャ監督の『黒い神と白い悪魔(太陽の土地の神と悪魔)』(1963)が、1964年の第17回カンヌ映画祭に出品され、共にフランス映画界の絶賛を浴びたからだ。ノルデスチの旱魃難民家族の干からびた人生を活写したグラシリアーノ・ラモスの原作をローアングルからの目線で映像化した秀作が、成立したばかりの軍事政権の検閲を通過して一般劇場公開され得たのは、ひとえに“カンヌという外圧”のおかげであったといってよい。

 欧米で話題となった流行文化を導入ないし模倣するスピードにおいては世界第一級の日本なのに、このカンヌ話題作の上映に関しては何故かまったく遅れてしまった。日本でこの『乾いた人生』をみることができたのは1999年の山形国際ドキュメンタリー映画祭においてであり、ネルソン・ペレイラ監督の主要作品がまとめて公開されたのは、翌2000年の「ブラジル映画祭2000 ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス特集」が初めてであった。この映画祭のカタログ作成に参加した筆者としては、実に歯がゆい思いをしたものだ。

 『奇蹟の家』(1977)、『監獄の記憶』(1983)、『大邸宅と奴隷小屋』(2000)、『ブラジルのルーツ』(2002)などの作品を発表してきたネルソン・ペレイラ監督も現在81歳、既に文芸界の最高権威ともいえるブラジル文学アカデミーの会員にも選出され、普通の人間なら引退して回顧録を書いていてもおかしくない年だが、まだまだ映画作りの現役だ。現在、評伝的ドキュメンタリー『アントニオ・カルロス・ジョビン』の最終段階に取りかかっており、10月完成の見込みだ。

 そのブラジル映画界のゴッドファーザー的長老監督が、今回4度目の来日をした。

 今回は京都外語大学の住田育法教授の招聘によるもので、京都と東京(於:アテネフランセ、5月21日〜6月3日)で主要作品の上映とトークショー、大学(京都外語大学と東京外語大学)での講演などが行われたが、あらためて、このネルソン・ペレイラ監督の存在感の大きさを認識させられたのであった。

 筆者も9年ぶりに再会し、1時間限定で監督とインタビューしたが、本当に元気で知的好奇心も全く衰えていないジイサンに脱帽してしまった。質疑応答で多くの疑問が解消したが、ここでは一つだけ紹介しておきたい。

 「ネルソンは、バラバラになった欠片をまたつなぎ合わせたり、異なった人たちを一緒にまとめる際、特異な政治的才能を発揮する人だ。(中略)我々が過激な方向に行こうとする度に、彼がやってきて、我々の運動が内部対立したり、おかしな方向に行かないよう、収めてくれたのだ。(モデルニズモを宣言した有名な)1922年の近代芸術週間は一週間すらももたず、二年後の24年には参加者全員が喧嘩ばかりしていた。ネルソンが我々の運動の内的な均衡を保ってくれたのだ。」と述べたのは、カルロス・ディエゲス監督だが、この指摘についてのネルソン監督の意見を求めたところ、「それは年の功というもの。10歳も物理的な年齢差があったこともあるし、政治運動や労働運動の経験もあって多様な人間たちをまとめ、一つのベクトルに向けさせる経験知があったから」とニコニコしながら返答されたのには、正直感動した次第だ。

 シネマ・ノーヴォという映画運動が継続したのは、理論もあったが、ヒトのマネジメント力を有するネルソン・ペレイラがいたからだ、といい切ってよいだろう。さらなるご健勝とご活躍を祈念している。