-セニブラ事業を通じて知り合った人々(ブラジル人編)-

執筆者: 川上 直久 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

 

エリエゼル・バチスタ氏

 

このタイトルで書き始めるにあたり絶対に外せない人は皆さん良くご存知のエリエゼル・バチスタ氏でしょう。私が同氏と初めて会ったのは1973年にリオ赴任後(1973年3月)2か月くらいたった頃でした。当時の伊藤忠リオ事務所長であった鈴木登氏、リオ駐在員の高橋健太郎氏、そしてエリエゼル氏の最も親しい日本人で、鈴木登氏の前任者であった稲田耕一氏と私の日本人4名とエリエゼル氏との会食の席でした。当時50歳直前のエリエゼル氏はスマートで、如何にも切れ味鋭い凄い人との印象を受けたことを今でもはっきりと覚えております。

 

当時私は「ヤジジ」という現地の語学学校に通い、週に1回2時間ほどポ語の勉強をしておりましたが、会食の席上、高橋駐在員がいきなり私に「ところで、川上君、ポ語のレッスンの調子はどうかね」と振ってきました。咄嗟に私は“Tudo bem, exceto as minhas finanças.”と学生時代にブラジル人の先生から教えて貰ったフレーズで応えると、その場は一気に和みました。

 

その後数年経って私の上司が日本に帰国すると、ブラジルチップ・パルプ事業の日伯間の通訳はすべて私がやるようになりましたが、CVRD側からエリエゼル氏が参加すると私は格別に緊張したものです。と、言いますのは、彼は9か国語を理解し話せるが、その中に日本語も入っているとさんざん聞かされていたからです。日経新聞の元サンパウロ特派員の檀上氏はブラジル特報1647号(2018年11月号)の「エリエゼル・バチスタ氏を悼む」という記事の中で、「彼は7か国語を操る」とあり、「あれっ」と思った次第ですが、念のためと思い、ウイキペディアで調べたところ、エリエゼル氏はロシア語・英語・ドイツ語・仏語・イタリア語・スペイン語・ギリシャ語の7か国語を独学でマスターしたとありました。これに自国語であるポルトガル語と日本語を加えると9か国語になります(尤も日本語はすべて理解し、流暢に話せるというレベルではなく、挨拶程度なら出来る程度と後で知りましたが…)。私は日本の製紙会社トップとエリエゼル氏の通訳をしている時、当時の王子製紙専務であった河毛次郎氏とエリエゼル氏が突然ロシア語で会話を始め、唖然としたことがあります。その時の両氏の会話はまるでロシア人同志が話しているような印象(飽くまで印象です)を受けました。河毛さんは樺太に3年間抑留されていた経験をお持ちでその時にロシア語を習得された由。なお河毛さんは東大卒ですが、頭の回転の速さには舌を巻くほどでした。エリエゼル氏は昨年6月18日に逝去されました(檀上氏の記事には8月とありますが、これは明らかな間違いです)し、河毛氏も2004年に亡くなられていますので、今頃あの世で、お二人仲良く、ロシア語で会話されているかも…。

 

さて檀上氏の記事の中にエリエゼルさんのお人柄として「ユーモアのある人」とありますが、まさしくその通りでした。こんな逸話もあります。1980年代初め頃でしたかエリエゼル氏(当時2度目のCVRD社長時代)が数名の役員を伴って来日した際、日本の製紙業界のトップが顔を揃えて歓迎昼食会を東京会館で行った際のこと、エリエゼル氏が同行の役員の一人を指して、「彼は釣りが大好きでね、この間もサンフランシスコ河で、こんな大きな魚を釣ったと自慢していたよ」と言いつつ両腕を目一杯広げて(勿論1.5mくらいになります)見せたものでした。はて、そんな大きな魚がサンフランシスコ河に生息しているのかな、何だろう?ピラルクの筈はないし…と不審に思い、彼の指先を見ると親指と人差し指で5~6cmくらいの隙間を作っていたのです!これには日本側のお歴々も大笑いでした。セニブラ事業には特別の愛着があったようで、セニブラの最高評議委員を最後まで勤めていただきました。この場を借りてご冥福をお祈りします。

 

ロメウ・ド・ナシメント・テイシェイラ氏

 

30代でCVRDの開発本部長を務め、セニブラ事業には当初より参画。セニブラ設立後初代社長となりましたが、工場建設が軌道に乗ると本社を設立時のリオからベロ・オリゾンテ(以下BHと略)に移動することが決まりました。当然彼も、BHに移動となる筈でしたが、根っからのカリオカである奥様の大反対に逢い、社長を断念するという結果に。かなりの恐妻家だったのです。

 

ムリーロ・パッソス氏

 

リオデジャネイロ連邦大学のケミカル・エンジニアリング部卒の彼は(MDIC=商工開発省)のリオキャビネットで、ブラジルの紙パルプ産業の将来を研究、その実績を買われて

CVRDの紙パルプ本部長に就任、セニブラとフロニブラの合併をまとめ上げました。その後FRDやセニブラの社長(6代目)を務め、CVRDが入手した旧フロニブラ山林資産を使い、CVRD/SUZANO合弁でBahia Sul Celulose S/Aを立ち上げると、実質初代社長に就任。SUZANOの2代目オーナー社長のMax Ferrerに気に入られ、SUZANOグループの経営審議会メンバーに抜擢され、つい最近まで続けています。またブラジル経済界でも大物としての地歩を固め、6社の異なった企業の経営審議委員を務めることに。異色なのはサンパウロ電力会社(CPFL=Companhia Paulista de Forca e Luz)の経営審議会議長まで務めましたが、この役職は後年、中国が大株主として同社に参入したことで、降りざるを得なくなった次第。尚、余談ながら彼と私は同年同月の生まれで、お互いの子供達も同年代であることから家族ぐるみで付き合い、その関係は今日でも続いています。私が訪拍する度に彼のモルンビの邸宅で共通の友人を交えシュラスコパーティーをやってくれます。

 

★他にもウイルソン・ブルーメル氏リナルド・カンポ・ソアーレス氏等も親しくなったブラジル人としています(故人になった方も含め)が、私よりも親しく付き合っておられた諸兄にゆずることとさせていただきます。