2020年10月
執筆者:佐藤 宗一 氏(協会理事)

仕事の関係でブラジルと日本を行ったり来たり、ブラジル勤務を7回、合計すれば約20年ブラジルで暮らしました。このブラジル滞在における、個性溢れる人との出会い、忘れられない思い出などについて、断片的ですが書いてみました。記憶を頼りに書いたので、間違いや記憶違いがあるかも知れませんが、御容赦願います。

 

★おもてなし

日本は「おもてなし」の国と言われています。しかし、日本だけでなく、どの国にも、その国の「おもてなし」があると思います。ブラジルで経験した「おもてなし」のいくつかを御紹介します。

最初のブラジル滞在は1977年、現地の大学でポルトガル語やブラジルの文化・習慣などを勉強するために、ミナス・ジェライス州ジュイス・デ・フォーラのブラジル人宅に1年間ホームステイしたときですが、町に着いて最初にしなければならなかったのがホームステイ先を探すことです。ポルトガル語家庭教師のL女史に相談したら、L女史は毎日、私を自分の車に乗せ、町中走り回り、一緒にホームステイ先を探してくれました。それだけでなく、一緒に現地の大学に行き、テキパキと入学手続きを手伝ってくれたのです。大変有難いと思ったのと同時に、ブラジル人の親切心と行動力に感心しました。(因みに、最初のポルトガル語レッスンのとき、L女史は「ブラジル人と話しをするときは、いつも笑顔で!」とアドバイスしてくれました。これが私の脳みそに刷り込まれ、人と話をするときは、これを実践するようになったような気がします。)

初めて外国人を住まわせることになったホームステイ先のおばさんは、食事のことが気になったらしく、「日本人は何を食べるのか」と訊ねてきました。「毎日みそ汁を飲む」と答えたかったのですが、片言のポルトガル語では説明するのが難しく、「みそ汁」を「野菜スープ」と言い換えて説明しました。以降、おばさんは毎日、夕食に野菜スープを付けてくれました。

最初の勤務地はポルトアレグレで、このときは妻同伴でした。1979年~82年のことです。妻は、勤務先の上司夫人に勧められ、ポルトガル語も分からないのに現地の婦人会の活動に参加しました。当時の婦人会長は、カシアス・ド・スル出身、イタリア系のEさんで、大変面倒見のいい方でした。それから約30年後のクリチバ勤務時代、妻同伴で30年振りにポルトアレグレを訪れる機会がありました。妻からEさんにその旨を伝えたところ、Eさんは30年前の婦人会の仲間を集め、お茶会を開いてくれたのです。遠方からやって来た昔の仲間への気遣い、「おもてなし」の心を感じました。

 

★多民族国家

ブラジルには、あらゆる民族(或いはその子孫)が住んでおり、従ってその文化・習慣も多様です。もちろん、欧米を含め、様々な国のビジネスマンも駐在しています。これらの人々との付き合いにおいて、思いがけない経験をしたことも多々あります。

 

亭主関白の国で育った私は、最初の海外勤務地ポルトアレグレで、とても恥ずかしい思いをしたことがあります。それは、スペイン人宅でのパーティーが終わり、妻と一緒に、道路に駐車していた車に向かって歩いていたときに起こりました。知り合いのアメリカ人(独身男性)も、同じ方向に車をとめていたので、一緒に歩いていましたが、薄着だった妻が「今日は寒いですね」と言ったとき、このアメリカ人が予期せぬ行動に出たのです。何と、自分の上着を脱いで、妻の肩にかけてくれたのです。そんなことは夫の私がやるべきだったのに。これを契機に、「寒そうにしている女性がいたら、自分の上着を脱いで女性にかけてやろう」と決心したのですが、未だそのような機会に巡り合いません。

