執筆者:吉田 憲 氏 独立行政法人 国際協力機構(JICA)中南米部長

(はじめに)

ワールドベースボールクラシックに参加するほどのブラジル。20年東京オリンピック大会では12年ぶりに正式種目として採用される野球であるが、サッカー王国ブラジルでの野球の隆盛には長い日本人移民の歴史と深く関係がある。

(時代背景)

1820年代から米州大陸では奴隷解放が続いた。1862年リンカーン大統領が米国で奴隷解放宣言、ブラジルは米州大陸では1888年と遅い時期ではあったが奴隷解放がなされ、その前後に代替労働力として欧州・中東、そして1908年から主として農業移民として日本人が続くこととなる。

(黎明期)

そうした社会情勢の中で、野球は19世紀末頃、米国からやってきた電力会社や電話会社の技師たちによりブラジルに持ち込まれた。サンパウロではそうした技師や領事館など米国人が野球を楽しんでいる中で、1915年に渡伯した静岡県出身の笠原憲次が混じって活躍するようになる。

一方、農業移民として移住した日本人移民はそれぞれの農業移住地で、あるいは転住した商業都市サンパウロで娯楽として野球を楽しみ始める。もっとも、競技人数が少ない時代のこと、対戦相手に飢えていた野球愛好家は、サントス港に入港した米国や日本の船員を捕まえて野球をやったり、送迎付きだったりとまさに愛好としての草野球がなされていた。

(広まる野球)

1920年には笠原を部長とする「ミカド運動倶楽部」が発足。笠原は、1918年設立された大日本帝国の移民取扱いを担った海外興業会社の社員として主要な移住地があったサンパウロ州レジストロ市に赴任し、多くの野球チームの創設にかかわった。その突然の死の際には、「サンパウロ米国人野球団の投手としてリオ軍を破った」等々の活躍が報道されたほどであった。

1930年以降には、日本人移住者が中心となりサンパウロ市野球選手権やサンパウロ州内陸各地でもそれぞれの野球大会が開催されるようになった。1936年には第一回全伯野球大会が開催され、日米開戦により日系人の集会が難しくなる41年まで第6回まで開催された。

このころは、大都市サンパウロでは牧場の空き地などでの開催で整地が十分ではないためイレギラーが多く起こった一方、比較的用地の確保が容易だった地方では、日系人入植地の娯楽施設として専用の球場が多数作られている。現在でもパラナ州マリンガ市では専用球場が4つ同じ場所に整備されているほどである。サンパウロ州内のモジダスクルーゼス市では3面の球場が整備されている。

当時の邦字紙には「非常時、強く正しく、 雄魂熱火の大争覇」「英霊に捧ぐ黙祷、荘厳、晴れの入場式」と二・二六事件など世情を反映しながらも、多くの読者の期待に応えるべく、試合の様子が詳細に描かれている。

アマゾン地域への入植は1929年から開始された。このころからも厳しい農業労働の合間に娯楽として野球が楽しまれた。1957年には第一回北泊野球選手権大会が開催。今日に至るまで60回以上開催されている伝統の大会となっている。

戦後も各地で日系社会中心に野球が行われて来たが、80年代バブル景気に沸く日本にデカセギとしていく日系人が増え、ブラジル各地の日系野球チームは逆に愛好者が減ることとなった。

 

(ブラジル野球・ソフトボール連盟)

 

ブラジル野球・ソフトボール連盟(CBBS)の創設は1990年。当初はキューバ スポーツ省と連携し、30名を超えるキューバ人指導者を受け入れレベルアップを図ってきた。

 

(ヤクルト野球アカデミー)

 

その後、1999年にはブラジル・ヤクルト商工株式会社の出資によりサンパウロ州イビウーナ市に『ヤクルト・ベースボール・アカデミー』を創設。セレクションに合格した13~18歳の選手が寮生活をしながら、午前中は近隣の学校で学び、午後はアカデミーで練習を行なっている。現在の在籍選手は34名。

 

その後MLBも関心を示し、運営に参画。現在はMLBから同アカデミーに3名の指導者を派遣。MLBは同アカデミーを南米の拠点とする構想を持ち、バリー・ラーキン(2013WBCブラジル代表監督=元シンシナティ・レッズ)を中心にMLB派遣のコーチが指導するエリートキャンプは、毎年ブラジルで開催され、中南米から有望な50~60名の選手が参加する。現在在籍の34名の選手の内、11名はMLBから奨学金を受けている。すでにニカラグアから4名、ペルーから3名の選手を受け入れ済。

 

同アカデミーからはこれまでに20名がMLB加盟チームとマイナー契約を結んでいる。米国・日本を始め、メキシコ・イタリア・オランダにもブラジル人プロ野球選手が在籍。17年には5人目のブラジル人MLBメジャーデビューを果たした。

 

(プロ野球)

 

1995年には三菱自動車川崎でプレーしていた日系3世の玉木重雄がドラフト3位で広島に入団し、日系ブラジル人初のプロ野球選手が誕生する。爾来、14名の日本プロ野球選手が誕生している。2000年代、ヤクルトスワローズで活躍し、現在同球団二軍打撃コーチを務める松元ユウイチもその一人であり、後述するヤン・ゴームズ選手同様、日系人が多いモジダスクルーゼス市のモジダスクルーゼス文化協会の日系野球チームで野球を学んだ。
大リーグではブラジル人初のMLB選手であるヤン・ゴームズ(2012年~現 ワシントン・ナショナルズ)を始め今日まで5名を数える。2018年MLBオールスターゲームにも選出されたヤン・ゴームズ選手は、日系人コーチの指導から「練習と準備の大切さ」を学び実力をつけた。「私は日本文化の中で育った。」と語る。

 

(JICA)

 

日系社会との連携を推進するJICAでは、1999年にサンパウロ州カッポンボニート市に「野球」指導のボランティアを派遣し、今日まで80名の野球分野の日系社会ボランティアをブラジル各地に派遣して日系社会の活性化を支援してきた。2018年現在でも2年間滞在して指導を行うボランティアが15名各地で活躍中である。また日本体育大学と大学連携協定を締結し過去5年間に渡り、累計51名の日体大野球部員が春休みに1か月間滞在し日本式チームプレーを伝えてきた。

 

2009年度に長期に派遣された黒木豪日系社会ボランティアは、インダイアツーバ市に派遣され、予選全敗であった子供のチームの強化を「技術というよりも、礼に始まり礼に終わる、元気な挨拶、野球道具を大切にする」という日本式の指導により成果を上げ、全国3位の成績を収めた。このことが高く評価され、2013年ワールドベースボールクラッシック大会ではブラジル代表コーチを務めた。

なお、この時のブラジル代表28名の内、日系人は12名。ブラジル野球は黎明期こそ米国人中心であったものの、日本人移民が作り上げた日系社会の中で育ち、ブラジル社会に広がったと言える。

最近では、18年6月に大橋貴博日系社会ボランティア率いるアチバイア市の9歳~10歳カテゴリーのチームが全伯大会で初優勝し、日本式指導手腕が関係者から高く評価されている。

 

ブラジル国内の野球人口 約20.000人。7つの地方支部と11リーグ。全ブラジルに70の球場を数える、世界ランク19位のブラジル野球。

2020年、東京オリンピックでは、「礼に始まり、礼に終わる、元気な挨拶、道具を大切にする」日本式野球を学んだブラジルとの熱戦を期待したい。