2022年1月10日
田尻 慶一

永年に亘ってご厚誼を頂いた岡野さんとお会いできなくなって、はや1年近くになります。今でも、男らしく、なんとも言えない暖かいまなざしが、目に浮かびます。}
私も、人並みに齢を重ねていますので、もうすぐ、あの世でお会いできるかもしれません。
その前に、大分記憶が疎になってはいますが、何とか、記憶を呼び戻しながら、岡野さんの思い出の一端を記したいと思います。

  • ブラジル柔道史

2017年3月に岡野さんから頂いたお手紙に、『ブラジル柔道史にみる武士道の心―日本移民の果たした大きな役割―』と題する、ブラジル柔道史を執筆中であること、そしてその内容は、以下のようになることが、書かれていました。

序章 講道館柔道の創設と理念と実技
第1章 ブラジル柔道の創世期を担った初期移民のサムライ達
第2章 ブラジル柔道の復興期を担った若き群像
第3章 邦字新聞でたどる、ブラジル柔道の全盛期
別章  岡野脩平の柔道歴と心に残る友人・知人のエッセイ集

 

このうち、序章と第1章はすでに完成しており、第2章を現在執筆中であることが、記されていました。

これは、岡野さんにしか書けないなと思うとともに、何としても完成していただきたいと、心から願っていました。そして、岡野さんとの交信のたびごとに、そのことを申し上げてきました。

その内に、岡野さんが体調をくずされたこともあり、月刊誌「秘伝」が岡野脩平備忘録として「海を渡ったサムライーブラジル柔道の先駆者たちー」と題するシリーズを、5回にわたって掲載しました。

そこには、「”海を渡ったサムライ”たちの苦闘と活躍を綴ったブラジル講道館柔道有段者会、岡野脩平名誉会長の手記を元に、知られざるブラジル柔道の先駆者たちを掘り下げていく!」とあります。

この内容については、岡野さんの思いの一端しか現れておらず、残念であると、ご本人が言われていました。
私もそう思います。

本当は、岡野さん自らが、最後まで、執筆し、岡野さんの手で完成していただきたかったと心から思います。

  • ブラジルの講道館

ブラジルの柔道は、今や、世界的なレベルで、各層に亘って上位に位置する実力を備え、各種の世界大会で、多くのメダルを獲得しています。

しかし、例えば、1964年の東京オリンピックでは、塩沢良平選手が中量級で出場したのみです。

因みに、当時のブラジル代表を決める選手権大会では、優勝者は、塩沢か田尻かと現地のスポーツ新聞では予想されていました。(もっとも、私には全伯の代表になる資格はありませんでしたが)

私は、1960年から64年まで、八幡製鐵から派遣され、ミナスジェライス州イパチンガでウジミナス製鉄所の建設に携わる傍ら、柔道場(建設途上で出るおが屑を積み、その上にカバーを敷いた野外道場)を開き、柔道を教えるとともに自らも選手として、ミナスジェライス州の選手権大会に出場、優勝もしていました。

岡野さんが監督をされた、ミュンヘンオリンピックに出場した柔道選手も、石井千秋さんと塩沢良平さんの二人だけです。

しかし、近年のオリンピックには、女子を含めて、全階級に、代表が出て、それなりの成績を収めています。

これには、各地の柔道指導者の努力があってのことは、言うまでもありませんが、やはり、ブラジル講道館の名誉会長である岡野さんが各方面に目配り、気配りをされ、ブラジル柔道界を牽引してこられた成果だと思います。

さらには、岡野さんのご努力で、日本政府の「草の根資金」を引き出し、これを基盤にして、サンパウロ市に、「ブラジルの講道館」と言われている立派な柔道場が出来、ブラジルを代表する選手たちが、切磋琢磨している現実があります。

岡野さんが、2019年春の叙勲で、旭日単光章を受勲されたのは当然です。

その後、1970年に八幡製鐵が富士製鐵と合併し、新日本製鐵となりました。
私は、1972年に再びブラジルに派遣され、リオデジャネイロに南米事務所を設立いたしました。

新日鐵は、ウジミナスに創業以来ずっと技術指導を続けていました。

その関係で、ウジミナスから、製鉄技術だけでなく、スポーツの指導もして欲しいという要望がありました。新日鐵はその実情調査のために、柔道の神永昭夫さんと水泳の黒佐年明さんを派遣しました。

