田中 由美子 氏
(一般社団法人 光JSみらい)

【ブラジルで生まれ1歳半で日本へ】

生まれはブラジルの北、ベレンです。

両親が日本で出稼ぎをしていて、最初は北海道で鮭の加工をしていました。
福島の郡山で仕事をしていたときに、母が私を妊娠したので、出産のためブラジルに戻りました。私が一歳半になったとき、母が私を連れて、三重の鈴鹿に行きました。出産のために遠路ブラジルまで戻るのは大変なことだったと思いますが、母は日本語の会話は片言だったので、言葉の不安が大きく、ブラジルで産みたいと強く思っていたそうです。弟を妊娠した際も、母はブラジルに戻って出産しました。一歳半で来日してから、日本の保育園に入園しました。その頃の記憶はあまりありませんが、母によると、日本人の保育士さんでとても親身になってくれる人がいて、日本語で書かれた手紙や連絡事項も、母にわかるように伝えてくれたそうです。小学校に入ってからは、小学校の先生とのやりとりは、私が親の通訳をしていました。家庭の中では親同士の会話も、親が子どもに話しかける言葉もすべてポルトガル語でした。
その頃、母は岐阜のブラジル人学校で物理・数学の先生として勤務していたので、夏休みに岐阜のブラジル人学校に補習として行かされ、そこで算数やポルトガル語の授業を受けていました。当時の私にとってポルトガル語は家庭の外では使わない実用性のない言語だったので、そのために大事な夏休みがつぶされて、苦痛でしかなかったですね。

 

【「ユミコ」から「由美子」へ】

鈴鹿の小学校時代は、同級生にペルー、ブラジル、ボリビア出身の子がいて、外国ルーツの子が多い小学校でした。
日本語支援クラスがあって、基本的な日本語学習をそこでしていたようです。私は日本語支援クラスには入りませんでしたが、弟が低学年の間、そこで学習していました。
家庭で通訳をするように、外国から来たクラスメイトに持ち物やプリントの説明をしたり、手伝いをしていました。

その小学校にも、外国ルーツの子どもがいることは当たり前という雰囲気があったと思います。私の名前は4年生まで「タナカユミコ」(仮)と全部カタカナで書かれていました。それがいやだったので、5年生からは先生に伝えて「田中ユミコ」と名字を漢字にしてもらいました。5年生の時の担任の先生と友達と放課後おしゃべりしていたとき、ユミコにも色んな漢字があると教えてもらい、先生がいろいろな漢字をあててくれた中から「由美子」を選んで、中学校入学からは名簿は「田中由美子」にしました。
※校内での学籍の実際の扱い等、詳細は分かりかねます。

中学校は学区が違ったので、外国ルーツの子どもは中国人の子がいたくらいで、ほとんど外国ルーツの子どもがいない中学校でした。ソフトボールの部活に入って、早朝練習、土日も部活とハードでしたが、楽しく過ごしていました。私と同じく違う学区から越してきた子と一番仲良くなりました。

カタカナだった小学校と違い名前の違いはなくなりましたが、今まで気にしていなかった身体的特徴の違いが気になり始めたのがこの頃でした。友達が褒めるつもりで、私の目の明るさ、鼻の高さに言及すると、褒められているとわかっていても、「あっ、ちがうんだ」という思いを強くしました。当時は顔の見える範囲が少なくなるように、前髪を伸ばしていました。

 

【想定外のブラジル帰国に戸惑って】

中学3年の冬休みに、冬休みの間だけの予定でブラジルに帰りました。ところが、祖母の具合が悪くなり、危篤状態になってしまって、日本に戻るに戻れなくなってしまいました。高校の入試の1,2月になっても祖母の状態は良くならず、日本に帰れないまま、卒業式も過ぎてしまいました。祖母はその年の7月に亡くなりました。進学の時期を逃してしまったため、日本には戻らず、ブラジルで学校に行くことになりました。

三重県某市の私立高校に進学する予定だったので、入学金や願書も用意してありました。初めての電車通学になることにわくわくしていました。
なので、そのタイミングでブラジルにとどまることになって、当時は最悪だと思っていました。いやだいやだと親には言っていましたが、仕方ないと言われて丸め込まれていたように思います。
15歳で初めてブラジルで学校に通いました。先生の言っているポルトガル語は理解できますが、先生が言った単語のスペルが書けなかったり、自分のポルトガル語は会話力であって、読み書きの力が十分でないことを痛感しました。
教科書を読むことはできますが、意味が頭に入ってくるまでに3,4回は読まないといけない状況でした。日本語だったら、一度読むとそのまま理解できますが、ポルトガル語だと理解するまでに時間がかかりました。高校・大学とブラジルで教育を受けて、ポルトガル語で読むことに次第に慣れていきました。

 

【これまのですべてを糧にして、教育の道へ】

16歳から日本語教師として仕事を始めました。建築学科に行くつもりだったので、時間を持て余す中でバイト感覚で始めたのがきっかけでした。
最初は子どもクラスから始めて、とても楽しかったです。成人クラスも持つようになり、ずいぶん年上の生徒から「マダム田中」のように敬称を付けられるのは最初は慣れませんでした。私の性格上、生徒と近い距離感で、友達のようなフランクな雰囲気で授業をしていました。私は基本的に他人に興味はありませんが、自分の生徒は大好きです。自分の生徒であることで、もうとても愛おしいです。同僚のことも大好きです。
勤務先の日本語学校の環境も良く、日本語教師の養成コースや研修コースは毎年参加するのが当たり前でした。研修は義務というより、実りのある楽しい研修でした。毎年参加することで、他の日本語学校の教師仲間もできました。
大学は私立の建築学部に入学しましたが、国立の教育学部に合格したため、転校し、将来教師として生きる道に目を向け始めました。
日本語学校の校長先生のすすめで、高校時代にブラジル国内の日系の日本語教師研修に参加、大学進学後に三ヶ月、横浜の研修に参加しました。大学3年時には一年間京都の教育大学に留学し、ずっと教育に関わっていくという気持ちが強くなってきました。
今後日本の大学院に進学予定で、専門は第二言語習得です。子どもはずっと好きで、子どもへの思いは熱いものがあります。ブラジルの日本語学校で働いていたとき、子どもと関わって、子どもはこちらがちゃんと関わって注意を向けると、すごい愛情を返してくれると感じました。
ブラジルの大学で教育学を学んだときには保育の授業も多く、「子どもが希望である」という考えには、もう共感しかありません。将来も子どもと関わることをしていたい。自分の家族も作りたいですね。

一般社団法人 光JSみらいの仕事では、子どもに合わせて自由度の高い授業ができるので、とても合っていると感じます。外国ルーツの子どもと境遇が重なるところがある分、実情を理解できるし、共感もあります。あの頃の私たち家族が欲しかったサポートをいま形にできる喜びも感じます。
光JSみらいを通して、外国ルーツの子どもや家族と関わりながら、自分の子ども時代のことを思い起こします。幼い子どもだったのに通訳をやらざるを得ないことはストレスでしたが、成長する中でその経験があって良かったと思えるようになりました。今頑張ることは必ず実るし、必ず人生の糧になる。頑張れるなら、いつ何時でも頑張った方が自分の力になる、と思います。