執筆者:赤澤 賢史 氏
(日本ブラジル中央協会理事)
- 前書き私は、そろそろ40才になろうかという2011年8月に、2012年初より勤務することが決まっていたブラジル・サンパウロの赴任準備のため、生まれて初めてポルトガル語に触れた。そして、2015年に実施された平成27年度通訳案内士(現 全国通訳案内士)試験に合格し、ポルトガル語通訳案内士の資格を得た。
世の中には様々な試験があり、それに関するたくさんの合格体験記が残されているが、そのほとんどが非常に短いものとなっていて、参考にするには短すぎる感が否めない。せっかくエッセイ寄稿という素晴らしい機会を頂いたので、私はここになるべく省略しない形で思いつくままに書かせていただこうと思う。
- ポルトガル語と出会うまでそもそも幼少時代は田舎で鮒釣りばかりして育ち、中学3年生まで学習塾に通うことも無く、海外に接する機会も皆無で、語学にも全く興味が無かった。父の実家のある新潟でのんびりと魚釣りでも楽しみながら細々と小さな会計事務所でも営もうかと思い、大学の専攻も商学系を選択し、公認会計士の資格を取得した。現在も都内の大手監査法人でその職を務めているが、1995年に新潟の個人会計事務所で新人として働き始めた頃に目にしたものは、いわゆる衰退する地方の現実そのものであり、人口減少や高齢化、製造業など海外との取引無くして成り立たないようなとても厳しいものだった。
このまま新潟の個人事務所で働いていては、顧客に有益なアドバイスができる会計士に成れないと思い、若いうちにもっと大きな世界を見てみようと翌年に現在の都内の監査法人に移籍した。そこは日本有数の大企業を顧客に持つ大手の監査法人であり、優秀な同期の会計士も100人単位で在籍しており、ここで生き残るためには英語の勉強がマストであった。
さすがに英語の勉強から逃げられないと観念し、意を決し27才から通勤電車内でのTOEICの勉強や英会話を開始した。しばらくしてある程度の成績は修められるようになってはきたが、既に学生時代に留学経験があるような優秀な同期の一部は海外駐在員にも成り始めていた。これは普通のやり方をしていても勝ち目がないと思い、30才を機に英語の勉強と並行して中国語の勉強も始めた。そして、その努力が法人内で認められたのか、2002年には英国留学、2004年から2007年には中国・上海での3年間の海外勤務の機会を得た。
中国・上海では、中国語の予備知識(現在の中国語検定2級程度)があったために、3か月経過後には日常的な会話はほとんど可能となり、1年経過後には、仕事も私生活もほとんど困らなくなり、病院に行った際も医療通訳が到着した頃には、私の説明で医者が全て理解し処置が終わっているような状況であった。
しかしながら、3年経過した時には中国語の運用能力には自信をもってはいたものの、その間に中国語の資格や学位を取得したわけでもなかった。今、冷静に過去を振り返ってみれば、いわゆる「中級の壁」を越えられてはいなかったかもしれない。とはいえ、帰国後には新潟勤務となって地方企業を主に担当していたため、英語や中国語への学習意欲もすっかり失せてしまい、その後東日本大震災が起こる2011年初頭まで、全く語学と向き合わない日々が続いていた。
この頃、法人内でブラジル・サンパウロに初めての日本人駐在員を送る計画が持ち上がった。その際、ポルトガル語が使えて新興国でも対応できるような人材が必要だが法人内にはいなかったが、その人選メンバーの中に私の上海での中国語運用能力を覚えていてくれた上司がおり、新潟でのんびり働いていた私に白羽の矢が立った。その後、東京でポルトガル語研修を開始した。これが私の初めてのポルトガル語との出会いである。
