執筆者:サンパウロ在住 寺原真治 氏

1957年(昭和32年)、兵庫県明石市の明南高等学校(前明石市高等女学校,現 県立明石南高等学校)の2年生、17歳の時、生物課を担当していた高島義男先生を訪ね、ブラジル移住について相談した。先生は、戦前、宇都宮高等農林を卒業後、高等拓殖学校へ入学し、1935年に3回生73 名と共に、アマゾナス州パリンチンス市近郊へ入植した。その後、1940年に病気を患い日本に帰国された。

1956年、小生より3年先輩の向井匡さんが、先生の伝手でパラ州アカラ群トメアッスウ植民地に、沢田さんの呼び寄せ移民として渡伯した。 小生は1958年3月に卒業し、5月初旬ブラジル丸の 7航海目、神戸港から横浜港を経てパナマ運河を経由、ドミニカ国に移住者をおろして6月10日ベレン港に着いた。

1954年に、マナウス市対岸カカオペレイラ郡に戦後移民が入っており、1958年11月にはマナウス市イタコチアラ市の中間 41kmsに移民が入植した。

1958年当時の日本の状況は、人口8千万人(2020年1億2千万人)、国家予算1兆円(2020年100兆円)、1ドル=360円(2020年105円)、首相は岸信介(現安倍首相の祖父)、学卒給料は大卒8千円(22.2ドル)、高卒5千円(14ドル)。戦後13年、当時まだ満州、シベリアから舞鶴港に引揚者が着いていた。 朝鮮戦争が休戦となってから5年、世の中幾分かは明るい兆しが見えだしていたが、まだまだ社会全体の生活は苦しかった。 講和条約は1952年に発効し、日本は 独立国となったが未だ大阪,神戸には戦勝国米国の蒲鉾兵舎が存在していた。                1958年の特記事項は、米国人工衛星1号打上げ、関門トンネル完成、一万円札発行、東京タワー完成、売春防止法施行で遊郭廃止、プロ野球巨人の長嶋初登場、対国鉄戦で金田投手から  4打席すべて三振を取られたが、翌年の天覧試合で満塁ホームランを放った。また、皇太子と正田美智子さんが婚約し、翌年4月に結婚。

当時のブラジルは人口7千万人(2020年2億2千万人)、ジュッセリノ大統領在任当時、ブラジリアに首都を建設中で1960年に完成した。各国から移民を受け入れていた。戦後の日本からの移民は1954年に再開し、1973年まで船便で5万人が移民した。コチア青年移民も1956年に始まり2508人の若者が移民した。八月サッカー世界選手権スウェーデンにてブラジル初優勝、ペレとガリンシャが大活躍。

戦後移民は小生も含めて渡航費は日本政府からの借金というかたちであったが今まで請求はない。戦後移民はブラジル、ドミニカ、ボリビアに及んだ。当時政府としては出来るだけ多くの日本人を移民させる事が主目的であった。 ベレンで下船し、トメアッスウ植民地で働いていた向井先輩を訪問後、ベレンに帰り海恊連の大智栄(高拓1回生の引率者)さんの手配で水上飛行機に乗り、 5時間かけてマナウスに着いた。ベレンでは安井宇宙(高拓4回生)さんのお世話にもなった。  飛行場では小野トビアス君の出迎えを受け、呼寄者である諏訪敏夫さん宅着、この方は力行会出身で、1935年頃ペルー国イキトス市に単身移民した方で1940年頃マナウス市に越してきた。   1953年頃までManacapur市から20㎞上流のRio Solimoes川沿岸で商店、牧畜とバナナ栽培をしていたが、1953年の大洪水の影響でマナウス市へ移転し、水上家屋(Flutuante)でバナナの卸販売を経営していた。当時港から下流にかけて約5千軒の水上家屋が存在、ちょっとした部落のような存在であった。1967年、マナウス市が自由貿易地域(Zona Franca)になった時点にておいて全て取り壊された。

