執筆者:岩尾 陽 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

「週に三日勤務の銀行員」

6回続けてきたエッセイもそろそろ後に差し掛かりますので、少しプライベートなお話も混ぜながら残された紙面を埋めたいと思います。

さて、1980年代から90年代にかけて、特に外資系銀行に勤めていた為替ディーラーなど特殊な仕事に就いていた人々の間に、所謂、一匹オオカミとしてサラリーマンを辞めて独立し、銀行と個人的にサービス契約を結んで報酬を受け取る方法が流行った事がありました。私は、以前のエッセイで書いた通り、80年代初頭の若い頃にチーフディーラーをした事があります。当時、業界ではバンカーズ・トラスト銀行の花形ディーラーだったHさんや、今は国会議員をしているモルガン銀行Fさんなどのスーパースターが活躍した頃です。私はチーフディーラーを3年間やりましたが、同時に銀行全体の資金繰りを担当する資金部長でもあり、一匹狼のスペシャリストと言うよりは、もう少し管理職的な立場でもありましたので、上記のように独立するという事は考えもしませんでした。

しかし90年代後半に、どうしても銀行業務以外にも自分の能力を試したいと思い、金融とは全く関係のない日用商品の営業販売の仕事を始めました。勿論、銀行では支配人として業務全体を見ていましたから平日の9時から5時までは当然ながら、銀行業務に献身し、すでに前のエッセイに書いたように、新しい店舗開設など忙しい日々を送っておりました。 従って、自分の始めたビジネスは、今までお付き合い等で使っていた夜の時間と、完全に中毒を起こしていた週末のテニスを段階的に減らすことで時間を確保しました。銀行には何の不満もありませんでしたし、自分でもそれなりの貢献をしているという自負もありました。 しかし時と共に、これ以上個人の仕事を増やすと結果的に銀行に迷惑を掛けてしまうだろうと言う思いで、1998年に銀行に辞表を提出しました。しかし、銀行からは辞表を受け取って貰えません。そこで、私は、個人の仕事は平日の夜と週末にやるので、辞職が認められないのならば、少なくとも月曜日と金曜日は銀行を休ませて貰えるようにお願いし、それが認められました。その時点で支配人を返上し、半年ベースの契約アドバイザーとして週三日の銀行員生活が始まりました。火曜日の朝、銀行に顔を出し、木曜日の午後5時を回ると、「では皆様、また来週!」という次第です。

このようなパターンの生活を数年続けました。当時、私は品川区のJR線路に近い所に住んでおりました。 週末、地方に出張し、月曜の朝8時頃に線路際で愛犬の散歩をしていると、ギュウギュウ詰めの満員電車が横を通り過ぎます。

日曜の夜中に仕事から戻ってきても、何か月曜のそんな時間に犬の散歩しているのが申し訳ないような気持になった事を思い出します。いずれにしても、こうした勤務体系を容認してくれたブラジル銀行の度量の大きさや、温かく家庭的な雰囲気は本当に有難く、当時の仲間たちには感謝しかありません。

以前に書いた通り、その勤務体系になった1998年に群馬支店をオープンし、その後も長野、茨城、岐阜に新拠点開設の準備もしておりましたので、週三日はあっという間に過ぎていきました。 ある日、もう忘れてしまいましたが、何か大きなイベントがあり、ブラジル本国から銀行の総裁が数日間来日する機会がありました。 ブラジル銀行では、かつて中央銀行であった頃の名残でしょうか、トップを頭取と呼ばず総裁と呼んでいました。

その時に、毎日、総裁の滞在するホテルと銀行の間を送迎する銀行の運転手が、こんな事を私に話してくれました。「岩尾さん、毎日の送迎車中では、いつも総裁から岩尾さんをフルタイムに戻すようにと話し合ってます。多分、その内、銀行からフルタイムに戻るように要請があると思いますよ。」という事でした。

 

その言葉通り、数日後、私にフルタイムで支配人復帰の話がありました。 私の個人的な仕事はそれなりに順調でしたから、私は取引先に銀行へのフルタイム復帰の是非を打診し、賛同を得ましたので、久し振りに週5日のフルタイム勤務の支配人に復帰しました。

ついでに、それまでは6か月契約のアドバイザーでしたが、それを何度も書替えるのが儀式化して面倒なので、3年ごとの書替えに変更して欲しいとの要望もありました。有難いと言えば有難いオファーでありました。

