執筆者:山本 綾子 氏
『ブラジル・カルチャー図鑑』編著者

大学院受験

2014年9月から、ブラジリア連邦大学(以下、UnB)大学院・観光学専攻のAluno Especial(以下、聴講生)となったわけですが、講義を受けた先生方の応援や同じ聴講生の仲間のペースに流されるがまま、翌年1月、無謀にも大学院の正規コースであるStricto Sensuを受験することになりました。

さて、ここからが本番。大学院の試験内容は、

  1. 履歴書、大学の先生からの推薦状、研究プロジェクトなどの書類提出
  2. 筆記試験 2時間
  3. 筆記試験(外国語) 3時間
  4. 口頭試験 20分

難関は、辞書も資料も持ち込み禁止の筆記試験で、2) は観光学分野に関する専門知識、3) は専門分野に関連する外国語(英語、仏語、スペイン語から選択)の文章の読解。いずれも回答はポルトガル語というハードルが高すぎるものでした。

筆記試験は過去3年分の質問を入手し、想定問答を用意しました。その頃、週1、2回、日系人のポルトガル語の先生からプライベートレッスンを受けていて、講義の中で特に分からない部分や提出資料の内容はできるだけチェックしてもらっていました。日本の受験勉強で習得した直前の詰め込み式で、とにかく過去問の答えは暗記して臨みました。答えられない質問には自分が語れる内容に関連付けて、どうにか書くだけ書いて提出。書類提出から口頭試験まで約1カ月。高校時代の受験勉強以来の達成感に満たされ、正直もう勉強はやりきった・・・不合格でもいい、という気分でした。

 

大学院合格! 聴講生から正規学生へ

2015年2月、UnB大学院観光学専攻を記念受験し、予想外にサクラ咲く! 受験者43人中、合格者は29人。外国人はただ一人、学生証をもらい、正式に大学院生になってしまいました。合格したからには続けなければならず、嬉しい反面、不安も大きなものでした。それまで、マイノリティーの私をいつも気にかけてくれて、参考文献なども共有してくれていた同じ聴講生のおじさんが研究課題が特殊すぎたという理由から?不合格となり、なんだか胸が痛い思いもしました。

ペルナンブーコ州出身の指導教官、ゼミの仲間と

3月から本格的に授業がスタート。無理がない程度に、週2日、必修科目である2コマをとりましたが、いずれの講義も毎回Resenha(要約)が課題にでて日々勉強に追われるようになりました。科目は、Metodologia(方法論)とEpistemologia(認識論)。特にEpistemologiaの講義内容は、Edgar MorinやPierre Boudieu、Michel Foucaultなどのフランスの哲学者や社会学者の引用がメインで、辞書をひきまくっても、いくら時間をかけても、ポ語でかかれた文章は理解不能でした。ただ、同級生のブラジル人も全然分からない、何が分からないか分からない!と言っているのだから、私に分かるわけない…と半分開き直っていました。それでも少しだけ理解できることもあり、そんな時は嬉しい瞬間でした。指導教官も決まり、ゼミ毎に分かれたグループ授業もはじまりました。

クラスメイトは学部から来た学生もいれば、観光省で働く国家公務員やホテルマン、公立学校の先生、シェフ、地元の環境保護に取り組む活動家など幅広く、特別マイノリティーである私でさえ、半年も経つと、だんだん全員同志のような気持ちになってきました。

10月スタートの後期では、必修科目2コマと選択科目1コマを履修。必修の「修士論文セミナー」では、引き続き、欧州の古典的な哲学者や社会学者による理論を使った講義が永遠に続き、超難解。課題も多く、いよいよフェードアウトかなと思いつつ、必修を諦めたらこの先ないし、みんなもがんばっているし・・・と逡巡しているうちに、プレゼンの番がまわってきてどうにか切り抜けている、という状況でした。もう一つの必修科目は、指導教官による「読解、文章作成」。自分のプロジェクトを個別に指導してもらう形なので、こちらは手ごたえあり。ペルナンブーコ州出身の女性指導教官はとても丁寧で優しく、本当にありがたい出会いでした。

日本の大学生が消極的すぎることはかなり前から指摘されていますが、おしゃべり好きなブラジル人は、生徒も授業中に輪をかけて活発に発言します。質問から始まり、自分自身の考えや経験を話し、生徒同士で議論になることもあります。先生方はだいたい前半に講義を終え、後半になると度々「Contribuição(貢献)ありますか?」というフレーズを使います。生徒による発言は単なる意見やコメントではなく、授業の内容を深めたり確かめたりするきっかけでもあり、授業に対する「貢献」なんだと納得したものです。引っ込み思案で言葉に自信がない私でも、時々は日本の事情など関連する内容を見つけ発言を試みました。

そんな頃、もう一つ大きな障壁が立ちはだかりました。妊娠して日本まで里帰り出産することになったのです。(・・・続く)

 

認識論専門、マテ茶を常時携帯するリオグランデドスール州出身の教授と