執筆者:深沢正雪 氏(ブラジル日報編集長)

この記事は、2023年7月11日付けの「ブラジル日報」の記者コラムを同紙の許可を得て転載させていただいたものです。

長野県の小学校の金次郎像寄贈者が在南米

 

「義家友之助ご本人か関係者の方がいらっしゃったら、この金次郎さんを見ていただき、その心境をお聞きしたい」――長野県北佐久郡に住む沼田清さん(77歳)から5月にメールが届き、そこには長野市立川田小学校の校庭に建立された二宮金次郎像の写真が掲載されたブログのリンク(https://blog.goo.ne.jp/numatakiyoshi/e/543d24d1d87c68b9208b51fe4eeec102)が張ってあった。銅製の立派な像の足元には、寄贈者名として「在南米ブラジル 義家友之助 昭和29(1954)年9月15日」とあり、さっそく探してみた。

ブログの作者、沼田さんは長野県北佐久郡御代田町在住。40年前に埼玉県日高市の開拓地だった場所に住んでいた頃、戦前戦後に苦労した入植者が建立した報徳神社(二宮尊徳)があった。そこで「境内に二宮金次郎像を立ててはどうか」という声が若者から沸き、秋の例大祭に合わせて建立。その経験から金次郎像研究が始まった。

少子化の波もあって小学校が統合・併合され、新設校には金次郎像がない。「廃校になった校庭にひっそりとたつ金次郎像がいつの間にか消えていくのを寂しく見ておりますが、どうしようもありません。しかし、薪を背負った金次郎像には必ず寄贈者がいらっしゃいます。寄贈者のお心を想うと黙って消えていくのを見てるわけには行けません」と思い立ち調査を始めた。

これまで10年ぐらいで長野、群馬、埼玉、新潟、北海道、広島、静岡、台湾などで200体以上見つけた。「いずれは全数調査したい」と考えている。その途中、4月末に義家さん寄贈の金次郎像を見つけ、ブラジルの邦字紙に問い合わせてみたという経緯だ。

義家友之助さんを探して

さっそく本紙が「義家友之助」名でネット検索すると、国際日本文化研究センターサイト内の『日本新聞』PDF版が引っ掛かった。戦前にサンパウロ市で発行されていたこの新聞は1932年1月に翁長(おなが)助成によって創刊され、最盛期には7500部程度の発行部数で、当時4番目の邦字紙だった。

その1935年9月27日付6面の「東北地方凶作義援金寄附者芳名第11回」のパラナ州コルネリオ・プロコピオ駅のところに《六ミル義家友之助》と書かれている。最高額が10ミル、最低額が2ミルなので多めの金額だ。さらに同紙1936年12月16日付4面の広告欄にも「西村組」という土建会社の運搬部門の責任者3人の中にも義家友之助と書かれており、住所はやはりコルネリオ・プロコピオになっている。これは北パラナのトレス・バラス移住地(アサイ移住地)の造成に関わった会社で2段ぶち抜きの大きな広告だ。

つまり、戦前にコルネリオ・プロコピオに住んでいた「義家友之助」がいることは間違いない。珍しい苗字なので多くはないはずだ。そこで、ブラジル日本移民史料館の移住者データベース「ASHIATO」で調べると、一人だけ該当した。1919年3月25日サントス着の博多丸で渡伯した人物に「義家友之助」がいた。しかも出身地が長野県。カナン耕地に入植したようだ。

同データベースで長野県出身の戦前移住者の「義家友之助」は一人しかない。おそらく彼に間違いないだろう。もしかして子孫が今もコルネリオ・プロコピオに在住していないかと考え、同地文化体育協会のコダイト・マコト会長に相談したところ、孫の義家マサコさんを探し出してくれた。

 

終戦後、親族支援など〝移住者の夢の実現〟

 

マサコさんを通じて友之助さんの息子、力太郎さん(92歳)が存命で、娘で医者のミチコさんと一緒にパラナ州都クリチーバに住んでいることが分かった。7月2日にワッツアップでミチコさんと話ができ、沼田さんのブログの金次郎像を見て大変喜んだ。「20年ほど前に観光で訪日した両親が長野に立ち寄り、この像を見てきたという話を母から聞いていた」とのこと。ミチコさんによれば、友之助さんは1919年に渡伯し、その後ミナス・ジェライス州のイガラパーバ農場に配耕され、「食糧や生活用品は全て農場内の売店において高値で買わされるなど、奴隷のように働かされるのに嫌気がさして夜逃げした」という。

当時最前線の開拓地だった北パラナに向かい、コルネリオ・プロコピオに集まった日本人でノーバ・イガラパーバ植民地を作った。「皆で協力して原始林を切り開き、コーヒー農園を作って、それなりに成功したようです。その売り上げから東北地方凶作義援金などを出したのではないでしょうか」さらに「おじいちゃんは故郷長野に強い愛着を持っていたのだと思います。だから戦後、農業で貯めたお金をもって行き、戦争で辛い思いをした郷里の親戚を助けようと思ったのではないでしょうか」と推測する。