当時マナウス市で海恊連の責任者であった高村さん(高拓生3回の引率者)の紹介で、諏訪さんに呼び寄せて頂いた。約1年水上家屋でバナナ売り、又並行して中央メルカードのスタンドでも バナナ売りをした。 鈴木五郎さん(高拓3期生)が、Manacapurの農場へ諏訪さんがマナウス  移転後にマナウスから家族一同で引っ越し農場の支配人としておられた。鈴木さん宅で1年間 ジュート栽培、牛の世話、農場の仕事を手伝った。鈴木さんの長女カナコちゃん(当時5歳)が、川の沿岸で水浴中溺れ下流に流されていたのを救助したこともあった。

マナウスに帰り再度バナナ売りをした。丁度そのころ高校の1年先輩の植木さんが、高村さんの 紹介で野菜の卸し販売をしていた井上さんに呼び寄せられた。前後して高校の1年後輩の枝村が諏訪さんの呼び寄せで渡伯、6か月後に退職してマデイラ川とアマゾン川の合流点で中島さん(高拓1回生)杉山さん共営の仲買商店、牧場へ移った。その先に高校同級生石丸が、小生渡伯半年後やはり高村さんの仲介でマウエス市の武富さんに呼び寄せられた。高島先生経由で同校生、向井、寺原、石丸、植木、枝村の5名が渡伯した。

向井さんは6年間トメアッスーに滞在後、サンパウロ州インダヤツーバ市のヤンマーヂイゼル社に勤務し、約25年前に同社を停年退職、現在同市にて健在。石丸は5年間ぐらい武富さん宅で働いた後、マウエス市近郊で自立、約20年前マナウス市へ移り5年前に死亡した。植木さんは   5ヶ月間井上さんのところで働いた後退職、小生も諏訪さんを退職、目的は二人で野菜作りをする事であった。植木さんとは2か月間一緒に野菜作りをしたが、自分には向いていない事を理由に脱耕してサンパウロ市へ移り、当時の東山銀行に入社し5年勤務後退職、日本に帰国した。枝村は中島さんを3年間務め退職し、ミナス州の当時創設されたばかリのウジミナス社に入社、約15年前に停年で退職、その後の消息は不明。

植木さんとの野菜作りであるが、両者とも野菜作りの経験は無く、上手く行けば儲かるかもしれない、ブラジルまで来たのだ、安い給料でいるより独立しようと単純な考えであった。3か月間、カカオペレイラ郡の橋口さんの野菜園で研修後、マナウス市から約100㎞,アマゾナス川のMachantaria島の一画 2千平米の土地を借りて野菜作りを始めた。まず住む家を作る必要があり、屋根、両側の壁、入り口はヤシの葉を合わせ、床の間は板で20平米の掘建小屋(Barraca )を2日で作り上げた。寝床はハンモック(6年間アマゾン滞在中ずっとハンモックで過ごした)、夜は 石油ランプ、水は川水、石油コンロで食事を作り、内容はチャンコ鍋 コメ、缶詰め、野菜 他入れるものを全て入れ、昼、晩の食事、それで約1年半を過ごした。

皿は洗う必要なく、食事後そのまま地面に置いておくと、小さな蟻の集団がアッという間にきれいにしてくれ、その皿を乾いた布で拭けば終わり、手が掛からなかった。(蟻が鍋に入らないようにしたが、入り込んだ蟻を噛んで食べた味は苦かった。そのせいかどうかアマゾン滞在中マラリア、その他の病気にも罹らずに過ごした)資金、野菜の種、肥料などは橋口さんから融資を受けた。彼は中央市場のスタンドで野菜販売をもしていたので、作った野菜を彼に渡す事で決済とした。

朝から日が暮れるまで、満月の夜は12時ごろまで働いた。 トマト、キャベツ、ピーマン、スイカ等を植えたが、最初のトマトの花が咲き始めた頃に根腐りが入り2千本全滅、そんな事もあり植木さんはがっくり。 始めてから3か月で脱耕、サンパウロに行ってしまった。

