松下和江 ( ㈱アバンセコーポレーション )
サンパウロ州の中西部に位置するバウルー市は私の生まれ故郷だ。1896 年に創建され、2020年の人口は IBGE(地理統計院)調べで約 38 万人、サンパウロ州で 18 番目に人口が多い都市だ。鉄道・幹線道路の分岐点となる交通網の要所で、サンパウロ市までは約 300km、直行バスが頻繁に出ており片道 3 時間半ほど。バスターミナルはCOVID-19 流行前では週平均約 2 万 5 千人の利用客で賑わっていた。
バウルーと言えば「学生の町」としても有名で、サンパウロ大学(USP)や州立パウリスタ大学(UNESP)のほか、多数の有名私立大学や専門学校のキャンパスがある。サンパウロ州だけではなくパラナ州やミナスジェライス州などブラジル全域から学生達が集まり、近隣の町からは貸し切りバスで通学する学生も多い。その学生達もこぞって食べる全国的に有名な食べ物がある。その名もズバリ「バウルー」この町の名を冠したサンドイッチである。1934年に町のスナックバー「LanchonetePonto Chic」で当時法学部の大学生でもあり、ラジオ番組の DJ でもあったカジミーロ・ピント・ネットが創作したサンドイッチと言われ、現在はハム、チーズ、トマトのホットサンドとして広く知られている。しかし、発祥店ではローストビーフ、モツァレラチーズ、スライストマト、ピクルスをオレガノとサルサで調味しバゲットで挟んだサンドイッチがオリジナルレシピである。
ついでに紹介しておきたいバウルー豆知識は、宇宙飛行士で初のブラジル人マルコス・セーザル・ポンテスの故郷であり、サッカーの王様ペレーが幼少期を過ごした町でもある。そして、バウルーは日本人移民とも深い関係がある。日本人の移住が始まった 1908 年(明治 41 年)当時はコーヒー農園の契約労働者としての出稼ぎ移住であり沢山の日本人が入植、バウルーはたちまち日本人移民の中心地となり日本領事館が置かれ、邦字新聞(『聖州新報』)が発行された。現在でも多くの日系人がバウルーに住んでおり、日本人・日系人世帯数は 2016 年時点で2 千 2 百、約 9 千人と推定される。私が家族と住んでいた頃もしょっちゅう日系人の集まりがあり、子供会、青年会など活発に交流があり積極的に参加していた。また日本文化に基づく行事が 1 年を通して盛り沢山で、本当に楽しい青春時代を過ごした大切な故郷である。