- 受験の動機会計事務所(監査法人)は一般企業とは違い、それぞれの国の制度に従って設立される必要があるため、中国・上海、ブラジル・サンパウロにおいても、同じ国際的な会計事務所グループには属するものの、日本で所属する監査法人とは全くの別法人である。そこでの日本人駐在員の立場とは、完全なマイノリティであり、自ら現地語や英語を話して積極的に関わろうとしなければ、現地のプロフェッショナルから全く相手にされないどころか、現地の制度も理解することができず、社内で必要な手続きもわからない。ましてやサンパウロで初の日本人駐在員の取扱いなど、全くもって不慣れでさぞ「お荷物」だったに違いない。
また、ブラジルにいる日本人駐在員、特に商社マン達は長期のポルトガル語研修等を経て送り込まれていることが多く、彼らの信頼を得てプロフェッショナルサービスを提供するには、それなりの語学力も備えなくてはならないという焦りもあった。
そういった事態を打開すべく、赴任当初の1年間、就業時間外で週5回はポルトガル語の個人授業をとった。中国語学習の時もそうであったが、片時も電子辞書を離さず、ゴルフや飲み会の時でさえ常に手元においてわからない単語があれば調べ、寝る前に復習するようにしていた。その努力の甲斐あり、赴任1年目が終わろうとする頃には、税務・会計に関するポルトガル語の原文も、ある程度のスピードで読解することができるようになり、1人で公共機関の窓口での交渉などもできるようにはなっていた。
一方、上海駐在中の3年とその後の4年半で、ほぼ中国語の資格試験に挑戦しなかったことについて、随分と後悔していた。上海からの帰国後に、5年間苦労して得た中国語の運用能力はすっかり衰え、自称「中国語使い」のように成り下がっていたからである。
その反省を生かすべく、ポルトガル語は駐在期間中に何としても一定のレベルの資格試験に受かりたいという思いがあった。そこでポルトガル語の資格試験について調べてみると、英語や中国語といったメジャーな言語とは違い、Celpe-Brasというあまり知られていない資格しかないことがわかった。しかも、その内容たるや、TOEICや英検等、今まで受けてきた試験とは形式が全く違い、試験も平日実施で試験会場もずいぶん遠く、非常に勉強しにくいことこの上なかった。
また当時、休日の買い物ついでに勉強がてら、リベルダージにある「ブラジル日本移民史料館」にしばしば足を運んでいた。そこで特に私の興味を引いたのが、現代の生活からすれば不便極まりなかったはずの明治・大正の時代に、私生活を大いに犠牲にして日本初の「葡和辞典」を刊行された大武和三郎先生の偉業であった。グローバル化やボーダーレス化とは言いながらも、異なる民族間の相互理解はとにかく言語による正確なコミュニケーションがなくては成り立たない。その基礎は辞書と文法書である。大武先生の偉業は、電子辞書やスマホに囲まれて勉強できるはるかに恵まれた現代に生きている私がなぜポルトガル語一つきちんと修められないのであろうか?という情けない気持ちをいつも感じさせてくれるのであった。
さらに、事務所内で日系ブラジル人は多数在籍していたものの、純粋な日本人は私しかおらず、多くのブラジル人達が、日本での生活や文化、習慣などについて質問してきた。「なぜ日本人はあんなにも勤勉なのか?」、「日本でメジャーな寿司ネタは何か?」、「日本人の男性はみんな武道が強いのか?」等々、ポルトガル語ができるようになればなるほど、本当に多くの質問を受けた。しかしながら、その質問に対して如何に的確に答えられていたかは甚だ疑問であった。
このような様々なコンプレックスが高まっていた中、駐在して1年半が経とうとしていた2013年5月終わりの週末、いつものごとくブラジル日本移民史料館を訪れ、大武先生の展示コーナーの前に立っていた時、突然雷に撃たれたかのような強い衝動で日本の国家資格である通訳案内士という資格があることを思い出し、受験を思い立ったのである。 その1終わり
その2では、受験のためにどのような努力を重ねたかについて、具体的に紹介したい。