執筆者:高木 和博 氏(ヤマトグループ代表)
「自分の会社を立ち上げる」
さてさて、これでは何時になったら締めくくれるのだろうか、紆余曲折は数多とあるが先を急ごう。6歳年上の人と同額出資で会社を開けて13年目、この頃SOCIOも4人になり、頭でっかちになっていたうえに、往年のハイパーインフレ等の影響もあり、会社の業績が振るわなくなって来ていた。同時に40歳を超えて自分のやり方で会社を経営したいという願望が日増しに強くなってきた。 やはり同額の出資で対等とはいえ、6歳年上の先輩で、周りの人たちは彼を社長、社長と呼び、自分はいつまで経っても永遠のナンバー2の存在で面白くなかった面もあるのだが、商売のやり方、会社の経営に関し、相入れない面が多々出て来た。自主独立というブラジル移住の本来の大目標を実現したいという欲求が抑えきれなくなってきて、自分の思うやり方で会社を経営したい。約2年をかけて先輩のSOCIOと解決策を話してきたが、折り合いつかず、1990年12月に、自ら会社を出ることを決断。翌年1991年1月に今の会社を立ち上げた。ブラジルでは、SOCIOで会社を開けることが一般的に多いが、そのうちの大半が2,3年でつまずくことが多く見られる。その中で、13年間もナンバー2でやってきた自分を私はよくやったと自己評価している。
さあー新会社、何をやるか、もとよりモノの売り買いしか能がない自分であるが、それでも前の会社で取り扱っていた同じような商品を取り扱うのは気が引けるし、潔良くない。最初は日本の先輩が取り扱っていた音響機器のコネクターという部品の輸入販売を手掛けた。この部品は音響メーカーに売り込むのだが、一つのモデルの設計段階から採用してもらわねばならず、1年、2年と時間がかかる、相手の設計の担当者は、「これはいい、採用を検討する」といいことを言うのだが、こっちが持たない。
「食品の輸入を始める」
手持ちの資金も枯渇し始めたころ、知り合いの輸入会社の方が日本のインスタントラーメンをコンテナーで入れたが、自分は畑違いで売り先がないので引き取ってくれないかと言ってきた。見本をもらって、今では東洋街という日系人のお店が何軒かあるところに持参すると、次から次と注文が出てあっという間に完売した。まったく、商売とはわからないものである。これで一息つき日本食を輸入販売しようと方向付けが出来た。
春日井のアメ玉、亀田の煎餅などコンテナー単位で注文が取れた。ある日、日本の陶器メーカーのカタログを持って、サンパウロの有名ギフト店、主に結婚するカップルとか、親戚、友人がプレゼントするために買い物をするお店に洋食器を売りに行ったのだが、買い手がたまたま持っていたカタログの和食器に興味を示し、値段を聞いてきた。価格を提示すると、1コンテナー買うと言ってすぐ注文をくれた。大喜びして日本へ発注した。いざコンテナーがサントスに着いて、お客に注文の品物を納品する段になると、「ちょっと待ってくれ今は財政状態が良く無い、数量を1/3にしてくれ」と言う。 「おいおい冗談はやめてくれこっちは少ない資金で輸入卸をしており、どうしてくれるんだ」と泣きついたが何ともならず、ほとほと困ってしまった。そこで到着した陶器を、日本人街の食料品店に持って行き、代金は売れた後でいいですからと置いてもらった。ところがその日のうちに売れたから、もっと欲しいと電話が入る次第。2,3のお店に置いたのだが、どこもすぐに売れた、さらに追加で届けてほしいと言ってくる始末。捨てる神あれば拾う神ありとは、よく言ったものだと感心した。
日本製の陶器は、生地は薄く軽くてデザインも良い、一方、ブラジル製は生地も厚く、色目も悪い上に、値段が日本の輸入品よりも高いとくれば、日本製が売れない理由はない。大きな日本食レストランのオーナーは1000個単位で買ってくれた。何故そんなに必要なのですかと聞くと、厨房のブラジル人は、一日に10個くらい割ってしまうとのことであった。