南部はドイツ系・イタリア系住民が多いですが、日系と比較すると、色々と面白いことがあります。昔と今では違うかもしれませんし、また家庭の教育方針によっても違いはあると思いますが、一般的に、日系は言葉も文化・習慣も直ぐにブラジルに溶け込む傾向があるように思われます。二世でも日本語を解さない人が多いし、サッカーで日本とブラジルが対戦すれば、当然ながらブラジルを応援します。一方、1978年のワールドカップでイタリアとブラジルが戦ったとき、イタリア系は日系とは違う態度を示したので、興味深かったです。イタリア系住民が大部分のカシアス・ド・スルでは、イタリアを応援したのです。

ドイツ系は、ドイツの文化・習慣を次世代に継承しようとする意識が強いように思われます。ポルトアレグレ勤務時代、上司の家に二人の女中(ドイツ系4世)がいましたが、彼女たちはドイツ語を解し、話を他人に聞かれたくないときはお互いにドイツ語で話していました。実家のある田舎(モンテネグロ)ではドイツ語が通じ、実家ではドイツ語で話しているとのことでした。

 

ベレン勤務時代(1990年代末)、マラニョン州の日系人協会を訪問し、日本語学校の校長先生(戦後移住者)と日本語教育について意見交換をしたことがありますが、そのとき、校長先生の口から出た言葉に少しショックを受けました。校長先生は「自分の娘(二世)には、日本語は勉強しなくてもいいから、英語を勉強するようにと言っている」と言ったのです。校長先生によれば、将来役に立つのは、日本語より英語だということでした。確かに、大学受験や就職など、ブラジルで生存競争に勝っていくためには日本語より英語のほうが役に立ちます。日系は日本語を勉強するのが当然と思っていた私にとって、少し残念な話でしたが、「目から鱗」でもありました。

 

★個性溢れる人々

2007年~2010年の約3年間、パラナ州の州都クリチバで勤務しました。クリチバが、最後のブラジル勤務地でした。パラナ州の日系人口は推定約15万人、サンパウロ州に次ぐ規模です。州内の多くの市町村には日系人協会が設立されており、クリチバ在勤中、そのうち50以上の日系人協会を訪問したと思います。市長が日系人である市町村も幾つかありました。

日系市長で強烈な印象を受けたのが、ウライ市長のI氏です。I氏は90歳で市長に当選した豪傑です。私はI氏にお会いした時、「ブラジルで最高齢の市長ですか?」と尋ねました。これに対し、I氏は即座に「Não!(いや)」と応えました。さて、I氏はそのあと何と言ったでしょうか。「Do mundo!(世界で、だよ)」と力強く言ったのです。

I氏から聞いた話で、ほかにも記憶に残っていることがあります。I氏は赤ん坊のときに両親に連れられて来伯、サンパウロ州で育ったそうです。十代の終わりごろ、新天地を求め単身パラナ州に転住、ラミー栽培を手掛けて大成功し、「ラミー王」と呼ばれたこともあります。さて、ラミー栽培を始めるための資金はどうしたでしょうか。「宝くじに当たり、それを資金に事業を始めたんだよ」とのことでした。

私が訪問した当時、I氏はオレンジ栽培を中心に、大規模な事業を行っており、地元ウライ市の経済を支えていたほか、パラグァイ国境に5千ヘクタールの農地を所有していました。その農地管理のため、I氏は夫人と一緒に、毎月2回、午前二時に自宅を出発、自ら車を運転してパラグァイ国境まで行き、農地を見回り、労働者に賃金を払い、翌日には帰宅するということをやっていました。日本では高齢者の運転が問題になっていますが、I氏は90歳で車を運転し、パラグァイ国境までの何百キロもの距離を往復していたんですね。そのバイタリティに圧倒されました。

 

クアルト・センテナリオの日系市長も印象の強い方でした。この方は日本に出稼ぎに行き、日本で大型二種の運転免許を取得しました。周りの日本人から「大型二種の免許取得は日本人でも難しいのに、外国人が取得するなんて奇跡だ」と褒められたそうです。そして、岐阜県でバスの運転手として働き、出稼ぎが終わって帰国したとき、丁度市長選挙があり、これに立候補して当選したとのことです。