その後は1人で1年3ヶ月、朝昼晩 黙々と働いた、約2ヶ月間 誰とも話しをせずに過ごした。 最初に出来たキャベツ、スイカ、ピーマンをカヌー(長さ10m、横幅1,5m)に満載し、夜の7時頃自宅を出てソリモンエス川を下り、リオネグロ川に入り横断、マナウス市側沿岸をカヌーで漕いで朝の 5時ごろ、8時間かけてマナウスの市場に着き橋口さんに渡した。リオネグロの水色は真っ黒、闇夜は視界がなく遠くに見えるI.B.Saba石油精錬所の明かり、それを過ぎマナウス市の明かりを方向進として行ったが時々側を通るモーター船の波をかぶり危うく転覆しそうになった事もあった。3回ぐらいカヌーで行ったがそれでストップ。今から考えると良くそんな事が出来たのか、21歳の若さであった。以後皆さんの勧めで橋口さんの船外機(Motor de popa)で取りにきてもらった。

野菜作り1年半、融資を全て決済、マナウス市に移り、橋口さんの水上家〈Flutuante〉で厄介になっていたがしばらくして、イタコチアラ市近郊レマンソ郡のI.B.Sabba社の砂糖キビ試験所に誘われそこの主任をしていた孝橋さんの世話になった。そこで試作した砂糖キビ各種をマナウス市のINPA(Instituto Nacional de Pesquisa do Amazonas)に持っていき、糖分その他の分析を月に15日間ぐらいマナウスに滞在。その仕事を約一年半おこなった。孝橋さん構成家族の一人として働いていた孝橋リュウコウさんと一緒に退職し、マナウス市へ移転、モーター船を購入して野菜をマナウス市で購入してマデイラ川のノヴァオリンダ郡のペトロブラス社(Petrobras S/A)石油試掘所に販売していたが約3ケ月で他社に取られた。

孝橋さんとの仕事もそれきりとなった。その後1ヶ月間マナウス市で風来坊生活をしていたところ、中山さんからパラ州アレンケール市に行ってみないかと誘われ、彼のモーター船で同市を訪問、仲買商売をやっていた池上さん(高拓生3期)と、同じく仲買商売をやっていた岩坂さんを訪問、同地における可能性を打診したがあまり期待できなかった。マナウス市に帰ったのが4月初旬、1964年革命が3月末に発生、軍事政権が始まりカステロブランコ大将が大統領となった。

当時24歳、これから先如何すれば良いか悩んだ、この地で留まるべきか、我々のような単身者で生活基盤の無い1世は数少ない日系社会人の中での結婚は到底無理、現地人と結婚かとも考えた。結局将来の事も考え、サンパウロ市へ移動する事に決めた。

マナウス市及び近郊に6年滞在したが、その期間中、多くの方にお世話になった。高拓関係の方では、藤田さん、高村さん、鈴木五郎さん、土師さん、内藤さん、中島さん、宮地さん、三輪さん、佐藤さん、芹沢さん、その家族の方々。呼び寄せて頂いた諏訪さん、水上家屋(Flutante)に住んでいた井上さん、矢部さん、橋口さん、高木さん等、対岸の植民地の寺野さん、野地さん、橋本さん、大谷さん、木幡さん、井出さん等、41植民地の若者たち、マナウス市の羽田さん、同年配の若者、友田、中村、岩永、村田、安井宇宙さんの弟、諏訪さんで一緒に働いていた神田、松井さん方々であった。1964年5月中旬、6年間住み慣れたアマゾンを去りブラジリア首都経由でサンパウロ市に着き、植木先輩の寄宿舎(ペンソン)リベルダーデ街のサンジョアクイン通りを訪ねそこを仮住まいとした. 就職先を探す事で援護協会(文化協会)を訪ね高橋所長に面会した。主として戦後移民の青年達の就職斡旋をしていた。1959年8月創立したブラジル特殊陶業(NGK Do Brasil 、工場はモジダスクルゼス市(本社は名古屋市、日本特殊陶業―森村グル‐ㇷ゚)でブラシルでは主であるスパークプラグとタイルを生産へ紹介され、小林朗社長(後本社副社長、副会長)に面会、その場で採用決定、モジ工場倉庫係に勤務することとなった。その節、社長から10年間頑張れば家が買えるようにすると云われた。(彼は大器晩成タイプのような男だから大事に育てよ、と当時の役員に話したそうで、その役員が退職する際に小生に語った)