日本へ行って、荒巻塩鮭、たらこ、いくらをカバンに隠して持ち帰って、みんなにお土産としてあげると大喜びされた。こんなに喜ばれるなら、いっそうのこと輸入しようと算段した。冷凍海産物は当然冷凍コンテナーを仕立てる必要があり、簡単には行かない。ブラジルのマグロとか魚を取り扱っている方に話をすると、魚などの取り扱いはプロでも苦労しているのに、素人のお前が日本から輸入するなんて無茶だ、やめておけとのご意見。しかし私は諦めなかった。最初からコンテナーを仕立てるのはさすがにリスクが大きく躊躇した。先ずはAIRでやってみることにした。飛行機は重量で運賃がかかるため、氷とか保冷剤を使うと、その分重量が増えてコストが高くなる。築地の業者に頼んでガチンガチンに冷凍してもらい成田へ運び込んだ。また知恵を絞って、軽くてしかも単価が高い食品と抱き合わせて運賃効率を計算した。VARIG便で貨物を積み込み、自分も同機に乗りGUARULHOS空港に着いた。生鮮ものという事もあり、税関審査はすぐにしてくれて無事に貨物を引き取ることが出来た。会社に着いて貨物を開けると、ほぼガチンコの冷凍状態で、やったやったと大いに興奮した。事前に邦字新聞に冷凍海産物入荷、即販売と広告を打っておいたせいもあるが、次の朝会社へ行くと、長蛇の列になっており、何事かと尋ねたら、新聞広告の海産物を買いにきたという人の行列であった。ほぼすべての商品があっという間に売れた。
これで自信を得て次には20フイートのコンテナーを仕立てた。メインはサンマ。相当の数量を入れたが、これを仕舞う冷凍の倉庫が無い、会社に荷物が着くと、早速ビニールシートで覆い一昼夜置いた。何ら問題はなかった、よく冷凍されており、冬場だったこともあった。全員総がかりで、注文を受けていたレストランを始めお客さまに配達した。お金が見る見る間に貯まって来た最高の時期だった。魚に詳しい先輩たちの危惧をよそに、素人だから怖いもの知らずで、何でも出来るということも学んだ。
奥さんが訪日して、持ち帰るモノに重たいシャンプー、リンスがあった。何故と聞くと「ブラジル製は合わない」という。なるほど!!こういう一世は他にも沢山いるのではないか、これを輸入したらきっと売れると考えた。しかもその商品をドラッグストアーとかの専門店に置くのではなく、日本食を売っているお店に置いた。日本食を買いに来る人達は食品に限らず日本製のモノならきっと買うだろうと思った。案の定よく売れた。
かつての日本人街は東洋街と名称が変わっていて中国人、韓国人が幅を利かせ始めていた。しかし、この頃はまだ中国人(台湾)も輸入卸業に手を出しておらず、日本食では独壇場の勢いで新会社も急成長を遂げ、4年後の1994年には、自社ビルを買うことが出来た。自画自賛になり恐縮だが、東洋街のメイン通りGarvao Buenoをはじめとして、その界隈で、数々の日本製品を輸入販売してヒット商品を生んできたと自負しているが、その後は彼らの資金力、家族経営の力に太刀打ちできず、自分が開拓した様々なモノを全て真似され取られてしまっている。
「ラーメン・和の話」
ラーメン・和について話そう。 2007年に自分が学んでいる盛和塾(稲盛和男塾長₌京セラ名誉会長)の集まりがブラジルであり、日本から参加した千葉のラーメン屋、味噌屋の田所さんが翌年2008年の6月に、「移民100周年のために何かお手伝い出来ることはありませんか」というお尋ねがきっかけとなった。「そうですね寒い時期ですし、日本からも沢山の方が来られるので、期間限定で、前後1ヶ月くらい美味しいラーメンを作って提供したら大喜びされますよ。」「それはいいですね!!やりましょう」となった。期間限定で既存のレストランの一部を間借りしてやろうと算段。リベルダーデのお店を片っぱしから物色した。このうち2,3軒がうちでやってもいいと言ってくれたが、実際にやろうとするとダクト(換気扇)工事はしなければならない、茹麺幾を取り付けねばならない。田所さんの日本製の麺、特製のタレはヤマトでほぼ毎月冷凍コンテナーを仕立てており、輸入の問題はなかったが、機材、工事に結構お金がかかることが判明した。 ならばいっそうのこと恒久店を開けようとの決断になり、移民100周年6月18日めでたくオープンした。