私が同市を訪問した時、市長は自分の車に私を乗せ、自ら運転して市内を案内してくれました。日本では考えられないことです。(因みに、昔ドミニカ共和国で勤務していた時、環境大臣が、自ら運転する車に私を乗せ、環境プロジェクトの現場を案内してくれたことがあります。これも、日本とは違いますね。)

 

もう一人、御紹介せずにはいられない人がいます。バチスタ手術を考え出したことで知られる、心臓外科医のバチスタ博士です。バチスタ手術は、かつて日本で流行ったテレビドラマ「チーム・バチスタの栄光」のテーマにもなりました。博士は日系ではありませんが、日本とは関係が深く、何度も訪日し、日本の医療関係者に会っています。

ある日、バチスタ博士が私を訪ねてきて、心臓病院建設計画について説明してくれました。長身で、迫力のある方でした。そのときはクリチバ市内に建設することを考えていたようですが、紆余曲折があり、結局、建設地はクリチバの北西数百キロに位置するアプカラナに決まりました。アプカラナの日系人協会が、協会の敷地の一部を病院建設のために提供することになったようです。バチスタ博士の案内で、建設中の心臓病院を見学したことがあります。協会の敷地は広大で、会館の周囲には桜が植えられており、桜の季節には桜祭りが開催されます。桜の木を見ながら会館の脇を通り、森の小道のようなところを数分歩いていくと、建設中の病院が目の前に現れます。病院の前には大きな沼があり、沼に面して佇む、森の中の病院という雰囲気です。入院患者は素晴らしい自然環境の中で過ごすことができます。建物の設計にもバチスタ博士のアイディアが随所に盛り込まれていました。例えば、できるだけ自然採光を利用する構造になっていました。あれから十数年が経過しており、その後、この心臓病院はどうなったのか、気になっています。

 

★その他

◎ポルトガル語のこと:ポルトアレグレ勤務時代(1980年前後)、リンゴ栽培技術協力のため、JICAからサンタカタリーナ州に派遣されたT博士から聞いた話です。博士はポルトガル語が分からないので、着任後半年近く、毎日レストランでホットドッグばかり注文していたそうです。

因みに、私は「Suco de Laranja(オレンジ・ジュース)」の発音が苦手でした。レストランで注文してもなかなか通じません。ただ、これは私だけではないということを知り、少し安心しました。スペイン語が堪能な上司が話してくれました。レストランでどうしても通じないので、やけくそになり、「Jugo de Naranja」とスペイン語で言ってみたら通じたので、がっくり来たそうです。

 

◎虫を食べる:ベレン勤務時代(1990年代末)、木材加工の進出企業E社を見学したとき、社員の方から聞いた話です。川に浮かべて貯蔵している丸太に、現地人が「turu」と呼ぶ30センチぐらいの細長いミミズに似た虫が巣くっていることがあり、見つけたら、そっと引き抜いて、そのまま酢醤油につけて食べると美味しいとのことです。滋養になるそうですが、残念ながら(幸運にも?)、これを食べる機会はありませんでした。

 

◎ネズミを食べる:ベレンのゴルフ場には、ときどきGambaという大ネズミに似た動物が現れます。在留邦人がゴルフをしていたとき、Gambaを見つけ、捕まえて刺身にして食べたら美味しかったそうです。ただ、食べた一人が寄生原虫に感染し目を患ったと聞きました。生では食べない方がいいようです。

 

◎カラオケを覚える:私がカラオケに目覚めたのは、2回目のサンパウロ勤務(2002年~2004年)のときです。同僚に誘われ、カラオケ・ナイトクラブに通っているうち、歌う楽しみを覚えました。問題は、混んでいると、自分の歌う順番がなかなか回ってこないことです。そのうち、開店早々に行けば空いていることが分かり、仕事が終わるとカラオケに直行、客のいない店内でマイクを独占、十数曲続けて歌って帰宅するということが習慣になりました。日本の歌謡曲を歌っていましたが、MPBも何曲か歌えるようになりました。(現在はカルチャーセンターでボサノバを習っていますが、当時はボサノバに関心がありませんでした。あのとき、本場のボサノバを習っておけばよかったと、つくづく後悔しています。