わが国近代化の過程で、絹糸と労働力の米国への輸出は主要な外貨獲得手段であった。ところが、20 世紀初頭から日本人移民が徐々に締め出され、奴隷廃止で労働力の不足していたブラジルのコーヒー園へ仕向けられるようになった。こうして、サンパウロ周辺に日本人が急増した結果、現地社会の警戒を招いたため、移民を分散させる目的でアマゾン開拓が試みられた。
現地では、主要輸出品生ゴムの採取源で森林に野生していたパラーゴム樹の種子を、英国が東南アジアに持ち出しプランテーションを造成したことにより地域経済が低迷し、資本と移民の導入による農業開発を各国に呼び掛けていた。そこで当時、日本最大の売上を誇った鐘淵紡績(カネボウ)が南米拓殖株式会社を設立し、世界恐慌の始まった1929 年、カカオ生産を主目的とする日本人入植地をアカラ市トメアスー区に開設した。
太平洋戦争勃発による移住中断を挟んで、戦前戦後それぞれ2 千余名が日本から入植したが、交通不便な奥地に熱帯病が流行する中、農業経営を安定させる主作物もなかなか定まらず、多数が転出を余儀なくされた。戦前は陸稲や野菜で生計を立て、戦後1950 年代にコショウ黒ダイヤ景気に沸いてトメアスー市が誕生したが、フザリウム菌による立ち枯れが1960 年代から蔓延し、1970 年代以降、後作にカカオや被陰樹で経営多角化を図る遷移型アグロフォレストリー(Sistema Agroflorestal de Tomé-Açu= SAFTA) の試みが続いている。
一方、周期的コショウ高騰で利益を得た農家には、遠隔地に大規模なコショウ園を開くか、牧場やアブラヤシ園に投資、または起業する者もある。今日、1 千人余の日系人が農業等に従事し、文化農業振興協会(ACTA)と総合農業協同組合(CAMTA)に組織されている。トメアスーのカカオは入植地開設から90 年を経た昨年末、東京農工大学、カカオ栽培計画院(CEPLAC)、零細小企業支援機関(SEBRAE)の支援により、パラー州第一号となるブラジル政府産地認証Indicaçãode Procedência “Tomé-Açu”para o Produto Cacau を取得した。

山田祐彰(東京農工大教授)