会報『ブラジル特報』 2010年7月号掲載
— 国際的労働力の移動現象から —

               矢持 善和(天理大学 国際文化学部教授、協会理事)


世界経済危機からの影響からも脱したといわれる経済成長を背景に、2014年のワールドカップ、さらには2016年のオリンピックの誘致に成功したブラジル。すでにリオデジャネイロでは、2016年までに総額233億レアル(約125億ドル)もの予算をかけて、地下鉄網の拡張やバス専用道路の建設をはじめ、2つの空港の整備、環境汚染の改善、さらにはロドリゴ・フレイタス湖やマラカナン・スタジアムなどのオリンピック施設の改築やオリンピック村の建設、リオ港の整備などの事業に取り組もうとしている。

 これら一連の事業の中でも、今年の6月に入札が決定されるANTTの高速鉄道計画は、経済・政治などの側面に限らず観光事業の側面からも大いに期待出来るものになると思われる。リオデジャネイロ〜サンパウロ〜カンピーナスの約510kmを結ぶ高速鉄道は、ヴィラコッポス、グアルーリョス、ガレオンの3空港に加えて、大聖堂のあるアパレシーダ・ド・ノルテなどの観光都市も含まれるという。勿論、日本が入札出来ればいうことはないのだが、いずれにせよ、ラテンアメリカ初の高速鉄道の建設によってブラジルは大きく進展するに違いない。

 しかし一方で、土地無し民運動を含む農村の問題や、ファヴェラードスを含む都市部における貧困の問題などブラジルは、まだまだ改善を成し遂げなければならない問題が数多く存在する。その中でも、国際的労働力として海外へ移動するブラジル人移民の存在は、本国への送金によってブラジルの外貨獲得の上に大きく寄与しているものの、その実態があまり一般的には知られていない。

.人々の海外への移動について

 最近における人口移動現象は過去のものとは違い、移動する人々は地球的規模での移動を頻繁に、しかも大量に行うようになってきた。それは、規制緩和が進められたことで新自由主義が浸透し、より活発化した資本のフローが地球規模で展開することになったという現状があり、この経済変動は、いうまでもなくヒト・モノ・カネのフローを活発化させ、多くの地域にこれまで以上の歪みを様々な局面において生じさせることになった。そしてそこには、労働者のフローが引き起こす移民問題やそれにともなう国家の労働者政策、さらには移民した人々の当該諸国での定住の問題と子供たちの教育の問題など、21世紀の世界を論じるうえで重要な問題群を孕んでいる。

 国連経済社会理事会人口部は、2004年にすでに1億7,500万人が国際的規模での移動、つまり移民として他の国への移動を行ってきたとも付け加えている。

 しかし、ここで問題視されるのは、移民群を不法に海外に送り出す経費を仲介・搾取する移民斡旋ブローカーの存在である。もちろんラテンアメリカでも多くのケースが今までもみとめられているが、多くの女性や子供達をも密輸の対象とする彼らの犯罪を取り締まる法案がすでに国連でも決議され、今後どのような方向性が展開されるのか注目に値する。

 すでに多くの方はご承知だが、例えば、メキシコ政府も1990年代以降になってNAFTAを機に在米領事館の増設、米国内の同郷会(HTA)の組織化、国外在住者の不在投票法案の可決など矢継ぎ早に政策を打ち出している。もちろん移民の送金による外貨獲得が目的であることはいうまでもないが、米国内におけるメキシコのプレゼンス(政治的にも)を高める意図によるものであることは明らかである。

 また一方、2006年のブラジル連邦議会の移民調査委員会最終報告によれば、2001年度に合法ビザによって国外へ移住したブラジル人の数は、アメリカ合衆国には799,203人、パラグアイへは442,104人、日本が224,970人、ドイツ86,283人、ポルトガル51,590人、イタリア37,121人、アルゼンチン35,051人、その他の国々へは211,573人となっており、総数1,887,895名と発表している。しかし、実際には2005年4月6日付けの“VEJA”誌の記事にも掲載されているように合法、非合法に関わらず国外に長期滞在するブラジル人総数は、アメリカ合衆国には180万から200万人を数え、パラグアイには45万人、ヨーロッパには20万人を越えるだろうと推測している。つまり連邦議会の発表とは違って、上記の雑誌記事によれば、日本に居住する(二重国籍者、永住ビザ取得者を含む)合法的に居住するブラジル人約30万人(2009年度以降の数字は、これよりも減少していると思われる)を含め、実に300万人のブラジル人が国外に長期滞在していると推測されるのである。