Veja誌やその他ブラジルの雑誌にも、頻繁に取り上げてもらい寿司、てんぷら等とともにラーメンがポルトガルゴ語として認知されるようになった。昨年パウリスタに2号店を開けたが、昨今のラーメン店の開業ラッシュをみると、いずれサンパウロに本格的ラーメン戦争が起きるのではと思っている。
「エスパッソ・カズの話」
エスパッソ・カズは、当初の計画外で資金面で大分苦労した。ヤマトではお酒、焼酎を輸入卸しており、Itaim方面でお酒専門店のADEGAを開けるつもりで物件を探し格好の場所が見つかった。 不動産屋の審査も無事済、家賃交渉もして契約書を作成、いよいよ次の日はサインという日、今のエスパッソ・カズの物件がAlugaと張り出された。2年以上に渡って空き家だったのだが、いろいろ調べてもモメゴトがある物件で借りたくても借りれなかった。それがAlugaとなり飛びついた。勿論Itaimの物件はキャンセル、相手は契約書も作成、サインするばかりでこのドタキャンに怒るは怒るは!!御免なさい。IPTUとか諸所税金が滞納になっていることもありそれらをこちらですべてキレイにする条件で、あの広い物件が破格の安さで手に入れることが出来た、松下幸之助曰く「運が9割」、まったく運しかない!!
さてこの物件は広いので、自力では無理と判断し、テナントを入れて魚屋、野菜、果物、たこ焼き、今川焼、お弁当などを売ろうと思った。ところがラーメン・カズの責任者、スタッフが勝手に計画を変えてレストランにしてしまった。もちろん設計図があり、毎日のように工事会社、デザイナー達と練り上げており、これはもう任せておくしかないと腹を括った次第、それはいいのだが問題はお金。 当初の予算を大幅に超えてしまって、2010年11月には1ヶ月工事が止まってしまった。お陰様でラーメン・カズが順調で、BRADSCOが融資をしてくれることになり、工事を再開した。翌年2011年、一日も早く完成させ、営業を始め、借金を返済しようと目論んだ。褌と当ては向こうから外れるというが、全くの想定外の事態、東日本大震災が、福島原発事故が3月に勃発。ヤマト輸入コンテナーが最高15本サントス港に足止めされてしまった。売る商品はない、しかし仕入(輸入)代金は決済しなければならない。非常事態宣言を出した。出したところで事態が好転するわけでもなく、いざ終わり を本当に覚悟した時期だった。
ブラジルであろうと日本であろうと紆余曲折、試練の無い人生なんてありえないがブラジル生活も今年で43年目。日本ブラジル中央協会の桜井さんより、題材は何でもいいから好きなように書いてくださいと6月に言われて、4か月も過ぎた。自分の足跡をこの機会にまとめておくのも一考と思い書き始めた。
先ずはブラジルに感謝せねばならない。一旗揚げる、自主独立が青雲の志で、このブラジルに活躍の場を得たのだから感謝するしかない。 その過程を振り返ると、やはり皆様に喜ばれる、有難がられる、商品、お弁当のデリバリー、ラーメン店など皆様のご期待に応えたいという強い願望が、今日の私を支えてくれたと思っている。学んでいる盛和塾のフロゾフイーの根幹は利他で、儲かるも何も利他の精神があれば何とかなるような気がする。
多くの方々は、地球を世界を、ブラジルを語られるが自分はガルボン・ブエノ中心で本当に狭い所で生きて来たと恥ずかしくなるくらいだ。移住当初は貧しかったけれど、幸せを感じていたんじゃないかと思う。この大地に挑戦する若さと、体力、気力があった。受け入れてくれたブラジルには未知の世界、フロンテイアーが一杯あった。頑張れば形になって着いて来た。本当にこの国は良いところと思っていた。だが最近はそうでもない、自分が年をとったせいなのか。
最後に、この国に戦前戦後を通じて移住され、脈脈とニッケイ・コロニアという確固たる
基盤を作り上げて来られた先輩諸氏に感謝申し上げます。また今日まで自分を支えていただいた周りの多くの方たちに、「ありがとう」とお礼を申し上げます。