会報『ブラジル特報』 2010年9月号掲載 進出企業シリーズ第8回 河本 暢夫(東洋紡ブラジル社長)
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「東洋紡百年史」によれば、東洋紡のブラジルとの関わりは、第二次世界大戦前に遡ります。東洋紡を含めた紡績3社・綿花会社(のちの総合商社)・商社等の出資により、「日伯綿花株式会社」(初代社長・平生釟三郎氏 [注])が1936年に大阪に設立されました。この会社がブラジル法人を設立し、ブラジルでの綿作農民(大半は日系移民)への金融や繰綿工場の運営をし、ブラジル綿花の日本輸入を飛躍的に伸ばしたことに始まります。 [注] 平尾釟三郎については「日本ブラジル中央協会創立と平生釟三郎」 栗田政彦 本誌『ブラジル特報』2010年7月号参照。 大戦後の1955年には、東洋紡は単独・直接出資により当社 東洋紡ブラジルを設立しました。これは戦後の日本の紡績業の海外進出の先陣といわれています。生産拠点は当地紡績会社を買収する方法をとったため、早期に事業を立ち上げることができましたが、その生産設備の整備や改修のため多数の技術者を、また機械オペレーターの指導には女子指導員も日本から派遣しています。また当時の日本の外国為替管理は厳しく、会社買収代金の送金を3年分割にしたり、運転資金の送金には東洋紡ニューヨークを経由させたりと様々な苦労をしています。 1962年には、当社の綿糸の消費者である織物業者が集中するアメリカーナ市に新鋭紡績工場を建設、「ブラジルの奇跡」といわれる高度経済成長の流れの中、紡績工場を段階的に増設・織物工場を新設、綿糸からポリエステル綿混糸への進出も果たし、ほぼ現在のアメリカーナ工場の姿となりました。もちろん、アメリカーナ市への進出には同市の熱心な誘致もあり、工場前には、Praça da Toyobo, Avenida Toyobo の地名も授かりました。 1970年代には、東洋紡の積極的な海外事業戦略のもと、染色会社の買収、ニット分野への進出のための長繊維紡績会社の買収、合成皮革製造会社の新設が行われ(フィルム事業の新会社も設立しましたが、ブラジルの工業奨励制度の変更があり、これは休眠会社となりました)、一方、当社も製品事業に進出、自社ブランドによるポロシャツの製造、欧州有名アパレルの商標使用による製造、さらに靴下事業へと多角化を進め、ここブラジルに東洋紡グループを形成するまでに拡大しました。 しかしながら、「失われた10年」といわれる80年代には、ハイパーインフレの影響も大いに受け、また買収会社はその後設備老朽化も進んだこともあり、これらの事業はことごとく撤収せざるを得なくなり、現在は本業の紡織事業と20年前に始めた生化学事業(酵素)を残すのみとなりました。
東洋紡は、繊維から非繊維へ、さらにスペシャリティ分野への事業転換を図っており、直近の連結決算では衣料繊維の売上高比率は29%にまで減少しました。 当社はブラジルで55年、この間上記のような栄枯盛衰を見ましたが、この55年の事業基盤を生かし、変身をとげつつある東洋紡のスペシャルティ素材の、成長著しいこのブラジル市場での展開を目指して、今また次なる一歩を踏み出そうとしています。 |