執筆者:平野 候一 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

 

元々行きたくて行ったブラジルでもなく、辞令を受けて赴任した地でありました。

1981年9月、ニューヨークをパンアメリカン航空で発ち、リオ経由でサンパウロ国際空港 コンゴニアスに降りたちました。入国審査では持参したレントゲン写真を提出して諸手続きが完了後、晴れてイミグランチとして入国することができました。空港から大通りに出た瞬間、目に染みるほど強烈に鼻を突くアルコール臭に頭がぐらついた記憶が今も甦ってきます。

何故自分がブラジル勤務なのか理由を知る由もありませんが、スペイン語・ポルトガル語を専攻していた訳もなく一般的な文系で学生生活をエンジョイしていただけでしたので、就職後に、偶々海外研修員として一年間サンフランシスコで業務研修をしながら実働勤務の経験があったことが、ブラジル駐在員事務所から現地法人化するに当たって、出向社員の増員要請を受けたことにより偶然白羽の矢を向けられたらしい…、当時31歳。
従って、その歳に至るまでポルトガル語のポの字も知らない(厳密には赴任する前に正味一ヶ月語学学校に通った程度)哀れな状態で赴任して、即業務開始となり全てに手間を取るばかりでした。当然、現法となれば儲けることが先決であり、赴任翌日から営業活動だ!赴任前研修等でレクチャーを受けてはいたものの、現地の生々しい状況は、実際に経験して初めて分かるものであり、しかも言葉は全く解らないので日本語を解する日系従業員と“2個いち”(2人で1人前)営業活動の為に、何かに付けて面倒・負担を掛ける立場にありました。元の会社は日本通運の海外孫会社であるブラジル日本通運ですが、運送業と言えば全ての国において、その国の基幹産業であり労働集約産業を代表する業界です。従って、よそ者が自国の基幹産業に手を出すことには、国内・国際輸送に対する規則・規制が厳しく、且つ業界環境は盗難、税関吏、労働組合、地場運送会社、ストライキ、及び各種税金など、幅広い対応による薄利多売な業務を強いられる状況でした。

当時の業務内容は、国際貨物フォワーディング(輸出入貨物の航空便・船便取扱い)、国内貨物輸送、国際・国内引越貨物、保管業務、及び旅行代理店対応などですが、時にはサンパウロ以外の地方都市への引越アテンドも行う結構忙しい日々を送っていました。
日本の本社は事業部別に細分化された組織が構築されていたので、其々専属的に業務遂行を行なえば良い環境でしたが、ブラジルでは各々事業部からの業務を集約してオールマイティーな対応が要求されましたので、ある程度は概略的に全ての業務を把握する必要がありました。同じ会社内でも全く知らない事業部(例えば、旅行事業部)の業務を時には対応しなければならないこともありましたが、逆に、知らない事業部を垣間見る良い機会でもありました。

実際にブラジルで生活していく上では、やはりポルトガル語の会話力が必要なのは当然ですが、仕事に追われて(疲れて)現地の語学学校で学ぶことが時間的に厳しい状況でした。、勢い会社内やレストラン、夜の社交場などで無理をしてでも学ばざるを得ない状況に追い込まれましたが、それに屈せずに覚えて行く術を発見して以降少しは楽になりました。言葉は徐々に耳から学ぶようにしましたが、常に辞書を携帯して単語の一つ一つを覚えていた当時を懐かしく思い出します。しかし、今はすっかり忘却の彼方へと消えていますが、偶にポルトガル語を見聞きして覚えても片っ端から忘れて仕舞うことに情けなく諦めています。

現在、日本でブラジル文化を楽しむ環境は、当時とは比較にならないほど多く整っていますので、楽しむことに事欠かないことに感謝しています。それは自分自身がブラジル・ファンで居続けていることの証でもありますが、何がそこまで引き付けるのか?

現実的には、日頃の現場業務を通して相互理解に努力しながら、日本とは違う文化・風俗・習慣を習得して、それには決して嫌悪感がなく、ブラジル人のより人間的(思う儘・人懐っこさ・陽気さ)な人柄に惹かれたことに起因すると思っています。例え、言葉は分からなくても自分から胸襟を開けば相手も応えてくれることを教えてくれたブラジル国(人)に出会えたことは、今後の人生を謳歌する上でも、貴重な経験として感謝している次第です。