この時、岡野さんが中心となって、視察に来た神永さん達を迎えて、ブラジルの柔道界の実情を説明し、的確なアドバイスをされました。

その後、新日鐵は、神永さんの視察報告に従って、6人の柔道指導者を、延10年にわたってイパチンガに派遣しました。そして、神永さんのアドバイスを基に作られた、イパチンガの柔道場で指導を続けた結果、ピーク時には1,000人を超える部員を擁するに至り、その中から、オリンピック選手も出ています。

岡野さんが日本に来られるたびに、柔道関係者が集まり、酒を飲みながら、親しく歓談したことが、昨日のように思い出されます。

ある時は、大きなアンコウ1匹をまるごと、岡野さんを中心にして、皆で平らげたこともありました。

なお、岡野さんは、私のことを講道館に強力に推挙して下さり、6段(紅白の帯の着用が許される)の免許をいただきました。有難いことです。

  • 相撲

私が、リオデジャネイロに赴任し、事務所づくりに忙しくしていた時に、岡野さんから声がかかり、岡野さんと一緒に、ミナス州チームの一員として、全伯相撲大会に出場しました。これは、かつて1960年代にウジミナスチームとして全伯相撲大会に出ていたことを思い出してのお誘いだと思います。

サンパウロ州からは、ミュンヘンオリンピックのメダリスト石井千秋さんが出場しています。

1973年の全伯相撲大会には、日本相撲協会の代表として、先代の鶴ヶ峰親方が派遣され、四股の綺麗な豊山(二代目)を連れてきました。

「はっけよや、鶴が豊に舞いおりて、ブラジル相撲、いま盛りなり」と、川柳にうたわれた時です。

この時にミナスチームの一員として出場していたパスコアル・ボスケ(岡野さんの柔道の弟子)が、鶴ヶ峰親方の目に留まりスカウトされました。

 

パスコアルは、素質もあり、有望力士として将来を期待されていました。
そして、幕下では、「伯山桃太郎」のしこ名で、デビューしました。
しかし、膝を痛めて、残念ながら引退し、現在名古屋でパン屋になっています。  

 

  • 日伯大学

岡野さんは、柔道だけでなく、日本の心を広く伝える教育についても真摯に考え、そして、具体的な行動を率先して行われました。

2001年4月~2003年3月迄、ブラジル日本文化協会(以下文協)に設置された「日伯学園検討委員会」の委員の一人として、活躍されました。

この委員会は、【日伯学園構想に関する報告と提言】=「小中高校案」と「大学案」という形で、検討内容をまとめましたが、それ以上は何も進みませんでした。

その後、2008年のブラジル移民100周年祭を迎えるにあたり、いろいろなプロジェクト案が出てきましたが、いずれも、中途半端で、日本の協力を得られるものがありませんでした。

その時に、宮尾進(元人文研所長)氏が「日伯学園建設こそ100周年事業の本命」と題する提言を出されました。

これは、当時の日語新聞(サンパウロ新聞およびニッケイ新聞)両紙に、5回に分けて全文が掲載され、さらには、古庄雄二郎さんの資金援助により、ポルトガル語に訳されました。

これにより、多くの識者の知るところとなりました。

そして、文協にいろいろな人が集まり、「日伯学園とは何ぞや」から始まり、具体的な内容について議論を重ねました。岡野さんは常にその輪の中にいました。

その結果、既に日伯学園の理想を追って頑張っている学校があるではないかという事になり、それでは、それらの学校を応援する組織を作ろうという事で「日伯教育機構」が立ち上がりました。

そして、さらに、日本側で、その受け皿となるべく、日本ブラジル中央協会に「文化交流委員会」が設立され、今日に至っています。

岡野さんは、先の文協の委員会での結果を踏まえて、「日伯大学」構想を纏められ、その設立に向けて努力されていました。

日本語はもとより、日本文化および日本の良き伝統を、ブラジルに普及して行くことは、今後とも大きな課題であり、増々の努力が必要だと思います。

岡野さんには、兄弟のように親しくしていただき、ブラジルにおいても日本においても、大変お世話になりました。そして、いろいろなことを教わりました。

有難うございました。