野口重雄
(㈱ビバビーダメディカルライフ 代表取締役)
外国人向け保険会社の創業
Viva Vida ! ブラジル特報の読者の皆様であればこの意味はお判りと思う。
2009 年 3 月に共済から保険会社に移行する際に、当時のブラジル人スタッフらと社名を考え、その言葉の意味も含め日本ではちょっとユニークなネーミングにした。
弊社は日本で唯一の外国人向け保険会社である。「少額短期保険会社」とは生命保険、損害保険の会社と同様に保険業法の下、金融庁から「認可」を受けた保険会社である。
現在は外国人技能実習生や留学生等の外国人向け保険に加え、LCI 保険シリーズとして保障内容を厳選し保険料を抑えたリーズナブルな保険を日本のマーケットに向けて販売している。
創業は 1998 年 12 月、当時のブラジルを中心とした「デカセギ」の皆さんを対象とした医療、生命の共済事業からスタートした。当時多数の日系人が来日していたが、多くの日系人は社会保険や国民健康保険に加入しない為、医療費の未払いや健康保険証の使い廻しが多発し、日系人の集住地域を中心に問題意識が高まった時期で、各地域の国保の収支が大幅に悪化し、外国人の国保加入を受け入れない自治体や、外国人お断りの病院も増えていた。
彼らから見て公的保険の保険料は高額で、将来受け取れない年金や介護の保険料負担があることが大きな要因だったが、医療制度も異なり保険に対する認識が日本人と違うこともある。将来使うかどうか分からないものに、お金を払うなどとは考えられない事で、今でも多くの外国人はそうした感覚だと思う。保険とは社会と経済の安定の上に成立するものである。
とはいえ、生身の人間なので病気や怪我は充分想定の範囲である。彼らが加入しやすい保険がないか、何かセーフティーネットが出来ないか、との相談が大東京火災海上保険で営業を担当していた私に複数の取引先企業、団体から寄せられ、検討の結果 20 年務めた会社を退社し共済会を立ち上げた。
その後、紆余曲折を経て 3 年程で契約数も 1 万件を超え、運営も軌道に乗ってきたので更なる業績向上を目指し、サンパウロでの広報・営業活動を開始した。
サンパウロでの貴重な経験
何の縁も伝手もないサンパウロだったが、日本では㈱アルファインテル佐藤社長、㈱ジェイインテル吉村社長、海外日系人協会岡野事務局長からのアドバイスを戴き、多くの現地日系社会の皆様とのご縁を得て何とか営業活動を行うことができた。
その営業対象は主に現地の送り出し機関や旅行社等だったが、活動の中で多くの方々と接し、お世話を頂いたことは大変貴重な人生の糧であり大切な思い出でだ。
特にニッケイ新聞社の高木ハウル社主、保険業の有馬庄英様には文字通り格別のご高配を賜りブラジルの様々な面を教えて頂いた。
また当時文協(ブラジル日本文化福祉協会)の上原会長や日系人初の陸軍少将となられた小原少将にもご面識を頂戴し、小泉首相訪伯時の文化協会前庭の整備やグァリューリョス国際空港脇の日系移民 100 周年記念碑設置にも若干のご協力が出来たことで、文協の小泉首相揮毫の石碑と空港記念碑には社名と個人名を刻んで頂いている。その上有難いことに文協の庭は「JARDIM VIVAVIDA!」(ビバビーダの庭園)と命名された。
そうした中「日系人に対する健康保険での支援活動が顕著である」との事で、2012 年2月6日に日伯文化協会の講堂で、畏れ多くも昭和天皇の従弟であらせられる多羅間殿下ご臨席の下、文協上原会長、飯星下院議員始め多くの皆様のご参集を戴き、救仁郷下院議員よりグランクラス勲章を拝受した。正に身に余る大変名誉な事と感謝する次第である。
残念ながらリーマンショック以降状況が激変しサンパウロ事務所は閉鎖したが、コロナ禍で行き来が難しい今でも、現地とは時折電話やメールで近況を語り合っている。
さて、サンパウロ事務所開設当初に大変印象深かった話がある。あるパーティーである日系の方から声をかけられた。「野口さんはブラジルの経験はあまりないですね。ブラジルについてお話しておきたいことがあります。
私は日系三世で小さい時から祖父や父から‘お前は日本人だ。日本人は約束を守れ、時間は正確にしろ、嘘はつくな’等と教えられてきました。私もそう努めてきましたが、今は事業も成功しています。でも野口さん、もしそうでなかったらどうだったでしょう ?」
私は「それなら今の成功はないのでしょう。正にジャポネス・ギャランチードですね。」と応えたが、答えは「いいえ、そうでなければもっとうまくいっていたでしょう。それがブラジルです。」
厳しい現実は多いが、ブラジルがあって今の当社と私があると感謝している。
親しい知人も多くサウダージを感じる。Muita Saudade !