執筆者:川上 直久 氏
(日本ブラジル中央協会協会理事)

 

前回述べたごとく、フロニブラは日伯双方にとり重荷になっていったのです。CVRDはフロニブラの管理費を相変わらず、つなぎ融資で賄い、JBPは既に立ち上げたセニブラの工場の操業安定がまず先決と腐心していました。

時同じ頃CVRDは、カラジャスの鉄鉱石開発に多額の投資が必要となり、とてもフロニブラのための新港建造に資金を回せる状態ではなくなってきたのです(港湾建設はポルトブラスの管轄ですが、当時の伯国にそんな余裕は全くありませんでした)。

諸兄はパイナップルを意味するabacaxiという言葉に「面倒なこと、厄介なこと」の意味があることは当然ご承知のことと思いますが、CVRDの担当者でさえフロニブラはアバカシだなどと言い出す始末でした。そんな中フロニブラの土地と植林資産をFRD(前出:CVRDの植林子会社。当時すでにES州の植林会社DOCEMADEをFRDが吸収合併していた)の土地・植林資産と交換し、しかる後フロニブラとセニブラを合併させる、とのアイディアが当時のCVRD社長エリエゼル・バチスタ氏より提案されました。これは多額の損失を出してセニブラに原木を供給していたCVRDの負担軽減のため、セニブラ自身が植林を持ち原木の自給化を図るべく、そのためにフロニブラ資産を役立たせようとの考えに基づくものでした。

CVRDとJBP双方でタスク・フォース・チーム(TFT)を編成し、1982年9月から調査が行われることになりました。JBPのTFTリーダーは伊藤忠より派遣された小林哲郎副社長、CVRD側はMurilo紙パルプ本部長で、統括チーム(法務含む)と林材チームに分かれ、夫々10名程度の専門家により構成され、3か月にわたり精力的な調査が行われました。この調査で最も揉めた点は植林と土地の評価基準をどうするか、という点でした。最終的に土地は時価、植林は「簿価」を総合物価指数で修正した「IGP修正簿価」ということで落ち着きましたが、ここに辿り着くまでには相当の議論がなされました(当初JBPは植林については簿価を基準にすべきと主張、一方CVRDは「簿価ではこのインフレの激しいブラジルでは全く引き合わない」として、再生産価格を主張)。この基準で両者の土地・植林資産を評価するとFRD資産がフロニブラ資産を1,230万ドルほど上回ることになり、その差額をセニブラがCVRD (FRD)に支払うことで、合意に達しました。

その後セニブラ&フロニブラ統合に関する基本合意書の詰めや、フロニブラを統合した後のセニブラの中期損益、資金収支見通しなどの作業が日伯間で鋭意行われました。一方セニブラは操業開始直後の3年間はトラブル続出で赤字操業でしたが、1978年10月から技術担当役員(王子製紙出身)を工場長兼務とさせる応急措置を実施し、操業も徐々に安定していきました。

1980年に黒字化すると、1983年には累損一掃し、1985年から配当を実施するなど業績は著しく好転しました。ただ設計能力750トン/日に対し1980年には800トン/日を超え、1986年には1,000トン/日を超過するなどかなりの高負荷操業になっていたことは事実で、この頃からCVRDはセニブラの倍増(35万トン/年⇒70万トン/年)を盛んにJBPに訴えるようになっていったのです。

そんな中JBPの社長交替があり、技術畑出身の面高王子製紙副社長が社長になりました。彼は技術屋として確かに高負荷操業は危険である(回収ボイラーの爆発につながる恐れがある)との認識から増設を見越して大型回収ボイラーの建造を提案したのです。これは増設を急ぐ伯側を多少なりともなだめる時間稼ぎの意味もあったのです。

註:回収ボイラーとは木材チップ蒸解する際添加する苛性ソーダを回収し、残った廃液を燃焼して蒸気を発生させ、その蒸気でタービン・ジェネレーターを稼働させ て電力を製造する、いわばクラフト・パルプ工場の心臓部とも言える設備。高温・高圧での操業が続くことから経年変化で爆発事故等も起こりやすい。

ブラジル側もこの案に乗り、「安全対策投資」との位置づけで検討開始、同時にセニブラの倍増計画のF/Sも日伯間で行うことになったのです。 なおこの安全対策投資金額1憶2千万ドルは全額セニブラの自己資金に「よって賄われました。

一方セニブラとフロニブラの合併と統合は当初1984年1月に行われる予定でしたが、色々問題が発生し、最終的に、7月末にFRDとの資産交換が実施され、翌日セニブラがフロニブラを吸収合併し、セニブラは自社植林を持つパルプ製造会社として再出発することになりました。この取引を遅らせた原因の一つにAção Popular(日本語では「民衆訴訟」と訳されます)が、あります。これは公社が国益に反する行為をしようとした場合、ブラジル人は誰でもその不当性を裁判所に訴え出ることが出来る、という1965年に制定された法律4715に基づくものでありました。訴えを起こしたMG州議員21名の言い分は「FRDの山林資産は、ブラジル民族資本100%で成り立っており、しかも現にセニブラに対する原木供給源として活用されている、価値ある資産であるのに対し、フロニブラの山林資産は日伯合弁の多国籍資本で出来上がっており、当面利用先の見当たらない低価値資産である。実質価値の異なる両者の山林資産を同じ物差し(評価基準)で計り交換することは伯国にとり不当に不利益を強いるものである」というものでした。

 