「ブラジル向け送金の証券化。 現金書留のツームストーン」

2000年代に入って、金融界では新しい資金調達手段として、さまざまの資産(アセット)の証券化、所謂セキュリタイゼーションがブームになった事がありました。ブラジル銀行東京支店には、証券化出来そうな特別な資産はありませんでしたから、それは他所事のような話でした。 しかし、ある日突然、ブラジル向けの送金を証券化したらどうだろうと言うアイデアが浮かびました。当然ながら、普通は証券化できる自前の特殊なアセットがなければ、そのようなオペレーションは不可能です。送金業務というのは、送金依頼人のお金を一時的に預かり、ブラジルの家族等の受取人にお届けするという事ですから、その資金の所有権は言うまでもなく依頼人あるいは受取人に属します。ですから、そのお金を証券化する事はとんでもなく荒唐無稽な話です。例えば、こんな話かもしれません。 佐川急便かクロネコヤマトがある時、複数のお客から預かった大量の荷物を担保にして証券化し、何億円か何十億円を調達するとしたら、当たり前ですが、荷物の所有者は「人の荷物で資金調達とはけしからん!」という事になるでしょう。しかし、当時の我々は若く、チャレンジ精神も旺盛でしたから、まずはやって見ようという事になりました。早速、ニューヨークのアグレッシブな著名投資銀行との交渉が始まりました。

早速 初の相手が来日し、どういったオペレーションなのかを調べに来ました。銀行ではポルトガル語が主言語ですが、この時は私も、部下が作成してくれた英語のパワーポイントを使って、アメリカの金融チームとの交渉が始まりました。 パワポのスライドでは、在日ブラジル人労働者の人数、その地理的分布、彼らの平均所得、平均貯蓄額、そして肝心のブラジル向け送金額などを説明しました。 説明を聞いたアメリカチームはニューヨークに戻り資料を検討しましたが、当然と言えば当然ながら、一週間後の彼等の回答は、送金という「他人様の財産」を担保にした証券化には法的正当性が無く、証券化は難しいという結論でした。しかし、我々が乗り掛かった船はもう岸を少し離れていました。そして2番目の金融機関に提案するチャンスが訪れました。前回と同じようにビジネス・プロモーションチームに対して、送金の全体図を説明しました。前回の反省点も改善し、より詳細な説明が出来たと感じました。一週間後にニューヨークから、当該証券化を前向きに検討するというニュースでした。

それからの米国投資銀行のアクションは本当に素早く鮮やかでした。直後に数名からなる弁護士チームが来日しました。彼らにも同じような説明をしました。一週間後に、法律上の問題はクリア出来ましたとの報告がありました。何をどのようにして、送金の資金を証券化の担保として承認できたのかは知りませんが、我々には嬉しいニュースでした。 そして、その直後に、今度は世界 大の債券格付会社のチームが東京に派遣され、我々の考える送金資金の証券化の債券格付けの為の調査を行いました。その結果、投資適格の格付けを得て、ニューヨークで2億米ドル、日本円換算で約200億円相当の債券発行による資金調達に辿り着きました。

投資家への信用担保としては、年間数十億ドルに上るニューヨーク支店経由の送金額から、証券化金額相当の資金フローをニューヨークにあるエスクロー勘定に常時残す事でクリア出来ました。ところで、公社債発行時に、その債券の種類、発行額、表面利率、期間等を新聞等に発表しますが、それをその記事の形から墓石(ツームストーン)と呼びます。同様に、社債などの発行記念品として、デスクに飾るアクリル製の盾を作ります。例えば、フィアットが発行すれば、アクリルの中にはフィアットのミニチュアカーが飾られますし、ANAやJALであれば、中身は飛行機のミニチュアです。我々の債券のツームストーンはミニチュア化された現金書留の封筒でした。嬉しかったです。提案時には皆が笑った。(They all laughed!)、あの現金書留封筒です。

 