1964年6月初旬当時の最低給料で入社、倉庫係責任者、モジ市内の寄宿者に住んだ。赤道直下マナウス市から着の身着のままでサンパウロに来たので冬着は無く、その冬は半そで、夏服で過ごした。手先、足先に霜焼けが出来大変であった。仕事は倉庫管理、生産商品コントロール。2ヶ月程して給料を3倍ほどアップしてもらった。 1年後に経理部に移り半年後に会計責任者  金庫番を任せられた。1年後サンパウロの営業課に転勤し、定年で退職した60歳まで33年間 営業で過ごした。

モジ工場からサンパウロ営業に配属直後、モジ市イピランガ病院オーナ森先生の兄である歯科医の森先生の仲介で花岡一夫(1942年Casarao de Chaお茶工場を建てた宮大工、現在国の重要文化遺産。)の5女、花岡スミエと見合いし、1968年7月に結婚。今年で52年となった。当時モジ市内で自動車メーカ販売店に勤めていた。以後サンパウロ、リオ、ポルトアレグレ、サンパウロと小生の配属先で仕事を見つけ共稼ぎで協力してくれた。

営業部での仕事は、NGKプラグのシェアー拡大であり修理工場、自動車部品店、自動車販売店への訪問、カタログ、宣伝物の配布を行い取り扱い協力依頼した。当時のマーケットシェアーはChampion40%、Bosch30%、NGK 25%、Marechal 5%であった。サンパウロ市内、サンパウロ州、ミナス州、パラナ州、サンタカタリナ州、リオグランデ州を宣伝車で訪問、月の内20日間は出張した。ちなみに退社(2000年6月末)時点当時のシエアーはNGK75%、Bosch25%。 Champion、Marechal は伯市場から撤退した。 3年後の1970年、リオデジャネイロ市の営業所に所長として転勤、プラグ、タイル、特殊セラミックの販売、政府との交渉業務が主であった。リオ勤務6年間中の特記事項としては、日本から企業進出企業が盛んな時期で使節団も多く、名古屋周辺企業オーナー達は、サンパウロでの業務終了後リオを観光するため、その際には付き添い案内役をした。 昼は市内観光、夜はショウ、ボアチーで一服。キリストの像とポンデアスカルには30回以上登り案内した。リオ市とニテロイ市を結ぶ海上大橋が1975年に完成した。当時、バーハデチジュッカ地域は一面野原であったが今は一帯が高層高級ビル、高級コンドミニオ住宅が建ちならび大きな町を形成している。販売業務はリオ州、エスピㇼトサント州のプラグ卸代理店への販売、並行して部品店、修理工場、自動車メーカデイ―ラーへのプロモーションを。建材店、建設中ビルへのタイル販売を行った。リオ国際航空港建設中で、そこに15万平米のタイル売り込んだ。リオ地域でプラグ市場シエアー60%が確保できた。家内スミエはリオ滞在中の6年間 監査法人Artur Andersen社に勤務した。

1976年2月にポルトアレグレ営業所責任者としてリオから転勤、3年間プラグ、タイル販売を促進した。リオグランデ州全地域を巡回プロモ―ションを実地。当地域でプラグシェアー70%にアップした。家内スミエは州立総合病院に勤めた。1979年2月、サンパウロ営業本部に帰り販売総括業務責任者になった。会社は1980年エクアドル国首都キトー市近郊にプラグ工場を建設した。稼働開始した直後の1981年から1年間、販売網を作る目的で単身赴任してエクアドル国内主要都市を巡回、代理店配置した。販売網完成後、本部サンパウロに戻りプラグ、センサー、プラグコード市販及び自動車メーカへの組付け用、メーカから自社デイラ―向け補修向け販売の責任者として国内の代理店、自動車メーカを総括。 月の内15日間は主要都市への出張であった。その後、特殊セラミック、タイルの販売も担当、並行して南米諸国向け輸出販売も行うと同時に、販売総括担当者として活動した。2000年6月末、社内規定の60歳で定年退職した。計36年間ブラジルNGK 社に働いた。販売責任者として勤務中、代理店、自動車メーカの購買担当者、部品メーカ販売担当者、競合メーカ等との会議、その後夕食、1週間の内3日ぐらい帰宅するのが夜2時過ぎ、翌日朝8時には会社に出勤、今から振り返ると良く体が持ったと思う。