 ブラジル連邦議会移民調査委員会最終報告によれば、メキシコの政策同様に、それまでブラジル国外に不法滞在するブラジル人の存在を違法と定めていた法律を改正し、2005年からブラジル国外に合法、否合法に関わらず滞在するすべてのブラジル人の公民権を認め、移民を仲介するグループへの取り締まりを強化し始めた。また、それによってブラジル中央銀行を通してのブラジルへの送金の自由化を促進し、海外に長期滞在する移民群の存在を合法化することによって外貨獲得への道を大幅に拡張したのである。

.ブラジル人の国際的人口移動

 ブラジルにおける国際的人口移動現象は、グローバルシティーの存在に象徴される先進国側と開発途上国側間の社会的、経済的不均衡によってもたらされた。

 サーレス(UNICAMP教授)の調査によれば、1993年の段階でアメリカ合衆国のボストンに住むブラジル人のおよそ45,000人がミナスジェライス州のゴヴェルナドール・ヴァラダーレス市の出身者であったという。この数は同市の約20%の人口に相当する。この小さな市では、年間約1,000万から4,000万ドルもの金額がボストンからそれぞれの家族に送金されている。

 サーレスは、この状況の中に国際的な情報収集ネットワークがあり、さらに偽造パスポートの作成から不法入国の諸手続きまでを行う違法な移民斡旋業グループ(通称コヨーテ)の存在を指摘している。彼らが斡旋する方法は、偽造ビザの作成によっての入国、飛行機や船、メキシコの国境近くからパラシュートで入国、自転車や徒歩での入国などである。

.アメリカ合衆国をめぐるメキシコ人とブラジル人


 1988年前後からアメリカ合衆国への合法的なビザ取得の条件が極めて困難になり、グループが斡旋する不法入国を試みるブラジル人が急増した。2005年5月11日付けの“VEJA”誌によれば、メキシコ政府はアメリカ合衆国の要請により、ブラジル人に対してメキシコへの入国に際してもビザ取得を義務付ける方向に向かっているとあった。(現在ではビザ取得が義務付けられているが、コヨーテの消滅については不明である) 2005年4月だけで4,802名のブラジル人がメキシコの国境からアメリカに不法入国し、逮捕された。さらに同誌によれば、1月から4月までの間に国境沿いで逮捕されたブラジル人は12,311名になったと記載されている。

 2005年、ブラジル連邦議会のクリヴェラ議員(PL)は16日間にわたってアメリカ合衆国の刑務所をめぐり、ブラジル人抑留者との意見を交す機会を得た。そこで服役するブラジル人らは「コヨーテ達はメキシコまでの旅費を仮払いし、もしアメリカ合衆国への入国を果たせたら報酬として1万ドルと旅費をブラジル人から受け取ります。もしブラジル人が捕まったら、刑務所の業者から報酬として100ドルを受け取ります。コヨーテ達には損はないようになっているのです」と訴えたと証言している。つまり、上記の第三者グループとはアメリカ合衆国政府の刑務所内にあるシステム(業者)を最大限活用し、コヨーテ・グループと共同で、ブラジル人が不法入国の際に逮捕されることで利益を得ている国籍不明(アメリカ人なのかメキシコ人なのかはここでは明らかにされていない)グループであると述べている。

.最後に

 しかし、これら一連の人口移動の問題は、実際には「資本の国際化」の進展とともに労働市場の国際化、さらに世界労働市場の形成という世界資本主義の新しい構造が生み出してきた問題であるように思われる。

 ただ、個人的にはコヨーテの壊滅をも考える事も大切だが、本当にブラジル政府が求めるべきは、この経済成長を足がかりとして、多くの貧困層のブラジル人にさらなる雇用機会を生み出し、生活水準を改善し、人々が他国へ移動する必要性をなくすことではないだろうか。