「オフィス犬」

もう一つ、少し個人的ですが、ブラジルあるいはブラジル銀行らしいお話を。

昨今、米国などではアマゾンやグーグルなどを筆頭に、職場で犬を放し飼いにする企業が増えています。犬を職場に置く事により、職場の雰囲気が柔らかくなり対人関係のストレスが大幅に軽減され、仕事の効率もアップするというような効果があるという話です。 ある日、私が休暇を取っている時に、たまたま東京支店に自分の愛犬アミーを連れて行きました。その時は、品川から汐留に住所を替えていましたので、車で、あるいは徒歩でも簡単に丸の内のオフィスに行けました。その時に、若い行員が「岩尾さん、ちょっとアミーちゃんを貸してください。」と言って、アミーをどこかに連れて行きました。30分位してその若い行員が、正社員が所持している社員証とそっくり同じ、つまりID番号、写真、名前や有効期限などを載せたIDカードと一緒にアミーと戻ってきました。

以来、私は時々銀行にアミーを連れて行きました。私は二階の部屋で執務していました。一階のお客様出入り口は午後3時までは開いていますから、それまではアミーは私の部屋で過ごし、3時を過ぎると銀行中を走り回っていた事があります。お昼には丸の内中通りを一緒に散歩したり、楽しい思い出です。

当時はオフィスドッグの事なども、今ほど認知されていませんでしたから、職員の一部には違和感があったかもしれませんが、概ねアミーは歓迎され、職場の雰囲気の向上に少しは貢献出来たかも知れません。前述の週三日勤務の事も含め、一般的には硬い仕事と思われている銀行で、とてもブラジルらしい柔軟な職場環境や勤務スタイルが出来た事を、ブラジル馬鹿の私はほのぼのと懐かしく思い出すことが出来ます。良い悪いではなく、単純にそれを可能にしてくれたブラジルの大らかさ、厳しいビジネス環境の中でも楽観主義を共有できた同僚達に感謝しています。

「2004年8月銀行退職」

2003年8月、1970年代から親しくして頂いていたブラジルに現地法人をお持ちの会社経営者から、その現地法人社長としてお招きしたい旨の申し出を受けました。当時、その現地法人は、ブラジルに30年以上の歴史があり、7工場に従業員2,100人を擁していました。(これだけの規模でしたが、ブラジルの日系企業社会での認知は驚くほど低い物でした。認知をされる事が本意では無いのでどうでも良かったようです。今日現在は規模を大幅に縮小しているようです。) ブラジル一筋の私ですから、いつかはブラジル現地で企業の経営をしてみたいとは思っていましたし、そんな歴史があり、業績も良かったその現地法人は魅力のあるものでした。しかしながら、その経営者と親しくさせて頂いていた関係から、私の息子(彼も私の影響を受けてブラジルの大ファンです。)が既にその会社に日本からの駐在員として勤務していましたので、残念ながら申し出をお断り致しました。しかし、お誘いには強い熱意が込められており、私も「何時かはブラジルで」という気持ちもありました。 息子の身になれば、勤務先の社長が実父であるというのは、あまり好ましくない事でしょうから、私はお断りしましたが、経営者からは、同社は世界中に現地法人を持ち、息子のキャリアなどに関しても必ずプラスになるよう善処する旨のお話でした。

 

そこまで言われたら、私自身もブラジルでの企業経営への思いが一層強まりました。しかし、ブラジル銀行も突然放り出すわけにも行きませんので、以下の通り決めました。それは、現地法人社長就任は1年間待って貰う。 銀行には、私は1年後に退職するので、それまでに引継ぎを宜しくお願いしたい、という事です。1年後の2004年8月に退職し、9月にブラジルに向かいました。その後ブラジルでは滑ったり転んだりの紆余曲折もありましたが、その点はこのエッセイの趣旨ではありませんので省力致します。

「VERDE AMARELO (ヴェルデ・ アマレロ)」

この連載エッセイ寄稿のお話を頂き、1971年の駐在員事務所時代から、7店舗に拡張までの30数年を走り書きで振り返ってみました。楽しい事、辛い事、ブラジルの良い時代から低迷の時代と色々な出来事がありましたが、総じてブラジルやブラジル銀行の空気が私の肌には合っていたと思います。Verde Amarelo(緑と黄色)はブラジルの国旗の色です

。転じて、ブラジルの国そのものを表す言葉でもあります。小学5年生の頃、ブラジルと出会いましたが、私の血液の色が緑と黄色に変わるのに時間はそう掛かりませんでした。そして、これからも可能な限りブラジルに関わって行きたいと思います。拙いエッセイに後までお付き合い頂き感謝致します。