執筆者:金森卓蔵 氏
(元三菱商事ポルトガル語研修生)

 

ブラジルには全く関心がなく、ポルトガル語を話したいと考えたことがなかった私が、何故又どのようにして三菱商事のポルトガル語研修生となり、ブラジルをこよなく愛する一人として長年にわたり(途中で関係が途絶えましたが)ブラジルに関わってきたのかをエピソードを交えて綴らせて頂きます。

 

  • ブラジルとの初めての出会い
  1. 1973年三菱商事に入社した時、同期のある人物に四谷にある“サシペレレ”というブラジル音楽を聴かせる店に連れて行かれて、そこであの気だるいボサノバと激しいサンバという全く別世界の音楽と踊り(可愛いカリオカ娘の歌手にも)に魅了されたことが事の始まりです。
  2. 当時私は米国の大学留学から帰国し、次はフランスと考えていたのですが、その人物からこれからはブラジルの時代になると吹聴されその気になりましたが、ブラジルとポルトガル語の知識が皆無だった為、上智大学の夜間講座を受けてみました。受講後、非常に興味を持ち、彼から上智大ポルトガル語科卒の女性を紹介して貰い、会社の食堂でポルトガル語の個人授業を受けるほどに入れ込みました。その勢いで会社のポルトガル語研修生の試験を受け、晴れて合格しました。研修地は、上智大と提携していたカトリック大学(PUC)があるポルトアレグレが良いということ(加えて美人の産地)なので、会社に要望し、ポルトアレグレに決まりました。

 

  • ポルトガル語研修生@ポルトアレグレ
  1. ポルトアレグレでの出来事
  • 1975年12月29日にサンパウロ経由ポルトアレグレに研修生として着任しました。着任後間もなく事件が起きました。12月31日は、大晦日のフェスタがプライベートクラブであるということで、私の下宿先を紹介してくれた三菱商事同期の研修生及び別の会社から派遣されていた研修生の方々そして下宿先のDonaにポルトアレグレ郊外にある会場へ車で連れて行かれました。ブラジルにおける大晦日のフェスタ(Réveillon)は、ご存知のように2月のカーニバルの前哨戦で夜を徹して踊り狂います。その会場は、広大な敷地にあり、人の数も多く迷子になってしまいました。問題は下宿先に帰る手段がなく、途方にくれていたところ、その場に居たブラジル人カップルが話しかけてくれて、私がポルトガル語を片言しか話せないことが分かると英語で会話してくれました。私が事情を説明すると、同情してくれて彼の家に泊まりに来ないかと親切に誘ってくれました。最初は躊躇いましたが、信用のおけそうな人に見受けられたので、泊めさせてもらうことになりました。彼の家は瀟洒な家でしたので、その夜は安心して休むことができました。どこの馬の骨かわからない外国人の私を泊めてくれるブラジル人の寛容性に感謝したと共に、翌日の家族を挙げての歓待に大いに感激したことを思い出します。一方、下宿先では、私が迷子になり帰ってこないので、警察を呼び大変なことになっていました。何とか無事に下宿先に帰ることができましたが、初端から忘れられない出来事となりました。
  • 下宿先のDonaの紹介で、Baile de Galaという蝶ネクタイを着用しなくてはいけないフォーマルなパーティーに参加しました。日本人は私だけで心細くしていたところ、ある女性と出会いました。彼女の家庭は、厳格で会うのは家の中だけで外出は許されませんでした。何回か会ううちに信用を勝ち取り、外出が許されました(但し、妹のカップルの同伴が条件)。門限は12時までの約束でしたが、時間に寛容なブラジルなので少し位遅れても大丈夫かと思い、彼女と妹を門限を過ぎた時刻に送り届けたところ、彼女のお父さんが突然ドアを開け怒鳴って出てきて、約束を破った私に向かって銃を向けたのです。これで終わりかと思いましたが、幸いお母さんが球を取り除いておいてくれたお陰で、九死に一生を得た次第です(後日談は省略)。なかなか日本では経験のできない社会勉強をさせて頂きました。
  1. リオ・グランデ・ド・スウ連邦大学経営大学院入学