友之助さんは1972年、「私が12、3歳の頃に亡くなったので、昔話はあまり聞いていません。とても優しい大好きなおじいさんでした。すき焼きが大好きで、よく作って皆に振る舞ってくれました」と懐かしそうに語った。母光子さんは8年前に亡くなり、父力太郎さんは数年前に耳が聞こえなくなり、記憶も定かではなくなっているとのこと。コーヒーで儲けて戦後に故郷の親族を支援するだけでなく、母校の校庭に二宮金次郎の銅像を人知れず建てるというのは〝移住者の夢の実現〟といって良い例ではないだろうか。

 

ブラジルに3体の金次郎像

文協の日本庭園にある金次郎像

これを機会に、ブラジルにある金次郎像を調べてみると、3体あることが分かった。ブラジル日本文化福祉協会の日本庭園、サンパウロ州ジャクピランガ市、同州パリケラアス市だ。

文協にある1体が日本から送られた経緯には、当時神奈川県知事だった松沢しげふみ参議院議員が深く関わっていたとブログ(https://www.matsuzawa.com/2022/04/5435/)に書かれている。移民100周年の2008年に知事として来伯した際、《日系移民は尊徳思想や報徳仕法を耕地開拓の実践に活かして労働に励んだ》ことを知った。帰国後に県人会からのメールで、《郷土神奈川が生んだ偉人であり、日本の精神文化の一つの象徴であり、日系移民の心の支えであった二宮金次郎の思想を、移民百周年を機会にブラジルの若い人達にも広めていきたい。ついては、ブラジルには二宮金次郎の像がない。ぜひ、神奈川県から贈っていただけないか》との依頼あった。

そこから金次郎像をブラジルに送る募金プロジェクトが始められ、翌09年2月にサンパウロ市の神奈川県人会会館で金次郎像の除幕式が行われ、翌年に文協に移設された。残りの2体は、いずれもサンパウロ州南部リベイラ沿岸地方だ。やはり2008年、両市の日本移民100周年祭実行委員長だった齊藤咲男さん(84歳、2世)を中心に、記念事業としてブラジルで造られた。

ジャクピランガ市で開催された「第9回少年柔道金次郎杯」。左から二人目が市長、小室首席領事、齊藤咲男さん、水本セルソさん(榎原良一さん提供)

ジャクピランガ市の金次郎像の前で、左から水本セルソさん、市長夫妻、齊藤咲男さん、小室首席領事(榎原良一さん提供)

ブラルジ金次郎会を設立

 

齊藤さんは、子供の頃から母親に「二宮金次郎のような立派な人間になれ」と繰り返し言われており、「この母親の教えが大人になっても頭から離れなかった」という。この金次郎への強い思いが金次郎像の建立、2010年のブラジル金次郎会(Instituto Ninomiya Kinjiro do Brasil)の設立へとつながり、初代会長になり、報徳博物館への留学制度も開始された。報徳博物館は、二宮金次郎こと二宮尊徳の実績と思想・方法論を紹介する、神奈川県小田原市にある博物館だ。

現在の金次郎会の会員数は20人(サンパウロ市支部10人、ジャクピランガ支部10人)。サンパウロ市支部ではコロナ前、前会長の浅海護也(あさうみもりや)さんが定期的に、報徳思想を学ぶ月例会を開催していた。だがコロナ渦により中断。文協理事・水本セルソさんが会長となった現在、活動再開の試行錯誤を始めているという。齊藤さんは同会設立後に、市役所の協力を得て少年柔道教室を始めていた。柔道を通してブラジル人子弟に礼儀やしつけを教えることは、報徳思想の普及に繋がるとの考えからだ。

そしてこの6月24日、ジャクピランガ市の市制95周年と日本移民115周年を兼ねて「第9回少年柔道金次郎杯」が同市行事として開催された。参加した榎原良一さんによれば、大会参加者に日系人は多くないにも関わらず、開会式では日本の国歌斉唱があり、子供達も「誕生日お祝いのパラベンス!」も歌って115周年を祝ったという。来賓としてジャクピランガ市長夫妻と小室千帆在サンパウロ首席領事も出席。会場の入り口の横では、塗り絵や折り紙教室も開催された。指導者のミツコさんは、報徳博物館への最初の留学生だ。又、齊藤さん宛の二宮尊徳の玄孫の二宮精三さんからのお祝いメッセージも読み上げられた。

戦前に義家友之助さんのような形で伝えられてきた報徳思想は現在、2世世代に引き継がれ、大きくは無くとも着実に根を下ろしてきている様だ。(深)