在勤中の1975年、伯国主要代理店5社のオーナを引き連れて日本本社訪問、および観光をした。日本を出てから17年ぶり帰日であった、以後退社まで2回、仕事で日本に出張した。販売担当責任者としてシェアー確保、アップは勿論の事、インフレとの闘いの連続であった、1か月20%の時もあり、レアル通貨が設定された1994年まで平均して月8%のインフレ、少しでも価格調整が遅れると、収益なし赤字となるので何時も前おこしで調整をした。 競合社、自動車部品メーカ、 客先、自動車メーカ幹部との話し合いを円満に行う要があり苦労した事を思い出すが、良い勉強になった。NGKでの36年間、モジ市、サンパウロ市、リオ市、ポルトアレグレ市、エクアドル国で働き又ブラジル国内、中南米国への度重なる出張での貴重な体験、経験が出来た事今でも感謝している。

家内はサンパウロに帰ってから監査法人Delloit Tohmatsu 社に働き2002年定年で退職した。

結婚して10年経ったが、子供が授からず養子をとる事とした、ポルトアレグレ在任中に知った修道院尼さんの世話で1979年7月、出産後2日の女の子、同じく1981年12月に出産後2日の女の子、共にブラジル人を授かった。長女、次女とも現在、小生、家内と一緒に郵便局を経営している。

60歳での退職時、子供たちは未だ大学生、働く必要があった。仕事先を物色中、リベルダーデ 地域に特定郵便局(Franquia)の売り出しがあった。3人の共同経営者の内1人分(25%を保有)を退職金の一部を使い購入した。仕事は店頭販売(Balcao)アップと、郵便物を大口扱いしている企業の開拓、小型運送車、トラックで回収する仕事であった。今までの経験からしてこの仕事は苦難とは感じなかった。半年後もう1人の共同経営者分25%を購入、50%となった。

2年後、近郊市イタクアクエセツバ市に売り物があり購入した、家内と娘2人が担当経営した。2007年50%を保有する共同経営者の分を購入、100%自分の物とした。2社で計40名の従業員を抱え、客先も増え順調に行っていたが2008年、10年毎の入札更新の際に、リベルダーデ郵便局は無事更新出来たが、イタクエセツーハ市郵便局は当地出身の国会議員、市長と郵便局地域責任者が  グルになり取られてしまった。郵便局は100%国・政府のものであり、州、郡においての入札は  汚職、不正事項が付き物で有る事がしみじみと感じた。取られた後、そこで3年間運送会社を経営していたが郵便局が支店開設を認めたので日伯病院近くに支店を開設して運送会社を閉めた。現在、本店と支店で従業員45名、運送車12台でもって経営している。

退職後この仕事について20年、お蔭さまで家族全員元気で一緒に働き頑張っている。家内スミエはこの52年間、陰に陽に良き理解者として頑張ってくれた。感謝をしている。又こども達も 経営者として成長しつつあり先が楽しみである。

この81年の人生を振り返り、ブラジルへの移住、マナウスからサンパウロへの移転、NGK社への入社、結婚、養女を授かった事、そして退社後の郵便局経営、全て周囲からうまく導いてくれた結果であり感謝している。振り返って、この30年間、大器晩成に近い生活で今も引き続き堪能している。この62年間たくさんの方にお世話になった。又、自分なりにも一生懸命に努力してきた結果だと思う。苦ではなかった。幸せな男である。ブラジルに来て良かった。