約1年間PUCの聴講生並びに家庭教師に付きポルトガル語を勉強した結果、日常会話はある程度のレベルまで上達しました。ただこのままでは、限界があることに気付きました。そこで、これ以上レベルを上げるためには正規の学生として大学で勉強し、同じ釜の飯を食うAmigoを作ることが必要であるとの思いに至りました。ポルトアレグレにリオ・グランデ・ド・スウ連邦大学経営大学院があることを知りましたので、そこに飛び込みで相談に行きました。直談判した結果、熱意が伝わると共に私が日本と米国の両方の大学を5年で卒業したことを評価してくれ、特別に英語で入学試験を受けさせてくれました。運よく試験に合格し、1977年1月から同大学院の正規学生として勉強することになりました。時間の関係で卒論を終了することは出来ませんでしたが、1年半で大学院履修科目は全て終了することが出来ました。これも同じ釜の飯を食ったAmigoの助けのお陰だと思います。拙いポルトガル語にも拘らず親切に指導をしてくれた教授との出会い、寛大な心で私を受け入れてくれたブラジル人学生仲間と一緒に勉強し議論し合ったことは、掛け替えのないポルトアレグレでの想い出です。このAmigo関係は、後日三菱商事サンパウロ駐在時並びにジェトロの新興国進出支援専門家としてポルトアレグレを訪問した際に、仕事でも大きな助けになりました。

 

  • サンパウロ駐在、ジェトロ専門家そしてポルトアレグレ会
  1. 1978年6月に日本に帰国した後、1982年1月から86年6月まで伯国三菱商事サンパウロに駐在しました。当時ブラジルは、モラトリアム寸前でした。フィゲレード大統領(当時)が訪日することになり、訪日前に三菱の代表者と会いたいとの要請があり、急遽伯国三菱商事社長にお供をして、同大統領とお会いすることになりました。その会合も踏まえ、外貨不足の危機を救うべく伯国が必要とする機械部品の輸入と実績のない機械部品輸出を紐付け、ブラジルで直接的な外貨決済を行うことのないカウンター・トレードに奔走したことを思い出します。また、発電プラントを担当していた私は、リオ・グランデ・ド・スウ電力庁がお客様で、大学院時代のAmigoが同電力庁に勤務していたこともあり、仕事をスムースに行うことができました。この時にブラジルで如何にAmigo関係が大切かを肌で感じました。2年半に亘りポルトアレグレで研修をさせて頂いた会社に少しは恩返しができたのではと思った次第です。
  2. 時は経ち2014年にジェトロの新興国進出支援専門家として日本の中堅・中小企業の方にお供して久し振りにブラジルに5回出張しました(三菱商事から三菱電機に移籍後、2001年にブラジルに出張して以来)。その際、支援の関係でポルトアレグレを訪問した際、Gaucho(リオ・グランデ・ド・スウ出身者)のAmigoの娘さんが、偶々海外投資を促進支援する部署で仕事をされていてガイダンスして頂きました。また、大学院時代の仲間が自宅でchurrascoをご馳走してくれ、旧交を温めることができました。長い間交流が途絶えていましたが、それには関係なく、ブラジル人、Gauchoの心の広さを改めて感じました。
  3. 当時ポルトアレグレで研修、駐在、留学したことのある方々にお声掛けをして、数年前からポルトアレグレ会を東京で年に1回開催しています。20名近くの方々が集まり、タイムスリップして当時の懐かしい想い出に浸るだけでなく、近況報告をし合い旧交を温めています。ポルトアレグレの縁で、知り合うことのなかった方々とも結ばれています。昨年は、コロナ禍のためオンラインで懇親会を開催しました。45年近く経っても忘れられない陽気で楽しい港“Porto Alegre”は、我々にとって永遠です。

 

以上長々と個人的なエピソードを僭越ながら想い出を込めて綴らせて頂きました。現在ブラジルはコロナ禍で社会的にも経済的にも大変厳しい状況にありますが、我が愛するブラジル人、特にGauchoの心意気は変わらないと信じています。寛大で多様性の国ブラジルがこの困難を乗り切ることを切に願ってやみません。