この反対理由の内容の詳しさその他からみて、かなり事情を知悉していたものの関与が疑われましたが、果たしてFRDの法務担当役員が在任中に得た情報をMG州議員に内通したことが判明しました。さらにFRDの社長までが、辞任し反対声明を出すという事態にまで発展、新聞報道もますますエスカレートしていったのです。CVRDはたとえ訴訟に持ち込まれても勝訴は確実との自信はあったものの、通常この種裁判は結審するまでに5年近くかかるものと思われ、その間政治問題化することは国営企業にとって好ましくないとの判断から、反対派議員団および州関係者に対し、取引の正当性を、時間をかけて説得する方向で対応、その説得工作に尽力したのが、エリエゼル社長の後継社長マスカレーニャス社長が交通事故死した後を継いで社長に昇格することになるアグリピーノ副社長でした。CVRDの説得努力が実を結び、上述のごとく1984年7月末に資産交換が行われ、8月1日にセニブラはフロニブラを吸収合併し、自前の山林資源を持つパルプ会社として再出発することになりました。合併後の出資比率はCVRD:51.48%, JBP:48.52% となり、セニブラの所有する土地は約82,000Ha,植林面積は約54,000Haとなりました。育林ならびに原木供給事業は子会社のセニブラーフロレスタル(CNB-F)によって行われることになりました。

 

上述の「安全対策投資」はセカンド・ラインを見越して、大型キャパの回収ボイラーやタービン・ジェネレーターの増設まで含んでいました。この点からもCVRDは倍増F/Sの実施を早急に行うよう要請してきたのです。JBPもこれ以上ブラジル側を待たせることは不可と判断し、F/Sに応じる決意をするに至りました(1988年6月)。

 

倍増に関して日本側はパルプ引き取りに際して割引率のアップを要求、この問題がなかなか決着を見ませんでしたが、最終的に1991年に両株主の正式承認がなされ、セニブラは35万トン/年の増設に向けてスタートを切りました。この倍増の総投資額は7憶9,300万ドルと見積もられ、その資金手当ては以下のように取り決められました;

①株主による増資……5千万ドル

②セニブラ自己資金…2憶6500万ドル

③JBP/CVRDローン‥1憶3900万ドルeach 計2憶7800万ドル

④日本の貿易黒字還流資金‥2憶ドル

(①②以外はJBP/CVRDが半額づつ責任を以てローンをアレンジする)

ここで問題になったのが④の黒字還流資金の取り扱いでした。JBPは日本政府が拠出するもの故、当然日本側資金として考えるべきと主張、一方CVRDはブラジル政府が国庫保証して借り入れる資金故伯側資金として考えるべきと主張。お互いに一歩も譲らず、机を叩いての大論争になりましたが、最終的には中立の資金として考え、上記のごとく決定したのです。後日筆者が財務のエキスパートに訊いたところでは、国庫保証を出す伯側資金として考えるのが金融の常識とのことで、CVRDの懐の大きさに感激した次第です。

 

さて大分横道にそれましたが、旧フロニブラ資産はどうなったのか?ですが、CVRDは在SP州の製紙大手のSUZANO社と50/50でBR101とバイア州南部を流れるムクリ川の交差する場所にBahia Sul Celulose S.A.を設立、旧フロニブラの山林資産を使いパルプ製造に乗り出しました。

 

70万トンへのセニブラ増設工事は極めて順調に進み1995年には工期・予算ともに計画を下回る形で完成、まさにブラジルでは考えられない「奇跡」を実現したのです。セカンド・ラインの竣工式典は当時のF.H.Cardoso大統領の陪席を仰ぐため、1996年4月に盛大に行われました。その後ボトルネック解消や新規少額投資により2007年には114万トン/年の生産量を達成、その後操業効率化等により、現在のセニブラは安定して120万トンの生産を行っており、世界22か国に供給されています。上記Bahia Sul Celulose.Aは、その後SUZANO社がCVRD保有株を買い取り、SUZANO社のムクリ工場として操業していますが、現在の生産量はパルプ170万トン/年、そのうち30万トンをコピー用紙生産に回し、残り140万トンを市販パルプとして世界に販売しています。つまり現在のセニブラの生産量を上回るパルプ生産を続けているのです。旧フロニブラ資産は決してMG州議員グループが批判した「低価値資産」ではなかったのです。

 

1997年に民営化されたCVRDは、経営権を握る主要株主がヴィクーニャ・グループからブラデスコを主体とする銀行に代わっていく過程で、CVRDの主要業務はコア・ビジネスたるマイニングおよびその運輸業主体に回帰すべきとの方針を採ることになり、セニブラのCVRD所有株が競売に付されることになりました(2001年6月)。この競売はアラクルス社とボトランチン・ペーパー社が本件入札に当たって50/50で設立したSPC (Carthage Investment Corp.)が、6憶7千50万ドルという我々の予想を上回る高額で落札したのです。これに対し、JBPは慎重に対応を検討した結果、王子・伊藤忠が中心となって優先買取権を行使し、日本側でCVRD所有株を上記価格で購入することを決定、同年9月14日に支払いを完了し、セニブラは日本資本100%の会社になりました。(この辺のことは読者諸兄も良くご存知のとおりです)

 

その後のセニブラはパルプ市況が好調であったこともあり、順調に好成績を継続して挙げており、日伯間事業の最高の成功例の一つに数えられています。現在の土地所有面積は25万Ha強に及び植林面積は13万Haを超えています。残りは、法律で定められた環境保全のための天然林、林道、防火帯、小河川等の植林不適地等ですが、セニブラは2002年に国際的権威のあるFSC(Forest Stewardship Council)の認証を受け、環境にやさしい植林を実践して来ています。

 

また設立以来、事業地域社会への貢献活動として当初47の市町村郡の小中学校の児童に文房具を供給、現在は55にその数は増えており、さらには医療活動や自然保護啓蒙活動もこれらの児童対象に行っています。

 

筆者はCVRD株買取後の初代営業取締役としてセニブラに派遣されましたが、このような事業に当初のF/S段階から参画出来たことは望外な幸せでした。